第5回 知恵蔵の時間 関和一さん

知恵蔵の時間 第5回  講話 関和一さん

「北御牧 昭和の農業」

2018年9月9日 14時~   

於 まる屋  司会 小林恭介  撮影 橘正人

司会 こんにちは 今日はすごいですね。やっぱり人柄なんですね。関さんの、今、聞いたら、癒し系だというお話し(笑い)癒し系のキャラが、これだけ女性からモテモテだということが、よく分かりまして。憎いですね。それだけ地域の中でご活躍されてきたのかなと感じます。これから始めるのは知恵蔵の時間といいまして、この八重原とか、北御牧という所のお話しをみんなで聞こうという会です。今回5回目になります。今日は関さんのほうから、ずっと農業をやられてきたりとか、JA北御牧の組合長さんをやってきたりとか、本当に地域のいろんなことに関わられてきた、それにさっきお話しを聞いたら、結構悪ガキだったとか、聞いていますので、そういうお話しも含めて関さんの人生、子供の頃からの話を聞きながら、みんなで良い時間にしていこうと思います。僕はこの会の司会を務めさせて頂いてます小林恭介といいまして、妻がこのまる屋というお店をやっています。よろしくお願いします。この会は、今日は関さんが来てくれてますが、一方的にお話しをする会ではなくて、みんなが聞きたいことをどんどん聞いて貰える会にしていますので、お話ししているなかで、これ、訊いてみたいな、とか、そういうことがあったらどんどん話題を振ってください。その方が関さんもお話ししやすいと思いますから。そんな感じでいきたいと思います。せっかくみなさんが集まっているので、多分みなさん知り合い同士かも知れませんけれども、ちょっと簡単に自己紹介と、どこに住んでいるのかを教えてくれると有り難いと思います。で、私から行きますが、3年前からこの芸術むらという所に暮らしています。この北御牧に来て間もないので、ぜんぜん良く分からないんですけれども、みなさんからいろいろお話しを聞いて勉強したいと思っています。よろしくお願いします。

TM TMと申します。みなさんとは、お馴染みの方がたくさんいらっしゃいます。合併になった時に写真プロジェクトということでみなさんの笑顔の写真をたくさん撮らせて頂きました。東京に住んでおります。

AK 私は腰が痛くて、座ってね。私はAKといいます。和一さんと同じ中八重原、わいっちゃん、わいっちゃんと、健康大学も、老人大学も一緒で、本当に癒し系でね、

女の人に気遣いがいいんです、わいっちゃんは。それで自動車に乗るとクラシックの音楽を掛けてくれて、「おれも気い遣ってっだわい」って。癒し系でね、楽しかったよ。そんなわけでみんな知ってっから。自己紹介はこれくらい。

TY 最初のこの村との関わりは、絵画館のオープンに関わらして頂きました。現在はTYと申しまして、この人と一緒になっております。よろしくお願いいたします。

いずれこの場所に住まわせて頂きたいと思っております。

YM 私も関さんと同じ部落で、大変、普段からお世話になっています。YMです。よろしくお願いします。

IM 私も和一さんの前の家に住んでします。(笑い)本当にユニークな方で、字も素敵で、お話しも楽しくて、今日も楽しみに見に来ました。

KM 上八重原から来ました、KMといいます。今日はある人にお声を掛けて頂いて、初めての参加ですけれどもよろしくお願いします。

KK 御牧原のKKです。毎回参加してますけれども、やみつきになっちゃいましたね。(笑い)いろんな人の人生が聞けて、なんか楽しいんだよね。だもんで、今度は誰だろう、って。聞くたんびに深くなってく、そういうのがあって。ぜひぜひここを利用して、みんなの話を聞きたいなと思って来ました。よろしくお願いします。

SK 中八重原のSと申します。和一さんの下の家で、東側になるんです。和一さんの話なんで、今日初めての参加です。よろしくお願いします。

AY 私は下八重原っていう、この下だよね、に住んでいます。AYと申します。みなさんすでにご承知だと思いますけれども、2年ばかり前になるわけですが、「黒沢嘉兵衛物語」という本を出しました。それは私が書いた訳じゃないですが、黒沢家の末裔の人が書いた文章をまとめたものです。この間、市民大学というのがありました。その時に公民館長の方から、観光委員長をやってたもんだからね、本の内容をちょっと話をしてくんないかということで、市民大学でちょっと話をしたんです。他の人たちも一緒にやってくれたんだけどさ、3回くらい、ケーブルテレビで流したんだよね。みんな聞いてくれたかどうか分からないけど。(笑い)八重原用水、八重原はもともと水のない所だったからね、ここに芸術むらっていう素晴らしい所が出来た訳ですが、ちょっと紹介をしただけです。よろしくお願いします。

OY ここから歩いて5分の所に、千葉県の市川とまだ2カ所居住で、こちらの方で夫が野菜を作って、私がジャムを作って、というような生活をもう11年やっておりまして、それでも八重原について知らないことがいっぱいあるので、今日はとても楽しみに伺いました。夫は下の田んぼでちょっと支度があるので、稲刈り直前なので、今日はちょっと参加できなかったんですけれども。よろしくお願いします。

NM 御牧原から来ました野田と申します。もうこちらにお世話になってから、丸11年になります。畳何畳かの庭先園芸で、真似事をやってます。関心がありまして、是非お聞きしたいと思って出席させて頂きました。

NW その妻です。八重原米が美味しくて、友達が遊びに来た時に炊いて食べさせたら、帰りに残りを全部おにぎりにして持って帰りました。米の味が全然分からなかったんですけれども、こっちに来て、こんなに美味しいお米があるんだなっていう。今日は八重原っていうタイトルだったので、興味を持って出席させて頂きました。よろしくお願いいたします。

KM こんにちは、今日は御牧原の南部からきました御牧ふれあいの里協議会で広報を担当してまして、そう、そちらの取材なんですが、地元のこういう方達と話す機会がないので、興味を持って関さんの話を聞きに来ました。よろしくお願いします。

YN 中八重原の栁沢です。和一さんとはご近所で、日頃お世話になっております。よろしくお願いします。

UA 同じく中八重原のUAと申します。お嫁に来たもんで中八重原のことを、住んでいるんですけれども何も分かっていないという。それで和一さんにはいつもお世話になってるんで、お庭とかも拝見させてもらってたりしてて、お話しとかもユーモアたっぷりなんで、楽しみにして来ました。よろしくお願いします。

IY 中八重原のIです。私もお嫁に来て50年近くなるんですが、「農」ということは全く頭にないので、今日はとってもユニークなお話しをしてくださる関さんに惹かれまして、八重原の「農」についてちょっと聞いてみようと思って来ました。お願いします。(笑い)

司会 関さんの自宅の、お近くの皆さんが、応援団となって来てくださいまして、本当に有り難うございます。また遠くからもお越し下さいまして有り難うございます。関さんの所からこれをちょっと借りて来たんですけれども、(2個の石器をテーブルに出して)これは畑で出たらしいんですけど、この説明からお願いしたいんですが。ちょっと教えてもらいながら、お話しが伺えたらいいなと思うんですけど。

関和一 まあ、これはね、柳沢幹夫さんの畑の傍から、これは一番いいと思うな、石器のね、あれがうんと出るだね。こういうふうに加工してね、何の加工だか知らねえが、これだけの石を刻むってばな、今、鉄でやったって大変なのに、たぶん石同士でこう、叩いて加工したもんだと思うけどね。なんか、食器かなあ。何だか知らねえがね。こういうもんがこっちの畑からたくさん出るの。

AK みんなに廻してみせたらいいんじゃない?

司会 じゃあ、廻しましょう。

関和一 斧の関係じゃないかい。

AK たくさん出ても、大事な石だって分からないものね。

YN だからこれを拾って調べるってことが、大したことだね。

関和一 それは、あったから拾って来て置いといただけ。(笑い)それ、ゆっくり見ながらね、俺、お話ししたいと思います。今日は話をするってことで、お昼前、草刈りに行ってね、まあいろいろ考えていたです。そうしたら稲の所にさ、トンボがつるんでな、それで後ろのトンボが稲の所にさっとこう、気持ち良くね、踊っていたです。なんか秋のこう、感じが本当に出ておりました。それで古い話っていうか、50年、60年くらい前のことですがね、その当時は代掻き、今はトラクターでぱっとやっちゃうけど、昔は馬で代を掻くだ。それは鼻取りをする人と、馬鍬を持つ人と、それがこう、しんどりをやってる人は田圃の様子が後ろにいるからよく分かるが、鼻取りする人はね、なかなか田圃の、代掻いたとこの確認が上手くできないだね。それでしんどりと、鼻取りはどうしても上手くいかない。しんどりが兄弟だとひどく怒るし、親子だと若干ね、大事に扱ってくれる。一番いいのは夫婦でやるとね、案外上手くいく、という作業でした。俺はすぐ前の忠善さん。親父様がまさよしさん。俺っち代掻きの鼻取りに頼まれたわけで来た。俺は鼻取りは出来るけど、嫌だかったんだよ。

KM いくつの頃です?

関和一 えーっ、20歳前。俺は嫌だって言ったんだけど、家の人がまあ近所の人だから行ってやれってわけで、やむを得ず行ったですがね。それで代掻くわけですが、家の者がほとんど後ろで、馬鍬という木で出来たので押さえてずっと行くわけです。俺は鼻取りだから、馬のね、まあこう竹が付いてて、それでずーっと行くわけです。それが馬だから、まあ、早いのはいい。(笑い)ぱたぱたやってるからびっしょりになっちゃう。それで鼻取りをずーっとやって半日中。まあ大体、半日やれば水掛かったとこは終えちゃうね。それが、水が多いと困るし、少ないとまた馬が大変なんだよ。まあ、そんなことで、びっしょりになって背中がびっしょりになって当時は代掻きをやった。それだまあ、中には蓑、藁で出来た雨よけの、それを着てやると濡れないで作業が上手く出来たというわけです。まあそれで田植え。

司会 あの、牛じゃなくて馬なんですね。

関和一 当時は大体、馬。牛の流行って来たのが、昭和の中頃。なぜ牛が流行ったかというと、牛がとても良い値になったの。それで牛に切り替えて、子を取って売って、子の代金と、作業が出来たということです。作業という点では馬の方がね、それで馬は荷物を遠くまで輸送出来る。大正時代なんかは田中の駅から大体馬で行ってたから。そんで運んだだから。道路が凍っててね。馬が足滑らせて転ぶとかね。それで馬に藁靴を履かせてやったと。そんな大正時代の状況でした。それで田植えが始まるわけです。田植えはまあ、昔は縄をぴーんと張ってね、人を頼んで、女性も頼んで、女衆(おんなしょう・奥さん)も頼んで。俺も若かったから若い女性と一緒になって縄をね、当時もやっぱり女性の傍で植えるっていうのは(笑い)嬉しかったね。そんなわけで。

司会 いいとこ見せたくなりますよね。

関和一 カッコつけちゃってな。(笑い)

AK その代掻きだって荒代、中代、植代、って3度掻いて田植えになっただよ。

それを今じゃトラクターでダダってやりゃ、わけなくやっちゃうけど、容易じゃなかった。

IY 田圃だって今みたいに大きくないでしょ。

AK 小さいよ。圃場整備なんて出来てなかったから、今みたいに。

AY それがさ、俺は親父と二人でやってただけどな、鼻取りって言ってたじゃない、和一ちゃんが。俺は牛でやってたんだけど、びしゃびしゃになっちゃうんだよな、やっぱり。同じとこいつも歩くんだよ。親父に「同じとこに、また来てんじゃないか」って言われてな(笑い)いっそ、はかがいかないんだよ。

AK 私も嫁に来てやったけどね。

関和一 昭和の時代はそうだった。

AK そうすると牛の目やなんかの所にアブが来て、まず可哀想でさ。びっしりと付いて、牛が尻尾でパーン、パーンって、鼻取りでもどこでも飛び散るんだよ。話は長いことだが。(笑い)苦労しただわい。

関和一 まあ、それで女性が、主婦が大変苦労したですがね。田植えの時期と、それと養蚕の時期と、重なるわけでしょ。だから女衆(おんなしょう・奥さん)はご飯の用意をしたり、おやつの用意をしたり、田植えに。

AK 子供の面倒を見たりな。

関和一 すべて背負ってね、まあ日本の農業を支えた女性がここに、いっぱいいるわけです。本当にあれは大変だったよな。すべてが一緒だものな。それで蚕ってったって、昔は蚕の桑採りだってね、桑採って、腰のなり、背負子籠(しょいこかご)を背負って来ただからな。今はもう道路も良くなったし、軽トラでね、どんなに少なくも、今は軽トラだし、ちょっと歩いて行かれるとこでも、軽トラだもの。(笑い)良い時代になったね。

AK 良い時代だに。

司会 昔はリヤカーじゃなかったんですか?全部背負子(しょいこ)だったんですね。

関和一 リヤカーの時代はその後ね。わずかだったね、リヤカーは。あとは耕耘機になっちゃったからね。

AK 八重原は粘土だからな。タイヤやあそこに、みーんなくっついちゃって。足は滑るだし。大変なもんだったっけ。

関和一 それでも蚕が片付いたり、いろいろすればまた養蚕組合とかね、そういうとこで別所の、みどり屋かい?みどり屋に2泊3日くらい出掛けた。そんな楽しいこともね、あったね。(笑い)

AK 思ったより遠かないよ、いちがいには。

AY 下八重原の方では上田なんかに行ってたよ。

AK うちの方は別所の次は上山田。山崎の人が支配人かなんかやってて。なんでもそこがお得意で行ってたよ。

司会 バスかなんかで行くんですか?

AK お迎えの自動車が来るんだよ。

司会 宿から?

AY そう、宿から。

AK 60年も前はさ、ほとんどそういう所へは姑様が行ってたんだよ。(笑い)たいていお婆様たちが行ってた。だから嫁さんは苦労したんだよ。今は今の苦労だが、昔は昔の苦労があったんだよ。

関和一 そんな楽しいね、こともあったし、それからちょっと時代がこっちに来て、薬用人参が盛んになったね。もう誰もが薬用人参つくって、この辺ずーっと薬用人参の小屋ばっかし。3人寄れば薬用人参の話。儲かったって。

YN あれが一番お金になったものね。

関和一 儲かったね。6年生?(しょう)まで。5年生で上手くいかなくて、4年で掘ったりとかね。東部町の方に多かったね。ゆらり館の傍までトラックで。中古のトラックを買ってね。あれが、今は基盤整備やって、ずーっとブドウが出来てるでしょ。俺らの時は区画もいろいろやって、あそこに桑やらいろいろな作物があってね、桑畑の荒れた所を借りてやったっけな。始まりは良かっただけどな、基盤整備やってっから一遍やったが、あれは駄目だったな。基盤整備は表土をあちこち、ばら撒いちゃうから。今は良いぶどう畑でな。立派になって。

司会 薬用人参は誰が始めたんですか?

関和一 うーん、割合あれだね、昭和時代から少しずつあってね、それが昭和の中頃爆発的な解禁作物で、栽培を研究するのが御牧原地研。

OY まだ薬用人参作っている方はいらっしゃいます?今現在。

AK いない。

関和一 俺ひとり。

KK 南部だって中丸さんなどだけだよね。

AK それだって、この八重原っていうか、北御牧は基幹作物のサイクルがいいだよ。稲を刈っちゃえば人参の代になってさ、大根が上がれば稲刈りになってさ、和一ちゃん、大事なことはあれだに、一度作りゃ6年間も作らないってことだよ。

関和一 まあ、こうやって、やってきてみてね、除草剤の発達と、これがまあ、とってもあれだね、主婦の労力軽減にね、まあ草掻きってば、女の人の仕事じゃないかって気がする。大変なんだよ。だから除草剤っていうのが。

AK だから、それが一番良かったよ。田の草取りがなくなったことだよ。そのときにゃお面をかぶってさ(笑い)稲が長くなっちゃうから。背中によもぎを背負って、暑いから。お蚕の世話の合間に田の草とってな。除草剤が出来てから、それがなくなって。

AY 24Dとかいうやつが出来てな。あれで、えらい楽になったでな。

AK みんなが集まるといろいろな話が出るから、面白いよな。黙って聞いているよりさ。話し残したことがあったって、大勢いればさ、いろいろな話題が出るからな。

AY 面白いから、そのまま話を続けて(笑い)。だけど、そんないろんな話を入れちゃいけないな。(笑い)

関和一 まあ、年代ごとに作り物が変ってくるが、その後はあれだね、モロコシが、えらいモロコシが、農協に持ってっても、あの、農協の集荷場、知ってます?あれからこっち側の所まで続くくらい、モロコシで。

AK 美味しくてな。

関和一 毎日毎日そのくらい出て、渡辺やすお様がえらい力を入れてな。あんなこんじゃだめだ、こんなこんじゃだめだって、段ボールに入れて言われて。なかなかえれえ荷物だから、たまには変なものが交ざってるさ。

IY そのころは全部農協だったんですね。

関和一 そう、全部ね。それで、余ったっていうか、ちょっと痛んだやつはね、近所にお配りして、あがって頂いた、ということだね。

IY 今の方が直売所があるから、もっとはぶけるのかな?

関和一 そうだね、直売所は検査もないし、ちょっと品質が悪くてもいいじゃない。

AY そのかわり売れなきゃ自分で持って帰んなきゃいけない。

司会 そのトウモロコシは何処に出荷するんですか?

関和一 農産物はだいたい農協で集荷ね。それで農協を通じて市場なり、直接ね、最盛期は殆ど東京。それからこの間ってことはないが、軽井沢。上田の市場に出すこともね。

AK 白土馬鈴薯だわ、こんどは味研の大豆だ。順にやってかなくちゃならねえが、年とって作れなくなっちゃったな。若い衆がやらないから。

関和一 馬鈴薯というのも、一時は栽培者が多かったね。あれはまあ、日陰でね、選別してやるから、わりあい良い仕事っていうかね。しかしあれも連作がちょっと続くと品質が落ちちゃって、肌が悪くなっちゃったりね。馬鈴薯なんかも大きい農産物、現金収入のね。

AY 大阪の市場で相当喜んでただよな。

KK 8月31日に白土馬鈴薯、テレビに出たんだよね。そしたら雷電の市場に白土馬鈴薯がばあっと出たってね。

AK この前、SBCのね、中村真ちゃんが。やっぱ、いい馬鈴薯だわな。

AY それは夏のお盆までに出しちまわないと安くなっちゃうからな。

KK 一箱が30キロでさ、2千円以上、3千円近くなるからね。今年はちょっと安かったみたいだけどね。穫れたんだね。

司会 それだけいい値段が付くのはどういう理由からですか、品質ですか。

KK 品質です。

KM 厳しかったですよね、チェックは。農協でさ、箱開けてさ。はぶかれた、はぶかれた。

AK だって、病気になるだよ。うちの方の、憩いの家だってさ、みんなが生産から加工、販売までやってたが、べと病になって腐ってたとか、腐って腐って、それこそいいやつを持って来て置いてあったのが、腐るだよ。食べれば美味しいが、腐った臭いはいただけないよ。

関和一 白土馬鈴薯の盛況はね、検査もしたりして。あとは小諸の白石さんという人が、いやあ、市場に行けば、幅利かせて。もう、胸張ってね、白石さん通ればもう、みんな頭が下がる。それくらい市場への出荷量が多かったです。

AK だって出荷するったって、憩いの家だってみんな磨いてさ、それで箱詰めにするだから、掘りっぱなしの土のついたやつ出せば良いと思うが、やっぱりスーパーに並べると埃になっちゃって駄目だって。土が付いてれば。

KM 袋も汚れちゃうしね。

AK 出荷っつうものは難しい。だから消費者がああだ、こうだ言ったって生産者だって苦労してるだよな。本当に大変なもんだよ。

司会 なんで白土って言うんですか?

KK 皮膚の色が普通の茶色じゃなくて、黄金色なの。きれいな黄金色してるんですよ。

司会 品種は関係ないんですよね。

KK 男爵です。

AK メークインとか、ああいうのはポテトチップスにすりゃ、芽が少ないからいいけどさ。男爵は芽が多くってな。でもふかふかして美味しいよ。ポテトサラダなんて、最高。

司会 じゃあ、品種は男爵だけなんですね。

AK 今は色々あるけど、出荷はな、ほとんど男爵だな。ちょっと話はそれるが、白土馬鈴薯の注文が、わしらが作ったのにも、うんとあってさ、自分たちのじゃ消費者には間に合わなくって、一般から出してもらってさ、そして売ったんだよ。それだけどね、テレビで宣伝されると、全国から注文が来ること。それで応じきれなくって。それで出してやってもらったけど、最初はみんなお金で送ってくれるんだに。そのうちにさ、もっと従姉妹があそこにいるから送ってくれ、こっちにいるから送ってくれって、あの、おやきもそう、諏訪の人の旦那がちょうどお医者さんに行く時、そのお芋を持ってけば、病人も喜ぶかも知れないって、こっちもそれは早く送らなくちゃいけないって、送ってやったって全然お金を払ってくれない。(笑い)それでね、そういう人が50箱、60箱くらい送り出しても、2件あったよ。千葉の人と。千葉のパーマ屋さんて人でさ。幾度やったって送ってよこさないんだ。今日は出張して髪結いをやってた、今日は病院に行ってたとかって払ってくれない。ちょうど望月の刑事の人が憩いの家に来てさ、「じゃあ、俺が電話を掛けてやるわい」って電話掛けたってやらない。そのおやきだって、あっちに送ってください、こっちに送ってくださいって。一回だけはお金を送ってよこして。あちこちに送らして一切お金くれないでさ。請求すれば「あちこちやってるから、どこか分からなくなっちゃった」って。テレビで放映すれば、こういう人のいいお母さんたちがさ、注文してくれるって思ったろうけど、そういう人は詐欺だよ。千葉なんて知らない所に3千円くらいの芋のことで、集金に行けないよ。そういう人も世の中にいるのを知らないから、喜んで送ってやって。そういうこともあったし、色々の思い出があるよ。

関和一 3時に近くなって来たもんで、時代の流れを辿ってみたいと思います。農協から見た感じですが、農協も農産物でね、農協という運営が成り立っていった。それが、時代が大きく変わって来てね、今は年金の取り扱いが農協経営の主体となってる。お互いの生活もね、ある程度、みんなが年金もらえるね、時代になって、そのことによってみんなが、年寄りも若い者もお金に恵まれ、豊かなね、農村になってきた。ということですが、やっぱし良い時代になってきた。八重原の方へは良い嫁さんがいっぱい来るように、そんなことを願って私の話を終わりにしたいと思います。大変どうもありがとうございました。

(拍手)

司会 あの、ちょっと質問とかをね、したいと思います。一人ずつ聞いていきましょうか。

TM 関さんにお話しを伺いたいのは、ここは戦時中に陸軍士官学校の馬が、ここにたくさん来ていました。その時にずいぶん、あの、関さんがまだ子供の時に、馬と何かいろんなことがあったみたいなんで、その時のことを、思い出をちょっと聞かせてください。

関和一 えっと、たぶんね、俺、小学校3年の頃、士官学校の馬が来て、壕を掘るってわけだ。明神様の横にちょっと。

AY 今でも残ってるよ。

関和一 残ってるでしょ。あれを掘って、掘りに3年生が出たの、スコップ持って。いくらも仕事なんて出来なかったですね。それがどうして、そういうふうに壕を掘ったかって、

半地下式、半分は地下にして、半分は外に出ててね、それで馬小屋にするということで、あそこに2つか、4つ、それからこっちにもあって。その時に士官学校の馬が、この山の中に繋いであったよ。ここのとこの水、終戦の年の夏の7月頃かな、6月くらいかな、いっぱいいてさ、水もいっぱい落としてあったよな。だからあれが、干ばつがずっと続くとこの池は空になっちゃって、その時どうするかも考えなかった。今になって考えりゃ水を入れれば馬は困っちゃうなって。

IY 士官学校ってなんですか?

AY 士官学校ってね、昭和20年の1月か2月頃だと思うが、神奈川県の座間ってあるでしょ。そこから陸軍士官学校ってのが、兵隊の上の人たちを教育させる学校が、それがね、本体は望月の、今の望月高校の所にあったんです。馬の部隊だけが八重原に来たんです。終戦は8月15日で、終わっちゃったんですよね、戦争は。その後ね、馬を払い下げてもらっていた人もいたんだよ。1頭幾らだか知らないが。そういうことが書いてありますよ。

関和一 御牧原にもやっぱり士官学校のあれが来て、葡萄園、あの周辺へ。

KK このへん、昔から御料牧場があるとこだから、台地がね。

AY 要するに松代の所に天皇が来るだかなんだかって、やったことがあったでしょう。大本営。本土決戦っていうか、戦争が終わる頃になって、東京の方に本部を置いちゃいけないわけだ。こっちの長野県の方が控えのような形になっちゃったわけだ。松代の辺りに天皇様の住まいを造ったわけでしょう。それで陸軍の本部が来てたわけだ。松代の方へ。それで陸軍の士官学校が望月に来て、馬の部隊だけ八重原に来たってわけだ。あそこの資料館は前は分教場で、学校ですよ。あそこへみんな兵隊が泊まったりして、上官の人は普通の家に泊まっていたんですよね。よくそういう話を聞いているよ。

AK ここに来ていた親方の人が橋本中佐っていうに。家の春日の親の家の蚕室にさ、みんな上等兵とか、そういう人が来て、改造してさ、そこに家族が来てた。私の友達だもの。橋本すみちゃんて。今思い出したが、馬のお尻のとこに士官学校のマルシって焼判が押してあったよ。それで馬に乗っちゃ、来たよ。まず立派なお父さんで。

AY 残してった太鼓だかがあったな。お宮にあったよ。

AK あったじゃなあい? 明神様に。

(歌の歌詞を書いた紙を壁に貼って)

司会 もう一つくらい質問ありますか? 和一さんが一緒に歌を歌いましょうって。

紙を貼っちゃいますね。

NM 牛より豚の方が早かったですかね?

関和一 早いってことも、皆、同じで、有畜農業というのが勧められていたね。家畜を有して、それで畜産が盛んになって来た。ま、それも始まりは殆ど一匹ずつ、豚も一匹、馬でも一匹だったね。その後、大量に飼育してね、やっぱりそういう時代の流れになってきた。

KK でもね、関さん、組合長の時ね、味研で結構いろんなことをして頂いてるしね、

お世話になりましたね。

関和一 いやあ、お世話になりました。

AY 稲作りの話をしてたけど、昭和の初めの頃、一反歩でいったい、どれくらい穫れてたかと思ってね。詳しい、今みたいなのがなかったんだから、どのくらい穫れてたか、大したもんだなあと。堆肥だとか、それに山のソダみたいなものを肥料だったんです。私が覚えている頃はね、イワシの滓、数の子なんかも、田にいっぱい落っこってたよ。そんなものが肥やしだった。

AK うちの方はさ、水が冷たくってさ、一反歩6俵。こっちに来て8俵くらい。今は10俵。

AY そのころは、どのくらいかなあ、と思ってたんだけどね。黒沢さんの物語で、43石という土地があったんだけどね、黒沢さんが開発する前、今は10俵穫れるけれども、江戸時代なんてのは5俵なんて、穫れなかったでしょう。

関和一 まあ、収量が少なかったから。食生活に。今はまあ、選別して放ったものなんか殆ど食べないで、昔は米選下をおやきにしたり、またその下をなんかにしたりして、全部、どんな小さい変なのでも食料にした。

AY    米選下って、味噌を造る時に麹にしてたよな。

関和一 したし、家でか食べたりさ。まあ、昔の食生活はそういうもんで成り立ってきたわけで。ところが食が豊かになると今度は美味いのっきり食べるから、健康に悪い、ということも。

AT 昔は120キロくらい食べたってよ。1年間に2俵。

AK 今は半分だね。

AY もう60キロを切っちゃってるでしょう。朝はパンを食うとかさ、一日3度3度ご飯なんて人、いねえわ、今。

関和一 労働もさ、今は自動車の運転だもの。お腹空かない。昔は背負子。

KK 肉体労働だったね。

AY そのころは5、6俵しか穫れなかったかな。戦後、食べるものがなかったでしょう。日本中みんなそうだったんだけどさ、強制的に、供出させられましたよ。隠してると怒られた。そういう時代があったんだよ。

司会 調べに来るんですか?

荒井良勝 強制的に何俵供出、って来るわけだ。田圃の面積があるから、家で食べるものを取って、あとは供出しろってわけだ。

司会 面積で換算して

AY そうだと思うよ。

AK 厳しかったよな。

AY その前には闇米ってのが流行ったんだよ。田中の駅辺りで女の人がいっぱい積んでな、東京で捕まっちゃうんだよ。闇米っていって、売りに行くわけだ。買っといてな。そういう時代だったよ。昭和22、3年頃じゃないかな。

AM 背負ったってどのくらい背負えるのかね。

IY 20キロくらいかな。

AY 1斗か2斗か、それくらいじゃねえかい。

AK もっと背負ったじゃないかい、30キロくらいは背負ってったと思うが。

関和一 それがさ、家の親戚の人でね、東京に行った人が、重い物なんか背負ったことないでしょ、それを背負って滋野の駅まで歩いてった。人間が生きるっていうね、ことがいかに必死になってね、やったかということだよ。

AK 生きなくちゃならないからね。

KM それは現金収入が欲しいから?

関和一 東京から買いに来たんだよ。おらっちのとこに来て、今度は東京に帰って行くんだから。それで滋野の駅までね。

IY 帯を持って来たりした人も、いっぱいいたね。

AY 俺だってご飯のところに豆を入れたりして食べてたよ。米を作っている者ですらそんなことしてたんだよ。戦後、終わった頃。

AK 昔のおやつって、凍り餅とかさ、あられだってさ。

司会 せっかくなんで、関さんがこの歌詞を書いてきてくださったんで、ありがとうございます。

AK 素敵な字だね。

司会 誰かに音頭とってもらって。

AK しずかな、しずかな里の秋、だな。さん、はい、

静かな静かな 里の秋

お背戸に木の実が落ちる夜は

ああ 母さんとただ二人

栗の実煮てます いろりばた

明るい 明るい星の空

鳴き鳴き夜鴨の 渡る夜は

ああ 父さんのあの笑顔

栗の実 食べては 思い出す

さよならさよなら 椰子の島

お船にゆられて 帰られる

ああ 父さんよ ご無事でと

今夜も 母さんと 祈ります

(拍手)

一同 ありがとうございました。

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