第8回知恵蔵の時間 小山治さん 河合敏雄さん

知恵蔵の時間 第8回  講話 小山治さん 河合敏雄さん

「芸術むらの成り立ちと想い」

2019年5月12日  14時~

於 まる屋  司会 小林恭介  撮影 橘正人

司会 では始めましょうか。令和を迎えて初めての知恵蔵の時間、本当にたくさんの方にお集り頂きまして、どうもありがとうございます。全部で7回かな、やらして頂いて、お話頂いた方々も来られていて、今年も今月から、毎月一回くらいのペースで、この知恵蔵の時間がやれたらいいなと思っています。今日、五月の最初の一回目を小山元村長さんと、ABCの河合さんにお話をして頂くということで、テーマはこの「芸術むら」の話を、歴史も含めてお聞きしたいと思っている所です。この知恵蔵の時間って、初めていらした方もいらっしゃるかと思うんですけれども、この北御牧の「芸術むら」、今は東御市ですけれども、ここでの暮らし方とか、やっぱりどんな思いをもって皆さんが暮らして来たのかな、生きて来たのかな、とか、そういうものを皆さんでお話ししながら共有できたらいいな、なんていうふうに思っていまして、それを聞きながら、じゃあこれからこの地域をどういうふうにしていったらいいかな、なんて浮かんで来るといいな、と。そんなような時間にしたいと思っています。時間的には3時半くらいには終わりにしたいな、という予定でいます。

 毎回のやり方なんですけれども、せっかくこうして来て頂いていますので、お話しする方がメインでお話するんですけれども、みんなで場を作って行きたいと思います。なので、本当に短くお願いするんですけど、お名前をお住まいの場所、それから今日どんなことを聞きたかったかとか、ちょっと一言頂けると嬉しいな、と。では私から行きますね。

 僕は小林恭介といいます。住まいは芸術むら区に住んでいます。まだこちらに移り住んで4年目に入ったばかりで、地域のことが分からなかったので、いろんな地域の方のお話が聞きたいなと思って、この会を始めました。本当にいろんな大先輩からお話を伺って、良い所だなってますます思ってます。今日は芸術むらがどうやって出来たのか、聞きたいと思ってます。よろしくお願いします。

TY TYと申します。私はこの芸術むらが出来る最初からお世話になりまして、皆さんに本当にお世話になって、村長さんにもおんぶに抱っこでここまで来させて頂きました。本当に感謝の気持ちを持った者として参加させて頂いております。よろしくお願いいたします。

AK 中八重原のAKです。この八重原に嫁ぐ時は、八重原って所は水のない所で「八重原に行くか、悪原背負うか」と言われて、そこへ嫁いで今年で60年です。それがこんなに良い郷になって本当に嬉しい。もっともっと発展して、自然豊かな芸術むらになってくれればいいなあと祈ってます。

TT 私もいろいろなコテージだ、バーベキューだ、という公園の仕事に携わって20年間、頑張ってきました。あとは竹紙工房、竹の紙をね、漉きまして、作家の水上勉先生から「村起こしにしなさい」ってことで今日まで頑張っております。名前はTTと申します。よろしくお願いします。

OT  田楽平のOTと申します。この芸術むら公園、あまり環境を壊さないようにもっともっとこう、地域を発展、というか地域圏外に広めて頂きたい。長野県の県外じゃなくて、エリアという意味でね。以上です。

IM 芸術むら区に住んでおります、IMと申します。今日初めて参加したんですけれども、これからも参加したいと思います。よろしくお願いします。

KN KNと申します。私は平成8年にここに家を買いまして、青木桂子さん、ご無沙汰でした。平成8年にこの土地を見に来た時に、ロケーションの良さに、気に入って即座に決めました。平成13年に家を造りましてそれから10年行ったり来たりの生活だったんですが、体を壊しまして完璧にこちらに移り住んで丸8年住みました。13年にこっちに来るようになってから、青木さんに会うのが楽しみで(笑い)、10年間行ったり来たり。最近、姿が見えないので、すごく寂しかったんですよ。

AK あの、引退しましたので。

KN そちらで「青木さん、どうしてますか」って訊いてもあまりよく教えてくれないので。本当に今日は来て良かったです。よろしくお願いします。

KW KNの家内です。以下は一緒で。

SW 遅くなって申し訳ありません。SWと申します。2004年にこちらに来ました。転々としていたんですけれども、主人と。もうカタツムリみたいに動くのは止めようかと話して、河合さんには「ここは前はどんなだったんですか」なんてお訊きして、今日はとても楽しみにしてます。よろしくお願いします。

KW 芸術むらのKWと申します。今日初めて来させて頂きました。青木桂子さんとは本当におやきの頃からさんざんお世話になりまして、そして今度はやっぱり芸術むら区は年齢的にも高い年齢になってきましたので、みんなでお互いに助け合って生活していかなきゃいけないなと思っております。どこもそうらしいですけれども、よろしくお願いいたします。

WT 生まれは八反田。育ちも八反田なんですけれども、今住んでいる所は大日向です。これで53年目になりますけど、学生時代とか、ちょっと仕事の関係で東京とか、長野にはいましたが、それ以外はこの北御牧で生活してます。WTといいます。よろしくお願いします。

AK Mさんの息子だね。

SY SYといいます。御牧原、南部区から来ました。11年くらい前に東京から引っ越して来て、夫が望月の出身なもので、毎夏来ているうちに私がこっちに移住したくなって。もっと早く移住して来れば良かったと思って。北御牧の大ファンです。よろしくお願いします。

YM 私も桂子さんと同じ中八重原ですけど、今日は桂子さんに誘われて来ました。皆さんの貴重なお話を聞きながらと思って来ました。八重原に嫁に来れば苦労するきりだって言われて来たんですけど、最近は近辺にない素晴らしい、羨ましがられるような場所になってね。本当に幸せだと思ってます。ケアポートとか行って筋トレとか、いろんな健康大学なんていうのもあって。お嫁に行って桂子さんと楽しくやってます。よろしくお願いします。

TI 今日は夫婦で来ました。芸術むら区に来て、ちょうど10年目です。でも、ここに来て何も知らないし、ちょうど河合さんがお話して下さるというので来ました。関さんは家のすぐ後ろのね,畑を借りてらして、いろいろ親切に教えて頂きました。リタイアしちゃったから、今日会えて良かったです。名前はTIです。

IM 芸術むら区のIMと申します。この公園が出来た頃知りましてからずっと親しんでいるんですけど、この小さな村でどうしてこんなに立派な大きな素晴らしい公園が出来たのか、ずーっと謎で、今日は謎が解けると楽しみにしてまいりました。よろしくお願いします。

YM 知恵蔵の時間の一番バッターで、何だか分からない話を。

司会 良いお話を伺いました。

YM 儂はこの地で生まれて農業63、4年、各種団体のところに行っても「北御牧の出身です」って自己紹介ね、言ってて、「八重原」って言いたくなかったです。(笑い)先ほどもその話、出てますが、今になったら非常に素晴らしい所になったもんですからね、家の農園名が「八重原農園」です。そのくらいまあ、天と地の違いが出た、変化があったです。これはね、村長さんのお蔭だと思って感謝してます。

AY 遅くなっちゃって。自分はここに住んでる訳ですが、Yさん達と同じ仲間でやって。それこそ5、60年も経ちゃあこんなことで。次回は私の話をしてくれということで、何の話をすればいいかなと思ってるけど、八重原地域のことで、伝説のことをやりたいと思って。またお世話になります。

TM   TMと申します。芸術むらに住んでおります。私は土地を求めたのがちょうど今頃。アルプスの景色が素敵でちょうど北御牧村の時代です。住み出したのは10年ほど前です。今日はいろいろと楽しみにしてます。

TH こんにちは。地元です。下八重原の土手下って所で、百姓をやっております。ジャガイモを主体にやっております。さっきも話に出ました、八重原産の白土馬鈴薯って言って、雷電の直売所へ出しております。まだ今年は出ないですけど。あと柳沢さんのあれで、「芸術むら公園を愛する会」の仲間に入っております。よろしくどうぞお願いします。THです。

小山治 彼は写真家でね。すごい、あの。

司会 そうですか。それはぜひ。

SW 俺はね、中八重原のSW。小学校というか、分教場があってね、その土手を一年生から通った。それでこの土手がね、子供が遊ぶにとても具合が良かった。傾斜があってね。転んだり滑ったり。楽しんで育った訳ですが、こんな素晴らしいね、大きくなった池はね、岩下リョウイチさんていう中八重原の人が、御牧原で補助事業で。それじゃ八重原でやろうということで、この池が10倍の水量を確保できたの。本日は大変どうも。(笑い)

司会 ありがとうございました。それでは早速、小山村長さんと河合さんからのお話を聞きたいんですけれども、今のみなさんのお言葉の中にも「こんな立派になって、八重原が」なんてお話がありました。じゃあ昔はどんな所だったんだろうな、って、ちょっと聞きたいなって思います。まず、小山村長さんの方から、この芸術むらのある辺りって、こんな所でね、とか、また、どんな経緯でこんな公園を創ろうってなっていったか、そう考えたのか、ちょっとそういう所をまず、お話をお聞かせ頂いてもいいですか。

小山治 私は人前でね、話をするのが大の苦手でね、いや本当。だから今日恨んでいるの、小林夫妻はね、

司会 すいません。

小山治 だけどここへ来てね、美味いパンやコーヒーを飲めないのは切ないからね、喋りますけれども。私が生まれたのはね、島川原、発電所のある所で生まれましてね。それからね、小学校は千曲川で遊んでね。発電所の所から小学校に行く1,5キロくらいまでの間に山遊び。山学校、それから川学校って言ってね。ほとんど勉強はしなくって。6年間。年齢的には関ちゃんと私は同じ年なんですけれども。ちょっと自己紹介だけしておいて、また。

司会 じゃあ、河合さん、お願い出来ますか。

河合敏雄 今日はありがとうございます。私のような未熟な者のお話ということで、大勢の皆さんに参加して頂いて、心から感謝申し上げます。そしてまた「芸術むら公園を愛する会」もそうですけれども、小林さんご夫妻におかれましては、例え一人でも多くのお客様を招くために、原価は度外視して頑張っておられるんじゃないかと。私のような者がお話ししても何にもならない訳で、心から御礼を申し上げます。私の話っていうのは、私も令和元年になりまして、最初の年にお話させて頂くのは光栄に思っております。私より大先輩、私あの他所者という言葉はあまり使いたくないんですけれども、私は他所者の一人でございまして、育ちは春日、小林敬子さんの本家の実家にあたる、親戚になる訳ですけれども。私は、この平成元年から公園作りが始まった訳ですけれども、何が縁があったか分かりませんけれども、この現場の責任者を仰せつかりまして、今日現在までの35年くらいになりますか、管理まで仰せつかっておる訳でございますけれども。私のような者がお役に立つか分かりませんけれども,平成に呼ばれてから私の知る限りのお話をさせて頂きたいと思います。

 (壁に掲示した大判の設計地図を指して)この地図はちょっと見たことないと思うんですけれども、これが昭和の最後の年です。ここに何があったか調査したのが、昭和の終わりです。工事が始まったのが平成元年ですけれども。(地図の中の場所を示して)今いるのが、この辺になるのかな。ここに絵画館ですが、この時は何もないですけれども。ただこれは、どこにどういうものが生えてて、それをどうすればいいか、どう処理したらいいかという、この図面でございます。これから今の現在が、(壁に掲示したもう一つの地図を指して)これに変わっております。これは私が自分で作成したものなんですけれども、このようにいろんなものがあり、ここはパターゴルフをやったんですけれども、こういうふうに変わっちゃってるということです。ここは何故かっていうと、この辺がキリバナの境です。写真を取ってくれますか。全部はないんですけれども、回してもらえば。(写真資料を参加者に渡して)これも全部用意すれば良かったんですけれども、時間の都合がございましてこの辺にさせて頂きたいと思いますけれども。まず、コピーを取った一番目の画像ですけれども、これが平成元年の仕事をやる前の写真です。分かりますかね。この上の写真が、ここから上を撮った写真です。今、ここにいますけれどもね。その下にあるのがこの辺からこっちを撮った写真。その次が同じですけれども、これがちょうど今登り窯のある、このへんにある写真です。これが仕事をやる前の平成元年の写真でございます。

 私はこの村に来て、何が良かったか、何を学ばせて頂いたかというと、ものの大切さというものを、この北御牧に来て教わりました。これは何かというと、私は平成元年からこの村の公園造りに携わらせて頂きまして、何故私が選ばれたかというと、私は公園管理技師の2級と、あと公園管理士を持ってますので、そんな関係上「おまえ、やれ」ということで。私は昭和58年から北御牧で仕事をさせて頂いたんですけれども、その時は島川原から御牧原に登る「産業道路」、と今は言われていますけれども、あの道路が終わったのがちょうど昭和の終わりでございます。次の年にこの公園造りが始まったということで、何とかやってくれないかということで。入札制度でございますが。

 たまたま運良く私が佐久市にある竹花組に勤務しておりまして、私は16年ですから、退職になりました。60っていうことでございまして。3月22日が誕生日で、それが退職日なんですけれども、なんとか3月一杯やってくれないかということで。何故かというと平成16年に合併が始まったんですけれども、その時に北御牧の営業所があったんですけれども、私その所の所長をしていました。その時に東部町にも支店がございました。合併になって二つはいらなくなっちゃったので、一つに絞らせて頂くって話になったんですけれども、北御牧の営業所も大事だということで、名前を変えまして、オールベストカンパニー、その頭文字を取ってABC建設。常に一番の信頼ということで、名前負けしてるわけですけれども(笑い)、そんなことで会社を設立させて頂いて、一番景気の悪い時でございました。

 どうなるか、ってことだったんですけれども、公園を造るについてはどうしたらいいのかな、って私は春日から6時半に出て、いつも7時には到着をしておりました。毎日この公園を見て歩いて、どうやったらいいのかなと。村長さんが北御牧村の発注者ですけれども、「おまえに任せるわ」と言われまして、私はこれは重大なことだと。村長さんと気が合ったのは、石が好き、ということ。この所が一番、気が合ったのかなと。それでその「ものの大切さ」というのを、なぜ教わったかというと、私、平成2年ですかね、その時は小山村長、名前は言いませんけれども、前の村長もあったわけですけれども、2月、お盆に近くなるってことで、お金が結構な金額が、前払金が欲しいということで、前払金の申請に北御牧の役場に行ったんです。ところが名前が前の村長さんの名前で、その時に村長さんは用紙がえらいあるから、これを消して小山と紙に書いて出して下さいというので、こりゃあすごい人だなと。本来なら誰でもすぐ前の村長さんのものは、印鑑なんかも新しく全部するんですけど、小山村長さんはそうではなくて。それから日も経ってから村長さんに用事があって行きました所が、当時まだ携帯電話なんてものはございませんでした。村長室にも電話がある訳なんですけれども、外に赤電話がございまして、赤電話で通話をしておりました。なんて不思議だな、村だから電話がないのかなと。ところが私的な電話は全部自分で公衆電話から掛けているということが、後で分かりました。そんな村長さんでございますので、私は何が何でも自分の持ってる力は、十分ではございませんが、この芸術むら公園に通していこうかなと思う訳ですけれども。

 話は若干変わりますけれども、あと水上先生が平成元年にこちらに来たんですけれども、その時に小山村長から2年かに紹介されまして、今日に至るまで先生との付き合いでは怠ってはいないんですけれども、やはり同じような、村長さんと似た所があって、いつも水上先生はいろりで、外で炉を焚いて竹を煮てるんだね、柔らかくする為にね。焚き付けはいろんなものを使うんですけれども、私11月下旬ごろ行ったところが、アザミがもう霜に当たってだらっとしてるんです。そこに添え木をしてその霜に当たった奴に支えとってくれ、って。そしてそれをまた干しといたら、ちょっと来う、と言うからそのアザミの枯れたのを見計らって焚き付けにしようとしてた。なるほど、すごい人だなあ、と。その焚き付けを、今度は灰になる訳ですけれども、その灰をアザミのもとに肥やしで返してよ、と。それから、私もこれはものの大切さってものを、この元年からですけれども、図面書いたのを一切捨てずに全部とってあります。これを持って来るっていうのはものすごい量なものですから、これは全体の平面図の、今の現状でございますけれども。 

 平成2年だったですかね。何がどうなったんだか分かりませんが、愛媛県のカシワイ小学校ってところがあるんですけど、アベフミさんという小学校1年生が、いつ風船を飛ばしたか分かりませんけれども、私10月に調査に入った時に、ちょうど絵画館のあの辺に風船が落ちてました。かなり昔だから、茸が出たんですけれども、その茸を隠すようにして、風船は壊れてたけれども手紙が入っていたもので、文章を出したところが返事が来まして、村長さんに話したかどうか分からないけど、ぜひその人をここに招待したいなと思って、いろいろ調査をさせて頂きました。なかなか厳しい家庭の方でありまして、それを取り止めるしかなかったんですけれども。その時私、一句詠んだんですけれども「四国より茸を隠す手紙かな」。気流の関係から喋ると、ちょうどここへ来るらしいんですけどね,壊れずにここまで来て、壊れてしまったというお話もございまして、私にとっては貴重なことでございました。

司会 河合さんね,これをちょっと見て、まったく雰囲気が違うんですけれども、もともとってどんな感じだったのかな、って結構皆さん知りたいと思うんですが。

河合敏雄 大先輩の人達がいるんだから、私が言うことはないんですが、これは農業用水で、これで飯を食ってくんだから、公園でもなんでもない訳です。この水がもとで稲作を作ったところが、水がなかったらどうにもならない。公園のために水を入れたんじゃなくて、農業のための池だってことです。

司会 村長さん、ここはもともと公園にしようという経緯がやっぱり、どういうところが?

小山治 あのね、これがちょっと少し前段が始まると、荒井さんの専門の黒澤の200年も前の話になるんですが、それは取っておいて,現状、そうですね、50年前にちょっとタイムスリップして頂いて、その頃は北御牧村はようやく小学校が出来上がってね。そのあと庁舎が出来たのが61年ですから、その間が一番大変な時期ですね。でも前の柳沢村長さんが、親はボロ着てても子供だけは大事に、ってことで、小学校を優先して造って頂いて。北京飯店なんて悪口言われましたけどね、赤い学校の屋根がね。その後は今の役場、総合庁舎です。あれは頑丈なもので。

司会 あれは昭和何年くらいですか。

小山治 61年ですから。そのころ私は村政に一期だけで、まあ先輩はおりましたけれども、一期だけ議員をやらさせて頂いて、それでちょうど昭和の末期から、所謂村政に携わるようになって、だから平成、それも10年間ですね。もうめちゃくちゃ忙しかったです。忙しかったというのは所謂芸術むら公園、専門家でないと分かりません。ねえ、渡辺さん。チソウサイ。地域総合債。ここまでは竹下内閣前は目的がなきゃ、そこに使うお金しか貸してくれなかった。それが地域総合整備っていってね、何に使っても返すものだけ返してくれればいい、っていうのが。これは今でも繋がってますよ。

WT 若干、残ってますよ。

小山治 そのお蔭でね,それじゃ使える時にやりましょう、ってことで、思い切ってこの公園構想を。面積的にはね、二十何町歩、三十町歩近いです。そのうち池の面積だけで十町歩くらいあるんですね。池3つか。だから面積の割には広く感じる訳ですよね。そういう地域で。その中でまず取り組んだのが、その頃もう村の優秀な職員がいましてね、悠久の森構想だとか。私が村長になった時はもう、後を付いて行くだけ。そこにまた河合さん方の知恵も入ったりしてるからね。ああ、そうかそうかと思ってね。こっちは予算の、お金の心配だけしている間に、その頃のは優秀だった。まあ全部が優秀って訳じゃなくてもね、リーダーがちゃんといたり、河合さんのグループなんかはもう、ここら辺の皆さんね、そういう知恵が融合しちゃってね。だから自然に出来た。

 私自身はね。ただ、その根っこには芸術むら公園の、私の同級生にね、田中良尊君ていう、田中4兄弟がここの出身でいましてね、その末弟が私や関さんと同じで、この人がちょうど60歳で亡くなった。東京教育大学、筑波大学に移行する時のまあ主任みたいな役割で大変な仕事をして、で、筑波で教授になってすぐ亡くなったのかな。その前にランチルームに100号の千曲川の絵を描いて頂いたり、役場の新築祝いに2階のロビーにある浅間連峰っていう300号の大きいの、それはその田中さんが描いて頂いて、その他小学校、中学校にね、作品は残ってますけれども。

司会 ここは昭和元年から工事が始まっているんですか。

小山治 その頃、私にヒントを与えてくれたのは、「どんな安いあれでもいいから宿泊施設と、セミナーハウスだけは一つ造って欲しい。そうすれば全国から子供やら先生の卵、どんどん送り込むから、それだけはやって欲しい」っていうのはヒントを与えてくれてあって。これは、と思って、それであの一等地は残しといて。セミナーハウスじゃなくて絵画館になりましたけど。彼もそのころ里心がついて、春休みになると来てね,あすこを案内して欲しい、ここを案内して欲しい、なんて言うから。

司会 「私は芸術むら公園に住んでます」って言うと、「公園の中に住んでるんですか」ってびっくりされることが多いんですが、その頃からやっぱり分譲していこうという構想が?

小山治 その時にもう、分けましたよね。分譲。地下埋設の、電線ないですよね。まあ、水上先生が「雀が可哀相だ」なんて言ったくらいのね。これだけの面積の所に電柱が立ってないのは、この団地にお住まいの皆さんはそういう点ではね。それから塀も立てないよね。それはみんな職員が決めてね,押し進めてくれた結果ですよね。そんなことがありました。あと、今日はちょうど母の日でしてね。つい10日ほど前にね、ケアポートに母子像をね、それこそ保科さんにセットしてもらって。作品をね、平成のうちにってことで立てて、まあ、折りがあったらちょっとご覧頂いて。まだ完成じゃないです。草笛を吹く少年というのはケアポートのシンポルですから、これはまた改めてセットし直して、皆さんにまたご覧頂くようなあれは。その母子像の方は保科さんのあれですが、そんなこんなでね、平成の初めに保科さんはね、今北部へ移しましたけどね、「自然と生命」というモニュメントね、造ってくだすって、この高欄は平成5年です。

司会 最初から芸術むらってことだったんですか。芸術家の方が関わって。

小山治 そういうふうになっちゃった訳ですよね。それでちょうど前期に田中三兄弟。それぞれ田中良則、次の人は養子にいかれて館野良行。日展の特選、みんな特選、一番下が田中良尊。それからその上の兄さんは信濃教育会の美術指導って、県の教育委員会の、自分でも絵を描いてましたけどね。三兄弟の絵はみんなここにありましてね。特選2回はある。その館野さんて人が日展の特選で、会員ですから。田中さんはね、私よりも後輩にいっぱいね、優秀な子がいるから、私は一回頂いただけで結構ですから、他の皆さんに、っていうような話を聞きましたけどね。そういう方。三兄弟が、私の芸術むら公園構想に関する一番のヒントを与えて下さったのはその三兄弟です。長喋りして済みませんでした。

司会 いえいえ、ありがとうございました。河合さんね、ここの工事を始める前ってどんな感じだったんですか。林だったんですか。

河合敏雄 そんな言い方をしたら失礼ですけどね,明神池から向こうには行かなかったですよ。原始林みたいで。それはエラかったですわ。(写真を見せて)今の話にあったのはこの写真、電柱が残ってますけれどもね。今はありません。

小山治 これが神社地だったってことですよね。

河合敏雄 それが、そう、この時はまだ絵画館はございません。それが写真集に載ってるんですけれども、一番表紙のこれがそうです。それが現物です。ページの6の写真集の、それが今のそれですけれども、その下に現況が載ってます。そう、その前の写真がね。これを撮った時、トヨタ会社がこのネガを提供してくれないかと。トヨタの新車を走らせたいと。お断りはしたんですけれどもね。次が平成5年くらいですかね、イベントがここでございました。3枚目の所が4月に野芝を焼いて、害虫駆除で。今は中止をしておりますけれども。その次にこの御牧原北側の所に土俵がありまして、その土俵開きも行った経過がございます。ここに載ってますけれどもね。あとこの次に5ページ目ですか、この火のアートが始まった最初の年です。その時は3日間やったんですけれども、野外ステージの方ですけれども、坐る場所もないほどお客さんが来られたというね。今はよして、この正面だけでやるってことになってるんですけれども。その次が平成5年なんですが、西澤知事さんがここを訪れた写真でございます。これが一緒に撮らさせて頂いたんですけれども、これも人の写真は撮るけれども、自分の写真を撮られたのは初めてでございます。これは村長さん、まことに度胸も良くてですね、まだ温泉の、ボーリングを初めてお湯の出る可能性もひたすらない所を掘り進んで、その明神館も掘り進んでたんですけれども、たまたま運が良く、50度もの熱いお湯が。なかなか度胸の良さもすごいなと思ってます。その時は8分通り明神館は仕上がったんですけれども。

司会 お湯が出るかどうかわからなかったんですか。

河合敏雄 これが明神館が出来る前の写真ですね。今、見てると分かるんですけれども。それから写真集の、これの20ページに載ってますかね。16ページに載ってるのの本物がこれですけれども。

AK ツツジを植えた時だね。

河合敏雄  これは当時、今は4800人くらいしかいないんですけれども、当時は5500人おりまして、人口1人に1本ずつ植えた5センチくらいの苗を植えた訳ですけれども、総出でこれを植えたということでございまして、今は大きいレンゲツツジなんて3メートルを越えてるんじゃないかという大きさになっておりまして、団体で植林した方もおるんですけれども、どこだったかな、なんて、訪ねて来る方もいらっしゃいます。なかなか余分な木も切る訳にもいかないで、自分で公園の管理をやっていて一番大変なのは、機械じゃ駄目だ、みんな手でむしらなきゃならないってことです。ここのとこ10日、3、4人で掛かってるんです。私も世話になったからなるべく愚痴を言わないように公園の管理をやってますけれども、もう75歳ということで、平成の時代は終わったもんで、ぼちぼち私も引退しなきゃならないかと考えている所でございます。

司会 そこの公園で、最初に造った施設はどれなんでしょうか。

河合敏雄 最初は今これからお話申し上げますけれども、平成元年に何をやったかといいますと、水道工事です。

司会 下水道工事ですか。

河合敏雄 そうです。平成元年です。下水道を完備したんですけれどもね。(地図を広げて)これが明神池ですけれどもね、下水には農業水路と、この周辺だけはコミュプラなんですけれども、ここは今のレイクサイドから下水は八重原に行っているんですけれども、中間、コテージから向こうについては下八重原に行ってます。うちもやってるんですけれども、絵画館、コテージ、明神館は山崎の処理場へ行ってるんですけれどもね。たまたまこれをやった時に、これはちょうど池の向こうなんですけれども、ここからスタートしてこっちに流す。それでこっちに流して、ここへ処理場を最初に造る予定だったんですけれども、山崎の方から、せっかくだからということで、平成4年に下水が貫通したんです。ここに処理場を造って、ここで処理しているということです。たまたまこの時に、そんな至近な?職員もいるんですけれども、いくらか員数の改ざんもあったんではなかろうかと。さもなければあんな小さな処理場じゃ通らなかった?んじゃないだろうかと。私はこうやってすべてのものを残しておりますので。

司会 それじゃ、最初に水道の工事をやられたということですね。

河合敏雄 それが平成元年です。それから平成2年、3年に変わりまして、造成工事。木の伐採ですね。まず松を三千本くらい切りました。一千本近く残して、当時は焼却でよかったんですけれども、これを全部焼却したんです。いろんなゴミや植物も燃しました。この草って、雑草とかいて「くさ」って読むんですけれども、「この雑草(くさ)も 助けてやりたい 我が気持ち」と、私は詠んだんですけれども。本当はたんぽぽ一つも大切にしたかったんですけれども、止むを得ずね。その次には芝も全部貼ったんですけれども。それが終わりまして、平成4年、5年ですかね。この幹線道路を造ったんですけれども。

司会 平成3、4年で幹線道路ですか。

河合敏雄 その時にこの高欄道もやったんです。幹線道路は基幹園路という、正式な名前でございました。これも760メートルくらい。結いの高欄道も370メートルありますけれども、ヨーロッパに行くと、橋の高欄にこんなふうに造ってあるというのは、これは世界一長いということで、登録とかはしてませんけれども、珍しい。メーターあたり、誰も想像がつかないと思うんですけれども、3千円かかってます。今だと1万円じゃないでしょうか。ブロンズって硬金ですからね。たまたま色が褪めて来たということで、今ちょっと色の塗り替えをしておりますけれども、5月一杯には終わるかなと思っております。

 それから平成5年にはレイクサイドヒルズ造成、その時に平成4年には造成工事も始まってますけれども、(設計図を示しながら)それもこれを見ながら、公園工事の方も私は担当させて頂きまして。これも長野県庁、日本じゃ珍しい造成工法で、ふつう造成といえば整地して平にして売り出すんですが、この地は違って、自然勾配のまま売り出そうじゃないかと。回りに植栽もしようということで、これも、私はこれを見ればどこに何があるか全部わかります。これは約1年でここを終わらせたんですけれどもね。

司会 これは大工池(ばっちょいけ)ですか。

河合敏雄 そう、これがそうです。あと八幡山をやったりして。この白水の2期をやったんですね。いろいろ図面を貸してくれないかって、だけど返してくれないもんだから、この原図だけは私とってありますので、大切にしてあるところでこざいます。今のそれ、7月4日、平成7年ですね。ツツジの植栽ですね。5百本を植えたということでございまして。これ最初の百本を総出で植えたということです。最初の時は当然、明神池から農業に使う水をスプリンクラーで上げるなんてことはなんか考えられなかったんですが、土地改良区の皆さんの力で水中ポンプで上げて。スプリンクラーで散水して約3年間、水管理をしたんですけれども。冬になるとまだ菰で囲ってくれて、それも載ってたかな、どこか。そうやって管理して、ほとんど枯れるものはなかったです。たまたま黄色いレンゲツツジがあるんですが、これだけはなんか悪い人がいて、持ってったことがありますが。まだその時は温泉も出なくて。幸いにして52度ものお湯が出たということは。当時とすれば温度の高いお湯が出れば、今みたいに暖房の設備をしなくてもよかったんですけれども、たぶん30度くらいのお湯で、沸かさなくちゃならないんじゃないかと。それでもってあそこにタンクが3つあって、あれは普通ならいらないんですけど、熱すぎて冷ますんですよね。43度くらいに下がってるんです。本当に村長さんが運が良かったというか。度胸の良さが感じられます。

司会 最初から温泉を創ろうという構想でもあったんですか。

小山治 あれはね、はっきり申し上げて、布下でだいぶ成功して、これは信州大学の先生に地質学の方がおいでで、その人にどうだ、っていうご相談をしたら、「これは出ますよ」っていうふうに言われてはいたんで、思い切ってやってみた。そういう専門家のご意見も伺った後でですからね。

司会 それでは最初の計画には明神館は温泉とか?

小山治 それはなかった。

司会 最初の構想は、池があって、周辺を造成して分譲的な感じで人に住んでもらおう、というところもあったんですね。だんだん、そういうところから温泉を創ったりと。絵画館はその後。

小山治 絵画館はその後なんですよね。セミナーハウスにするかどうするか、といううちに、たまたま梅野さんがここに来られて、淑子さんもお出でになっていますけどね。館長自身もここに惚れ込んで、いろいろご苦労されてね。これ自身は画期的なことですよ。それはそれで大事にしながら、近代的な絵画館になっていって頂きたい。これはまた若い皆さんの考えでしょうけれども。そんなことが言えます。

司会 温泉が平成、明神館が?

小山治 平成7年です。

河合敏雄 その時に知事さんがね、この6ページにありますけどね。よく船舶振興会の方が来てる。村長さんが見れば分かると思うんですけれどもね。知事さんは高欄道を見て、喜んで帰って行きましたけどね。

小山治 だいぶ県庁でもPRして頂きました。あそこは素晴らしいよ、ってね。その頃、4月の20日頃なんですけれども、浅間が真っ白で、ここで知事さんも圧倒されて、あそこで行き会う人、みなさん方に、あそこは素晴らしいよ、って。PRして頂きました。

AK 名前も素晴らしいに。「結いの高欄道」っていうんだから。

小山治 あれの名付け親は保科くんだから。

河合敏雄 私も知事さんと二人で並んで、しかもここに竹花組ってジャンパー着てたんで、でも一向に構わないからって撮らしてくれたんですけどね。私にとっては貴重な写真でございますけれども。それと平成9年、この3年ばかし前に大雪が降ったんですけれども、このとこに、何ページだったか、写真集の20ページのとこに大雪の写真がございますけれどもね。この時も、その前に降ったんですよ。平成9年にね。70センチほど積もったこの写真ですけれどもね。この前のもやっぱり、70センチくらい積もったかなあ。

小山治 そのツツジの丘ね、あれはちょうどオリンピッックが長野へ来るってことでね。当時、柳沢京子さんにね、デザインして頂いて。ただ咲く時期がね、5輪にならないの。色が合わなくて。

河合敏雄 ツツジの性質も違いますけれども、同時に咲かないなんて怒られたんですけれども。無理だね。たまたま次の年には同時に咲いたんですよね。それがその写真集に載ってるかな。今の東京オリンピックの8ページに載ってますけれども、これも結構大騒ぎした時ですわね。この短い歴史の中で村長さんはいろんなものにね、やってきた。これは個人的な話ですけれども、一番最後のページ、私の自宅なんですけれども、これも何だか知らないけれども、ヤマユリなんですけれども、これはだいたい3年から4年について、一つずつ花芽がついて、一つ二つと増えてくんですよ。たまたまこの木は70も、どうしたか知らないけど咲きまして、その時NHKで取材をしてもらったんだけど、珍しいということで。一つのとこに70も花芽をつけたんですけれどもね。

司会 Aさん、憩いの家は平成何年に?

AK 平成8年。

司会 この憩いの家も最初から構想にあった訳ではなかったんですか。

小山治 それは構想の中で、憩いの家は。憩える部屋を、と。一時は冠婚葬祭なんかにも。

AK あの頃は、ほとんどあそこでね、やったけどね。

司会 河合さん、造成はレイクサイドから始まってどんな順番で?

河合敏雄 レイクサイドが一番最初にやったですね。それから今度はヒュッテ。それから八幡山です。今区長さんがいるとこ。それから一番奥の白水の二期。梅野館長のいるところですね。それが最後だったんですね。

司会 それは造成はすぐ、人気があったんですか。

河合敏雄 最初のレイクサイドの時には工事やってるうちに3分の2くらいは欲しいお客さんがいっぱいで、抽選になっちゃったから、仕上がった時には1.2倍くらいだったんじゃないですかね。八幡山なんかは百坪ちょっと切れるんですけど、これについては若干の統計をとったところが、百坪未満がいいんじゃないかということで、小さくしているんですよね。それも何年も経たないうちに完売出来たということで。やっぱりこれも運が良かったかな、こんな素晴らしい公園があるからということと、水上先生もこの近くに、当時山本麗子先生もいたんですけれどもね。いろんな知名度のある方がいたこともあったかな、とは思うんですけども。そのあと白樺団地造成が13年に始まったんですけれども、これはデカくて103区画あるんですけれども、なぜ103区画かというと100区画を越すと県や国の補助金が出るということで、103区画にしたんですけれども、今完売率は50%くらい、いったんですかな。それでも50%いったってことはまことに素晴らしいことじゃないかと思ってますけどね。本通りの所がなぜ売れなかったかというと、あの道路が丸子の方へ開通して行くんじゃないかと、それで道路がうるさくなるんじゃないかということで、そこんとこを避けた。敢えて裏道の方が売れたらしいんですけど。これも大変な工事でございましたね。

司会 いろいろとご苦労なことも沢山あったと思うんですけれども、一番、記憶に残っている、大変だったなという、工事に関しての思いは?

河合敏雄 それはやっぱり、この公園を造った時に、最初の管理長の方がKUさんて方がいたんですが、その人と年がら年中喧嘩して、おめえの態度が悪いからだ、って。(笑い)私はその時はいつの日か、栄える日を夢見て、お客さんが来てくれないかなと。鎌かなんか持ってたって、ここから向こうへ行けないんですよ。薮で薮で。それでも今は松も300本くらいになってしまって。この6、7年、県の森林税活用、税金があるんですけれども、この東御市は森林税はここだけ活用しているだけなんですが、これは県から補助金が出ますので、監査があるわけですけれども、県の職員も監査に立ち会って、大変喜んでくれて、今年も来たんですけど、来年もたとえ少しでもいいから樹間注入って、松に注入をするんですけどね、30センチの太さになれば大体一本4千円からするから1万2千円も掛かっちゃうんですよ。はたして打ったからって元気になるかどうか分かんないんですけれども、まあ県の方は大変喜んで帰って行って。この地域に立科町と丸子町があるんですけど、どこも松一本切ってないんですよね。個人所有だから切る必要もないんだろうけれども、そこから(松喰い虫が)ちょうどここへ来て、住み着いているんじゃないか、ってことでね。立科町や丸子町の方でも予算をとって切ってくれてれば、こんなに早く感染しなくて済んだんじゃないかなと。これは駄目だっていうから、6、7年前から自然に生える松があるんですが、それを大事に育てているんですけれども。ここの公園から松がなくなりゃあ、終わりだなあと思ってるんですけどね。

司会 村長さんは一番気を揉んだということは、芸術むらを創っていく中で。

小山治 気を揉むことははっきり言ってなかったです。

司会 それはどうしてですか。大きなプロジェクトだとなかなか?

小山治 だけどね、必ず理解してくださる皆さんはいる、っていう確信はあったですね。

河合敏雄 私も後で聞いた話ですけど、これだけの用地を買収するにも1年かからなかったんですよね。その時の話をほかの丸子カントリークラブって、隣にあるんですけれども、ちょっと景気が良かった時代があるんですけれども、こっちに造成するって話もありました。で、慌てて地元の協力が十二分に得られたんじゃないかな。1年もかからないで、これだけの場所を確保出来たってことは大変なことじゃないかなと思ってますが。

司会 多くの地権者がいらっしゃるんですものね。

小山治 それでね、この半分以上はいわゆる神社地。土地改良区の持ちだったから、意外に自由に使わさせて頂いた。本当は地主は土地改良区なんですよ。それで民間の用地はたぶん今の絵画館から向こうへ入っていく地帯が、民間の持ち。それからこっち側のマレットゴルフの。後は共有林だったからね。池はもちろん共有ですから。その辺ではちょうど恵まれた集計が出来て。だから用地を買ったのは意外に少ない。共有の山が多くてね。今、Yさんの従兄弟はね、民間の不動産業者が来て買う、っていった時、いろいろ言われちゃ嫌だから「絶対売らない」って言って、言ったのが残ってる。幸運もあったですよね。民間が入って来ちゃったら、ぎりぎりのところだったですね。お蔭でだいぶ助かって。神社地っていうのがどうなってるか、管理は土地改良区がやっていて、土地改良区にはもっと、少しお祓いしなくちゃいけないような、あれなんですけどね。宅地なんかは造成して売ったりしたり。その辺はどういう解決をしなきゃいけないのかね、まだそんな課題は残ってますけどね。総合的には運が良かったということですね。皆さんがお知恵を出してくださって。水上先生なんかも、河合さんが一番お気に入りでね。それに関連して玉村豊男さんなんか、よく出入りしたり、亡くなったけど船山さんという彫刻家。黒澤さんの胸像を造ってくださって。本当に地味な方ですけどね、本当に力のある良い作品を。天空の芸術祭にも必ずね、出しては頂いてますけれどもね。そんなみなさんが、おいでいただいたり。勘六山には角さんという陶芸家もね、亀井さん、こないだ亡くなった井手ゆり子さんか、とても良い作品を創りますよね。亀井さんも三十何年も窯守をね。有り難いことです。いろんな皆さんに支えられての芸術むら公園です。

司会 時間が少しになって来ましたので、最後に河合さん、村長さんに、この芸術むらにこれからこんなふうになって欲しいな、って思いが、関わられて来られた方として、どういうふうに思われているのかなと。河合さん、どうなんですかね。

河合敏雄 私は冒頭にお話したように、小林さんがここに店を出してくれたということが、これからの発展につながる第一歩じゃないかと思ってます。そんなような気持ちが皆に通じてね,昔とぜんぜん違ってますもんですから、個人的な公園じゃないわけですから。感心出来るのはゴミが少ないということです。当時ゴミ置き場を作ろうと言った時,私はそれはない方が良いと言ったんです。たまたまあるのは絵画館のそこのとこが若干あるくらいで、全体的には少ないです。これからは私にも限界がありますもんですから、令和にふさわしい公園の管理を考えて頂ければと。私も人間ですから、終わりもございますので。

司会 小山村長、どうですか。

小山治 皆さんが来る前に、この管理棟をどうするかってことがあってね。マレットだけの管理やバーベキューだけじゃなんだし、困ったっていうか、いい使い道がないかなと思ってたとこへ本当にまる屋さんが来られて。今も言えるんですけどね、絵画館もね、非常にね、内容の良い絵画館ですけどね、どうも親しみが湧かない絵画館で、敷居が高いというのがもっぱらの評判で、気楽に行ってお茶が飲めるような、まあ、だんだんそういう絵画館にしていって頂かなきゃいけないし、しなきゃいけないんですけどね。その辺が一つの課題で、それとまる屋さんなんかとの連携がね、出来ればもっと賑やかにね。絵画館だってあそこでお茶なんか飲めれば、いい雰囲気になって。今ひとつ庶民性を持った、皆が親しめる絵画館にして頂いたりね。上でわざわざさんが違う形でね、やって頂ける。新しい形が芽生えつつあるっていうかね。そんなことで期待はしてますし、皆さんが大勢ここへお集り頂けるような環境をとは思ってます。

司会 お二人に聞きたいことがあれば、せっかくなんで。

小山治 河合さんなんかは皆さんと良くお会いしてるけども、私はちょっと離れてるもんで、まあ、Kさんなんかは旦那さんが絵を描かれてるんで、良く知ってるんですが、みなさんそれぞれにいいあれがおありでしょうが、お互いに顔が見えない点が今まであって。もう私も第一線から退いてますが、当初からお知り合いになる機会が、あれば良かったと思ってます。

司会 最初の皆さんのご意見にもあったんですけど、住まわれてる方々は結構住まわれて良かったな思ってる方は多いようには思ってますけれども。こういう場所を作って頂けたからこそね、住めた、というのもありますね。

SY 河合さんにお聞きしたいんですけど、毎日毎日公園の中を細かい所まで丁寧に見回って手を入れてる姿をいつも拝見してて、本当に河合さんがやってくださっているからだなってずっと思ってるんです。それで去年、天空の芸術祭で、自由な女神とかいう白い像が建ったでしょう。ああ、ここから見えますか。ああいうものに関して河合さんはどんな意見を。ちょっとあんなものはやめて欲しい、というのか、それとも、さっきね、お客さんがきてくれるかな、というのが気掛かりだとおっしゃってくださったから、あれを見に来た人も中にはいるかも知れないんですけど、どんな感想をお持ちでしたか。

河合敏雄 今の女神像を一つとってみると、あれを見に来るお客さんは多いですね。ここに来たお客さんがついでに、と言ったら失礼ですけど,見ていくのかなあ、と思ってね。あれは下がちょっと壊れているんですよね。壊れている作品をここにっていうのは書いてありますけれども、東北の大震災の影響で壊れた、ってことらしいんですけど、来る人にすれば壊れた中途半端な作品じゃないか、っていう人も結構おりますわね。それが建ったお蔭ってことじゃないんですが、楢の木が高木になってきて危ないんですよね。ツリーハウスみたいなのがあったんですが、やっと解体させてもらったんです。壊れてても、子供さんが必ず登るんですよね。私は紅葉の森って呼んでるですが、やがては楢系統の太いのは病気も出てるから、違う形で育てたらいいかなと。倒れる可能性もあると思うんですよね。もうちょっと良い木をね。もうちょっと安全な所にやってくれればね。それと下の壊れた所は修復が出来るか出来ないか、ということがね。半分以上の方はあまり良い感情を持ってませんよね。

SY ありがとうございます。天空の芸術祭をやっていく中でね、その年に展示した作品を撤去しないで、出来れば人気のあったものはそこに野外のものは置いて欲しい、って意見もあったりするんですよ。だけど、本当にここの公園は木も芝生も、空が広いし、やっぱり自然が素晴らしいと思いますから、河合さんにとっては置いていくことがどんなことかな、ってことが気になって。

河合敏雄 いや、たまたま平成は平成でいいんだけど、令和は令和で協議して、いろんな形を考えていかなきゃいけないよね。それと、今来るお客さんが高齢者の方が多くなって来て、若い人と見方がぜんぜん違うんですよね。中には草は刈らない方がいいんじゃないかって人もいるんですよね。(笑い)確かにひとつ言えるんですけれども。野鳥や昆虫がいなくなっちゃったね。いいや、それは動物や植物に聞いてみなきゃ分からないんですけど,安全じゃないってことが第一じゃないかと思うんですけどね。マレットの所はわざわざ草を刈らないでおいてあるんですよ。それが今度は邪魔だ、ってことで。そういうこともなけりゃ昆虫も育たないんですよ。そうすると玉が、ボールがどっか行っちゃって、って。しかも無料でやってて、ケチ付ける訳じゃないけどね,枝が一つ落ちてたら一つくらい片付けたっていいじゃないか。そんなこと言ったら終わりなんですけど、家に帰っても腰が痛いなんて言えないし。言ったら「そんなら止めればいいじゃないの」と言われちゃうし。(笑い)

AK やっぱり自然を愛するっていうか、大雪が降っても雪を掻いたらこの雪の景色がいいだから掻かなくてもいいなんてね、苦労して掻いても掻かない方がいいだって、この前も。だから、その人の感性によって、自然の見方も違うんだに。

司会 芸術むらを愛する会ってね、皆さん。これはいつから?

YM これは前の花壇、それと明神館のね、車から降りたとこの水仙園。あの二つをやってます。あの水仙はこれも村長さんがね,肥料の袋に4つも5つも、これをどっかに植えろ、ってことでね。頂いて、その二つを管理していますが、それでもこの花壇も本当に助かってます。どうして出来たかというとね、いわゆる芸術むら公園が出来て、地域住民に計り知れないものがある、と。やっぱり住民として芸術むら公園を良い公園にするためにお手伝いをするじゃないか、っていう、そういう主旨で出来ました。ただ新陳代謝もね、滞ってね,もう少し広くね,PRして、例えば芸術むら区の皆さんだとかね,働きかけながら今少しそういうことをね、最近花も有名ですが、そういうものを植栽するとか、その辺の研究をしてかなくちゃいけないのかな、というふうにも思ってます。

司会 もともとこの地域に生まれた方にとって、この公園が出来るっていうのは、どういう風に思って見てたのかなって。何が出来るんだ、なんて。逆にあまり、常にウェルカムっていうか、そうじゃなかったのか、そういう方もいたんじゃないのかな、とか。

YM あれは故郷創世一億円のあれでまあ、創意工夫の行政が行われるようになった訳ですよね、それから。その時に北御牧村は、この村長さんは非常に取り組みが早かった。近隣の市町村に先駆けてね、どこよりも早く取り組む、まあそれだけの先見性があったっていう、そのことは非常に素晴らしいなあと思っていまして、地域住民とすればもう、夢にも温泉が出来たりね,美術館が出来たりなんて、夢にも考えたことはなかったんです。それ以上のことを行政が考えてたってことが非常に素晴らしいなあということでございます。これがちょっと遅れると、先ほどもちょっと話が出てましたが、業者がね,もうどんどん、入りつつあった訳ですよ。もう2、3年遅れると虫食い状態になってたかも知れないです。だからそのスピードっていうか、それが素晴らしかったなあというふうに思ってます。それに「芸術むら」っていう命名をしたその文化力っていうか、これは小山村長さんと、村長さんを取り巻く大学教授がいっぱい付いてた訳ですが、今の時代なら芸術むら、ってね、あるかも知れないけど,今から30年も前にそういう命名をした、ってことが、非常に儂は素晴らしいなあと感銘をしています。

司会 そろそろ時間ですが、何か一言、言いたいことがあればぜひ。

TY ここで去年、私は7回、皆様のお話を聞かせて頂いて、芸術むら公園というのが、創って下さった方に対する感謝の気持ちが皆さん、本当にお持ちだったと思うので。そのイメージを持たれた方々、本当に毎日毎日、休みなく草を取って、植えて、ここまで育ててくださった方々に、本当に感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。本当に有難うございます。

AK 特に河合さんは、散歩の時も剪定鋏をポッケに入れて、みいんな剪定しながら、毎日やってくれてる、それは、ほんと、感謝、感謝です。有難うございました。

司会 よろしいですかね。今日は私もお話を聞いて、この地域がね、いろんな方の、周辺の方、行政なりいろんな方の思いがね、地域を創って来たんだなっていうか、たぶんここの地域が、八重原に住んでいるのが嬉しい気持ちで言える地域、皆の思いが創り上げて来たところなんだな、というのがすごく感じさせて頂きました。また村長さんがおっしゃってましたけどね、いろんな方達の力を合わせて、それぞれの役割の中で、繋がりながら地域を作っていけるといいなというふうに思っていますし,河合さんもおっしゃってましたけれども、やっぱり令和に入ってから新しく、どういうふうにこの地域をバトンタッチしていくのかということを考えていかなきゃいけないな、なんてすごく感じました。一時間半ですけれども、日曜日の午後の貴重なお時間を頂きまして有難うございました。小山村長さん、河合さんも、有難うございました。(拍手)

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