第14回知恵蔵の時間 関益巳さん

知恵蔵の時間 第14回  講話 関益巳さん

「八重原台地の成り立ち」      

2019年11月24日 14時~

於 まる屋 司会 小林恭介   撮影 橘正人

司会 小林恭介

司会 11月24日の知恵蔵の時間になりますが、今年度最後の会ということなんですけれどもね。今日は八重原台地の成り立ちというテーマ。これはまさにここの台地に住んでいる者にとっては、貴重なお話しになるのではないかなと思います。実際、10月にも大きな台風の被害がありまして、ああいう台風被害とかがあると、この住んでいる台地ってやっぱり、どういうふうにここは出来たんだろう、とか、どういう所が災害に弱いのだろうか、とか、非常に興味を持つというか、暮らしの中で知っておきたいなというのは非常に思いました。この千曲川があれだけ氾濫をするとかする中で、普段からどういう所が危ないのか、とか、どういう所が災害を受けやすいのか、とか考える必要があるのかなと感じた次第です。

 今日は関益巳さん。この八重原台地がどういうふうに出来てきたのか、ということを中心にお話しを頂く訳なんですけれども、まず最初に、今日はせっかくお集り頂いていますので、簡単に一言、自己紹介をして頂くと、関さんもどういう方が来られているのかお分かりになると思いますので、それと後、どんなことを聞きたいかということだけ、言って頂けると有難いかなと。そしたらそれにまたお答え頂けると思いますので。

 私は小林恭介と申します。よろしくお願いいたします。私の興味があるのは、ここに住んで4年目なんですけれども、この台地があるじゃないですか。どうやって出来たのかというのが、良く分かってないんですよ、自分の中で。勝手に自分の中では、隆起して出来たのかなと推測しているんですが、そこら辺の所を知りたいなと思っています。よろしくお願いします。

TY  TYと申します。関さんは八重原用水も、いろんなことをお詳しそうなんですけれども、こんな地形の成り立ちからお話ししてくださる方なんだと、改めて詳しく聞かせて頂きたいと思います。よろしくお願いいたします。

YM YMです。何か分かんないんだけど、ふる里の歴史教室というのを、東御市の生涯学習であったんですけれども、そこでまだ仕事をしてた時だったので土曜日かな、平日もあったか、帰りに寄って来てね、その時に石川先生という、ご存知かと思うんですけれども、講義をしてくださったんですけれども、そういう古い歴史というのが好きというか、興味がありますので、昔からそうでしたので、また今日、貴重なお話しが聞けるということで、ちょっと話が本筋と違うかも知れないんだけど、今度の災害で、八重原がこんなに安全で良い所だと、ここへ来て四十数年間の間に初めて思いました。だって本当に何にも災害がなくてね、田の線下?の水がちょっと庭先まで来たくらいで、停電も、申し訳ないけど向こうの方の人達は停電もあったりとかあったんですけれども、八重原は無事に済んで本当に良かったんだなあ、と、思いました。以上です。

TM TMと申します。八反田から参りました。今回の台風、盛んにですね、戌の満水という言葉が言われました。「千曲川時報」というこんなに分厚い本がありまして、そこの中には1742年の戌の満水の時の様子、それからいろんな方が佐久の辺りから飯山の辺りまで流されて行った。あの辺りで人が随分流されて来て、千人塚があったと、そんなことも出ています。今回のことというのは、今まで台風はほとんど皆さんの記憶にもなかった。それが最近のことでは伊勢湾台風でありましたし、折に触れて戌の満水という言葉を聞きますので、これは相当に大変だったんだろうなと思います。八反田の近い所の川も大変に増水いたしまして、3つほど橋が流されました。私の近所の八反田橋は幸いにも大丈夫だったんですけれども、下流の切久保橋は水道管もついでに流されてしましまして、ずいぶん断水もあったり、停電もあったりというような、初めての経験が皆さんあったんじゃないかなと思います。もう一遍、元に戻って、あの頃はこうだった、この地形はこういうことがあるんだということを、この地図を見ながら思いましたので、ぜひともよろしくお願いいたします。

KE KEともうします。今年の8月にこのすぐ傍に引っ越して来まして、その前は1年くらい田中の町の中にいたんですけれども、東京から来まして。やっぱりここは見る度に、台地がぐわっと隆起しているのが、ずっと興味深くて、どうなっているんだろうと、タモリさん来ないかな、と(笑い)。こういう機会をずっと待っていましたので、これは来ないと、と思って来ました。歴史とかは、成り立ちとか、どういうようなことを経て今に至っているのかなということはずっと興味があります。よろしくお願いします。

IA IAと申します。名古屋から参りました。TYさんと50年来、仲良くさせて頂いてます。紆余曲折ありまして、Tご夫婦がこの土地で生きて行く、皆に受け入れられて皆を愛して愛されて、そういう未来絵図を示してくれたので、私も大事な大事な友人ですから、この土地に対する理解とか、深めたいと思いまして、参加させて頂きました。よろしくお願いいたします。

TK TKといいます。詳しいことはよく分からないんですが、IAの運転手として(笑い)来ました。

司会 ありがとうございました。それではちょっと自己紹介を

関益巳 分かりました。私はもともと建設省という所で技官という、土木職をやっておりました。東京の方もだけじゃなくて、いろいろ地盤を見ますと、東京は軟弱層の塊で、地下50メートルまで掘らないと岩盤に接しないと。東京でものを作る時、っていうのは非常に金が掛かるということですね。何気なく掛かっている形の下は50メートルの、1メートル20の鋼管が50メートル入っている。やっと基礎の地盤に当たると。超軟弱な土地に都市が立っていると。一番怖いのが地震ですよね。揺れが非常に増加されるということで。例えば八重原の台地はほとんど岩盤に近いものですから、地震が来てもその場の揺れで収まる感じがすると思います。建設省ということで、今は国土交通省になったんですけれども、いろいろ関東地方の中をですね、主に河川がメインだったんですけれども、ダムやら砂防やら、ってことだったんですけれども、いろいろ回りまして、リタイヤして今は長野のコンサルタントの関係の会社に、やはり土木の関係なんですけれども。中八重原の方に住んでます。

 先ほど戌の満水の話しが出たんですが、あの時とですね、今回は同じような雨の降り方だった。群馬県から長野県にかけて非常に強い400ミリから500ミリ近い雨が降ったということですね。でも、山の中に観測所がないものですから、実際にどのくらい降ったかということは分からないんですけれども、500ミリくらいは降ったのではないかということですね。戌の満水の時は対岸の方ですよね。烏帽子とか、東部町の方。小諸も大規模な土石流がありまして、金井村?という村がそっくりなくなっちゃった。今も時々工事で掘りますと、大きい岩が出て来る。その痕跡というのがどこに残っているかと言いますと、大屋の交差点からスタートさせますと、少し上り坂になるんですよね。また暫く行くと田中の交差点で、そこから急に上がって小諸に行って長原に上がりながら小諸の街の旧道に入りますとこんな感じになってね出て行くんですけど、これがまさに土石流の流れた跡。その上にまた新しい町が出来て、道路が出来て、っていうような形ですね。実際あの下に昔の江戸時代の古い民家、あの頃はいくら人がいても掘り起こすのは大変ですから、その頃の方が何人か入っているかなというような気がします。

 たぶん、その頃に匹敵するくらいの大雨が降った。明治になって河川法というのが出来て、河川を改修するんですが、やはりお金の問題で追いつかないというようなことで、非常に遅れているというのが現状かなと。今回の台風で破堤したんですけれども、その破堤にしても非常に原因があるので、これは信濃毎日新聞の、(写真を見せて)防波堤の切れた所なんですよね。見えますか?曲がっているんですよね。本来、堤防ですから真っすぐ行かないと。これ、真っすぐ行けばこういうことはなかったと思いますよ。ここが曲がっているというのは内側に住んでる方がいて、用地買収が上手く行かなかったのでここを曲げようと。ここを仕様がないから繋げてしまおうというのが基本的にあるんですよね。結局ここが急カーブで、越水し始めたものですから、水がここにもろに当たる。で、これだけの大きな幅で破堤しちゃったということなんですよね。今度改修する時には、本当に真っすぐ繋げておけば、まずは同じ破堤はしないと思うんですけれども。今の所はとてもじゃないですけれども、用地買収にしたってどうかな、たぶん現状でやるかと思います。現状でやるのもいいんですけれども、今回の台風で水位が上がったの見ても堤防の天板の裏まで全部ですね、コンクリート張りにしてくれればまあ、自然には良くないんですけれども、コンクリート張りなら超水してもですね、ずれることはないと。表の方の、川側の水位に対しては護岸を貼るんだけれども、裏はどうしても二の次ということで、それだけの予算的なものもないということだと思います。

 今日の本題ですけれども、八重原台地がどうして出来たかということで、八重原台地そのものも土石流の積み重ねでこうなりました、というのが現実です。それも200万年前、150万年前ということになるんですが、その頃は誰も生きていませんので、それでよく昔話しをしますと、「見て来たみたい」と。「いや、見て来た訳じゃないんだ」ということになるんですよね。

 ちょっと土石を採取して来たんですが、これがですね、その土石流になって流れて来たものですよね。土石流というのは、重いものがどんどん入り込んで、軽いものが最後に上に残るんですよ。こういうものが残りますと、そこに木や草が生えて、だんだん根っこが出て、それが割れるんですよね。細かくなる。そこを木を抜いて耕して、これが土になる。まさに八重原の土です。その中に出て来るのが凝灰岩。これが珍しいんですけど、たまたま傍にあったんですけど、火山灰で出来た石です。結局そういうものが土石流で出て来て、重い大きい石はどんどん下へ行って、こういう軽いものが上に残った。これが土になる。ということになります。それじゃ、八重原台地は何で出来たというと泥流と火砕流ですよね。それで出来ましたというと、それで終わっちゃうんですが(笑い)、ちょっと図式を使いながら説明します。

 じゃあ、いつ頃から遡れば良いいいかといいますと、およそ2500万年前くらいまで遡らないと八重原の歴史は語れない。それを手短に話して行きたいと思います。日本列島が大陸から分離し出したのは2500万年前。それで日本海が出来て、だんだんこっちへ離れて来たのが1700万年前くらいなんですよね。その頃というのは、1700万年前というのは、西日本の方しかなかったんです。大陸と繋がって。その次は動物が来たというのがあります。まだこちらの八重原、東日本は海の中だったんですね。どういうことが行われたかというと、(北海道の地図を見せて)これが北海道ですよね、要は、日本はプレートの塊に囲まれている危ない所なんです。

 例えば北海道ですけど、ユーラシアプレートがこっちから押して来ています。で、北米プレートというのが押してきます。当然こうなりますので、真ん中が盛り上がります。これが日高山脈。これが襟裳岬ですよね。襟裳岬の先に岩盤が出ていますけれども、その時の名残です。北海道はこうして山脈を境にして出来た、ということで、今もこれは続いている訳です。ここに北方領土がありますけれども、1万年もすれば北海道にくっつきます。だから無理矢理、今、返してくれと言わなくても、1万年経てば(笑い)これは俺の土地だよ、と言うことが出来ますので、ただ、これを確認するのは難しいですので。

 (西日本の地図を書いた紙を広げて)それで、西日本になります。これが中央山地、四国山地ですね。九州と対応してみるとこう、ね。ユーラシアプレートの白地があります。こっちから押してくるのがフィリピン海プレート。これをこう、真ん中で折ります。ちょっと押してますけど、四国もやっぱり同じく折ります。紀伊半島もほぼ同じですけど、山地の形が出来ます。

 それで今度は東日本。(地図を広げて)東日本がございます。こうくっつきます。ちょっと見て頂きたいんですけど、ここがユーラシアプレートと太平洋プレート。太平洋プレートに押されますから北上山地、奥羽山脈。

 一つ、長野県は当然プレートがもし、ユーラシアと太平洋でしたら、真ん中に山脈が出来る筈です。ところがどういう訳か、長野県が縦方向なんです。山脈が。これは何故かというと、ユーラシアプレートがこういうふうに入って来ているんです。西日本が大陸から繋がって来た時には海の中。ユーラシアプレートに押されて、これがだんだん押される。こっちから押される。ここが、こういう形になる。北アルプスが、ここがこういう形に盛り上がって来た。ここで面白いのが、ユーラシアプレートがこちらの北アルプスを盛り上げたのは、大体5億年から6億年前の地層なんです。それが盛り上がって来た。一方、今度は南アルプス、こっちは5千万年も行かない、本当に若い地層なんですね。それまで海底にありましたものですから。福井県の「恐竜博物館」て、ご存知ですか。ここで、福井県で恐竜の化石が出ます。これは白亜紀の地層も一緒に隆起してます。で、岐阜県からも恐竜の化石が出ます。ということで、この中央構造線というのが、ユーラシアプレートを境にした線なんですよね。

 フォッサマグナって良く聞きますよね。これが隆起する時にこれが押されて、ここが非常に軟弱な堆積物で覆われたということのフォッサマグナです。これが怖いのは、大きな地震を誘発する場所。常にこれが押されてこうなっている訳ですから、ずれようずれようとしてるもんですから、非常にここは地震の巣になってます。ユーラシアプレートはずっと北海道まで続いてます。北海道の南西沖地震だとか、能登半島沖地震、これが皆この中央構造線付近で起きてます。細かくいうとここから少し隆起して、善光寺から新潟に通る断層の確認もされています。そして常にこれが動いているんですね。中央構造線を境にして中央アルプス、北アルプスは古い地層。南アルプス、北上山地もそうですが、まだ非常に新しい5000万年前くらいの地層だということです。常に、これが4つのプレートですよね、北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、あとユーラシアプレート、この4枚の上に日本は乗っかっている、非常に危ない日本だということなんです。4枚ものプレートに乗っかってる長野、日本。長野県というのは非常に危ないということです。

 (さらに詳しい地図を広げて)その部分をちょっと拡大させて頂きます。今、これは八ヶ岳ですよね。こっちの対岸に烏帽子岳があります。さて、これが押されて来ますよね。当然押されて来ると、これが隆起して、八重原が山の上になってます。本当は。だけど、どういう訳か、八重原は真っ平らで、この両脇に火山帯が出来た。この理由は何かというのは、(太い棒のような重しを八重原の中央に置いて)これを置かしてもらいます。ここに何かがあったんです。こうやることによって、こういう形。火山が。(八重原の前後に山脈が出来て)こういう形が出来たんです。この重しが何かというと、実は海水だったんです。海で重みがあるものですから、上れないんですよね。迫り上がれない。ここに迫り上がりますと空隙が出来ますので、ここにマグマが集中します。すると火山が出来ます。こちらも同じく迫り上がりまして亀裂が出来る。マグマが集る。噴火する。八ヶ岳の方が古くって、200万年前から1万年前まで火山で、盛んに噴火を繰り返してた。烏帽子の方ですね、浅間山のこれは新しくて10万年前から火山の活動が始まったということです。八重原は海水があるせいで、真っ平らの、水の中にまだあったということです。ガッテンして頂けましたか。(笑い)

司会 海水の中にあったと。だから海中生物の化石とかが出る訳ですね。

関益巳 そうです。その後、じゃあ八ヶ岳の火山の活動、これがメインです。八重原は、それと蓼科山の影響が多いです。噴火しますとだんだん、こう盛り上がってきまして、ある時期には一挙に崩れるんですよ。大体それの繰り返し。

 当然、その頃の気候というのは温暖的な、温かい気候だったと。象さんが住んでるくらいみたいですから。温かかったということですから、当然火山が、噴火が続きます。盛り上がる。それから崩れる。その繰り返しで火山の裾野が傾斜というんですか、そういうふうな歴史があります。同じく浅間山もそうです。10万年前から皆、こちら噴火してはまた、大雨も当然降りますので、その影響で土石流も流れ出ます。そういうことで本来、海の中だったので当然土石流が来ます。でもここに水があるものですからここで止められちゃうんですよ。水がなければすーっとどんどん先まで行って、両方から重なってどうしようもない状況だったと思うんですけど、海があったお陰で土石流がそこでブレーキがかかって止まったという状況です。

 どういう年代でどういうふうに重なって来たというのはですね、八重原台地というのは小諸層群という、小諸の層群という名称の地層なんです。これが大体500万年前頃、梨平層というのがまず、昔の層が出来まして、その上に八ヶ岳関係の火山、あるいはそのこれ以前の海底火山の噴出物が堆積して行った。

 まず、500万年前に梨平というのが作られた。それでこの塁層の塁というのはですね、地層を見た時に大体同じようなものが、(一つの石を手に取って)例えばこういう石がですね、同じような具合に入っていたと、そこで線を区切る。ということで、塁層ということで分けてます。

 100万年経った次の時代には、小諸層群の大杭塁層というのが出来てます。400万年前ですね。大杭塁層は、この前の台風で小諸の吊り橋が流されましたよね。大杭橋というんですけど、あそこが、見られます。そこから始まってます、地層が。それからずっと始まりまして、最後に見える所は上田の新幹線の下ですかね。あそこまで、あそこで地層が見えます。これが大体400万年前。

 その次に、これが、布引塁層というのが出ます。これが布引観音という所にだーっと見えますよね。それから羽毛山の下。あれが布引塁層。布引層と言われる地層になります。これが大体200万年前頃からですね。

 で、この時にですね、御牧原台地と八重原台地を形作ったのが、大きい泥流が確認されていると。それを見たのかと言われると、見ていないのは残念だけど、層を見ますとどうも、その、これだけの塊のものが、集って来たと。で、じゃあ、これのもとはどこだと言ったら、蓼科山だね、ということで。蓼科の観音寺の名称として観音寺泥流というようなことで記憶されてます。

 これが布引塁層ですね。大体布引層で120メートル、地層があります。布引き観音の所ですね。大杭塁層で大体60メートルです。

 最後にですね、これの、八重原台地の仕上げにかかったのが小諸層群の4つ目ですね。瓜生坂層というのがあります。これが最後の仕上げに入った訳です。これが100万年前。この頃は八ヶ岳が噴火してますので、八ヶ岳系列の火山が材料を作り出して、八重原とこっちの、八ヶ岳の山麓の方へ押し出して、というような歴史が分かりました。

 これがですね、はっきり分かったのは、千曲ビューラインの工事をやる時に、島河原から下八重原に上る崖があるんですね。あそこを掘削したんです。そしたら、後で写真がありますけれども、この地層がですね、明らかに高さまで、あ、こんなに高さがある、ということで、分かりました。

 同じく千曲ビューラインの御牧原台地、小諸から上って来る工事の時にも、だいぶ山を削った。その時にこういうものが出て来た。ということで、地質学的には嬉しい話しです。

 本来だったら、これを樹脂で囲って、そのまま置いておいてくれるのが一番良かったんですけど、そんな訳にも行きませんので土木技術者はコンクリートで固めるような形で、もう隠れちゃって見えないんですが。

 一応初めてこういう厚さですよね、120メートル、60メートル、それで瓜生坂層、やはり40から50メートルくらいのものがあった、というのが確認されてます。

 で、八ヶ岳の火山列、八ヶ岳の火山て、いくつあるか分かりますか。数えたことあります? 全部でね、13あるんですよ。蓼科山から始まって、硫黄岳とか、ぱっと出るのが硫黄岳とか、もう出ないか。とにかく13ありました。一番端の八ヶ岳は、これはもう川上村関係ですよ。こちらの方は皆、泥流が流れ出たということで、八重原を作り出したのはさっきも言った観音寺泥流で。非常に大きなでございました。

 で、その頃のですね、この図を見て頂くと、これが八ヶ岳の火山。全部で13。細かいのを入れると13ある筈なんですが、中には載ってないのもあるから。それで蓼科山の隣に車山というのがある。これ、ちょっと載ってないんですけど、結構これ、昔は火山で、今はなだらかで、高原的な雰囲気なんですけど、昔は火山だったと。

 大体ですね、土石流がどれくらい流れるか、土砂量はどれくらい流れるか、大体山の高さの10倍は下流へ流れて行くということで、多分、八ヶ岳は今2200くらいですか。噴火してる当時は多分、硫黄やら何やら溜まって3000メートル近い山だったのではないかと。それが一挙に崩れますと、最低30キロ、もう八重原を越えて川まで打ち込むくらいな長さですよね。そこを非常に早いスピードで流れ下って行ったという状況になります。

 その地層図に示されている白い所。これがですね、この当時はまだ湖だった。で、最初は海だったんですが、だんだん隆起して来ますと、雨も降ります、隆起して行くとこれがどんどん、海水がどんどん流れさって、逆に真水が溜まる。で、湖になる。ということで、まあその当時の湖跡になりますよね。ここは今の凝石層で佐久平、というようなことで平になってる箇所です。で、千曲川はこの固い所を避けるように、柔らかい所柔らかい所を流れるものですから、千の曲りの川だとか言ってましたけど、名称は千曲川ということですね。

 で、そういう泥流がですね、その泥流の写真がこちらになります。これですね。これがですね、千曲ビューラインの御牧原台地を掘削した時の状況です。400万年前からの地層ということで、黒く見える所がこれが布引層という、まあ120メートルくらい、黒い所ですね。この上に観音寺から流れて来た泥流、これがこの茶色の部分。この中に黒いものが見えますけど、これが流れて来た土です。これだけのものを流す威力ですね。見ての通り重いものは地層の下に、軽いものは上の方に、流れた後にこう、溜まるというような状況になります。観音寺の泥流と同じく松本側の泥流、堆積物というのはその前にありましたと。両方とも火山起源の物質を大量に含んでいます、ということですね。

 その下が鹿曲川に見られるこういう土層、いわゆる地層が見えている所。ここにもですね、でっかい石がごろごろしてます。これだけのものをですね、山の上から、中腹から運んで来るというのは、力を推し量れると。こういうのを見ますと、この時代に生きていなくて良かった、と。(笑い)泥流に逃げ惑うようなのは困りますけれども。

 その次が、これも同じくです。工事、ビューラインの工事をやった時の写真になります。この写真のですね、緑の部分。これが古い地層で、基盤で海底にあったものが盛り上がって来た時に出て来る内村層ですね。中央斜めと水平にこうなっているのが小諸層群になります。142号の改修工事の時に蓼科の所から出たということでございます。その下が工事中のやっぱり写真なんですが、要はその、最後の大杭層という地層がありまして、これが最後に泥流で出来た地盤なんですけど、これ途中からがくんと落ちてますよね。この部分は陥没してます。陥没の原因というのは、要はこの上にですね、水平に溜まってる、これが北御牧の凝塊角礫岩の層ということで、これがまさしく八重原台地を形造った、北御牧凝塊角礫岩層ということですね。これが八重原の台地の攻防ということになります。これでも見てもらえるように、結構大きい石は中の方に、細かいのが上の方にということで、流れて来ている時に沈んで止って、というように地層になっている。これだけのものが出る訳ですから、なかなか地質学者としては嬉しい自然でございます。

 で、これがですね、400万年前、ちょうど小諸から諏訪にかけて大きな湖が、火山が小さい時ですね、湖がありまして、ここに上がって来た古い地盤の横に、今度こちらから水平に、黄色い部分ですね、地盤が重なってますが、要は古い地層が押されて斜めになるんですが、そこに新しい地層がどんどん水平に溜まって行きますよ、というようなことです。これは古い方が内村層で、1600万年前。新しい方が、400万年前の地層になります。

 それから、最後の仕上げにかかった瓜生坂層。この白い、火山灰と軽石の混じったものになります。100万年前ほどの堆積したものです。当然、黒い部分が火山灰になりますよね。それから、白いのがシルト(砂と粘土の中間の細かさのもの)、それと砂。そういうものが五層になりながら、ある時は火山灰、ある時は砂。シルトが侵されながらきれいに地層になっている。この地層はですね、八重原台地や御牧原台地の上に広く分布して、最後に仕上げにかかったのは北御牧の凝塊角礫岩。これですね。これが仕上げになります。瓜生の最後の境になります。

 それで、羽毛山でアケボノ象が、化石が出ましたよ、と。要はですね、4、5頭まとまって発見されましたというのがあるんですが、これはですね、可哀相に、たぶん土石流で流されて、その場所で皆さん亡くなったんだな、というふうに私は思ってます。生きた状態で生き埋めになったと。それが、たまたま幸運にも、象さんが3頭4頭、まとまって見つかるようなことになりました。

 これが大杭層。基盤のね。これが上田の新幹線の河梁の所の中に見られる。とにかく八重原は、皆さんおっしゃっていたように、今は非常に住みやすい所でありますが、その100万年前に生きていたら、たぶん逃げ回ってたんだろうな、と。(笑い)日々、土石流と火山灰やらから逃げ回ってたのが実態なんだろうな、というような気がします。

 最後のまとめになりますけれども、ちょっと早めですかね、大丈夫ですか? 

司会 大丈夫です。質問がたくさんありますから。(笑い)

関益巳 八重原台地はですね、1500万年前頃はもう、こういう海の底にありましたよということですよね。糸魚川構造線を境にまあ、東と分かれておりまして、西日本は1500万年前頃は大陸の一部として、すでに陸地になってました。東日本の方はまだ海底の中で、徐々に押されながら少し火山の頭が見えるくらい。大体800万年前頃から海底火山の爆発があって、プレートで押されて、山並みが見えて来る、というような気がします。

 中部地方ですね、先ほど見たように、北アルプス、南アルプスにしましても、プレートの動きに揉まれながら、長野県は中部地方は縦方向ですね。皆、横方向に山脈は山があるのに、長野県だけは縦方向に山が出来たということです。

 当然、海底火山がだんだん隆起してきます。そうすると代表的な八ヶ岳火山と浅間山、烏帽子火山列というのはで来たんですが、もしここに何もなく、真っ平で海水が上がって来たとしたら、八重原はたぶん2800メートルの高い所にいたということで、たまたま何かの、海底から水が上がってくる時にこちらの方が重しがありました。その関係で、上が2列に平行して上がって来たので、八重原は水の中だったと。そうするうちに、当然、火山ですから、こっちの火山もありますけど、主に八ヶ岳ですよね、爆発しまして。

 小海線で旅して頂くと、断崖絶壁が多いんです。まさに八ヶ岳が造ってくれたような地層になります。1500万年前にですね、八重原は水の中だった。火山によりまして盛んに土砂が供給されまして、尚かつ徐々に上がって来るものですから、水がだんだんに抜けて、実際に今の千曲川という川が流れるような、風光明媚な地域になったということでね。

 本当に八重原という所は偶然に偶然が重なって、非常に良い所に火山があったと。溶岩台地ですよね。スパーンと切ったように切れてますけど、本当に水があったお陰で溶岩がここで止まってくれて、真四角に近い形で台地が残ったということがですね、言えるんじゃないかと。

 かなり先人の方が来られまして、こんな土をしたここに草が、木が生えてます。これを見て、あれっと思うんですが、真っ平らな所で、じゃあここに住もうかということで、まあ、開墾します。木や草の根っこがあって、冬は寒い。で、分解されます。細かくなります。それを徐々に耕しながら、今の耕作地が出来ていると。八重原の土地を耕しますよね。トラクターでもそうですけど、鍬柄でやっても必ずこういうものが(石を見せて)がんがんぶつかります。こんなようなものが。八重原台地の所を何気に回ってみますと、畑の隅にいっぱいこういう石が重ねてありましてね。皆さん先人の方が耕しながらこういうものをどけて、こんな土地にしてきた。

 御牧原台地の方は八重原に比べてそんなに石はないんでしょうね。ないっていうんじゃなくて、あることはあるんですけど、畑の隅に積み上げるほどの石はない。そういうことで、その原因としては御牧原台地に来た泥流と八重原台地に来た泥流の、若干その性質に違いがあったかなと思ってます。

 当然、私がもしタイムマシンがあれば、昔に行ってみて、空から見てみたいと。昔の話しをしますと「おめえ、見て来たようなことを言って」と言われますが、「もちろん、見て来た訳じゃねえけど」って言いますけど。(笑い)

 一応そんなことで、八重原台地が出来上がりましたと。いうようなことでですね、ちょっと締めたいと思うんですが。以上でございます。

司会 ありがとうございました。それじゃ、ちょっと質問コーナーにしたいと思うんですけど。

TY 私、ちょっと訊きたかったんですけど、その重しになってた海というのは、どのくらいの深さだったんでしょう。

関益巳 ちょっと深さまでは分からないんですが、今のですね、この台地のたぶん、この部分ですよね、この部分が最終的に湖と確認された場所だと、考えています。というのは、泥流に押される。上がって来る。だんだん水が引ける。で、次の泥流がこっちへどんどん出て来る。というので、この段階で分かるのは、こっちの下流の方もですね、繋がってたと思うんですが、湖かなと。

司会 海水ではなく、真水ですね。

関益巳 真水です。その頃は完然な真水。

TY さっきの説明だと、ここは本当は平らで、ここが隆起して、海の重しがあって、と。だから、もともとここは平らな土地で、その上に乗っかった海という感じですよね。

関益巳 そうです。海底から隆起する時に、たまたま上がりやすかった所ですかね。岩盤の弱い所に出来るものですから。そこを目掛けて上がって来る。もしここに何もなければ、たぶんこの八重原がこの真ん中に山脈になってる。同じことが松本平ですかね、あそこにかけても言えるんですよ。北アルプスとこっちの美ヶ原高原の間に松本平というのが平になってますけど、あれもやっぱりそうです。その重しのお陰でもうこっちは上がらずに止まってる。こっちは押される、こっちからも押されるで、車山のあそこは、あの部分に上がってくしかなかった。美ヶ原も車山も今は滑らかなんですが、たぶん火山ですから、猛々しい山だったと考えられますね。その辺がなかなか、どこに最初に亀裂が生じるかと。亀裂が生じると必ずマグマが噴き出します。当然そこから隆起して上がって来ると。これも全体の海の中で、頭を出した所が、たまたま火山だったんだけど、ここに何もなければ、ここに迫り上がりながら。

TY 二つにはならない。

関益巳 そうです。水があるもんですから、押すにも押されない。じゃあここで立ち上がるか……

TY じゃあ、相当な重しは、効いてた訳ですね。

関益巳 重しは効いてましたね。お陰さまで佐久平もそうですが、佐久平というくらい平らな所が残ったんじゃないかと思います。で、大昔の話しを聞くと、非常に大きい湖があって、甲府の方にも流れてたというんですね。誰が見たのかというと、誰もいないんですが、地層学者が見ると、川上村から清里を越えて反対側に水が流れていた、というようなことも聞きました。

司会 実際にほら、海ノ口とか、あれって昔の、誰かそういう湖を見た人がいて、ということなのか、どうなんですかね。

関益巳 どうなんですかね。ただ、あの、見た人はたぶんいないと思うんだけど、地層を観察すると、ここは海だったということは解るんですね。生物の死骸で。ここに結構生物の死骸が入っているんですよね。ここが淡水湖だったというのは笠取峠の工事をする時に、瓜生坂層と名付けたんですけれども、土質関係の方が地層を見るんですが、中には生物学者の方もいて、そこを削って顕微鏡で見る。そうすると淡水性の生物があるんで、ここはその当時、瓜生坂層の100万年前は淡水性の湖が広がっていたという推測をするんですよ。地層は時時刻刻動いてますんで、まあ、突然隆起するということはあまりないんですが、隆起した時には高い所に行ってしまいますので、確認してじゃあ、ここまでかというと、それもまた言うのも難しいかなということですね。

KE じゃあ、古い地層だと海水の中だったという。

関益巳 そうです。プランクトンとかいうものは確認出来るということなんですよね。そこら辺はもう、生物学者の範疇になってしまいますが。それでも台地の崖の辺りは温暖で草木も茂って、象さんも一年中のんびり暮らすような環境だったというのは、大杭層ですか、この一番下の大杭層の頃では、ここでは象さんが、アケボノ象が暮らしてたと。集団を持って暮らしていたなら、食糧がないと駄目ですので、比較的暖かくて食糧にも事欠かなかったということですよね。熱帯とは言わないですけど、亜熱帯に近い、年中植物が繁茂しているような状況かなと。そういうことが想像されますね。

TY あの、海野宿とかいうのは、あれは人の名前から来てますかね。

関益巳 海野宿というのはここを治めた海野氏。真田の家来だったんですよね。

TY じゃあ、あそこが海だったという訳ではなくて。

関益巳 そうじゃなくて、あれはたまたま名字で言ってる訳ですね。だから海ノ口とか言ってますけど、小海線のね。あれはたぶん、地層を見て、見た結果ここは海水だったみたいなことで、たぶん何百年前は海だったかなと。

KE ここら辺は八ヶ岳とか蓼科の方からで、千曲川の向こう側は。

関益巳 ええ、烏帽子の。

KE 違うってことですね、性質が。

関益巳 そうです。烏帽子の噴火したのは大体10万年前。浅間山が噴火し始めたのは1万年前から。どういうわけか、四阿山から始まって烏帽子、最後に浅間山が活動し始めたのは1万年前。まだ若いです。八ヶ岳の方は200万年前だから。蓼科山は反対側が崩れて、もう死火山状態ですね。安定した、崩れるものはもう全部崩して安定した、女性的な山になってますよね。

 そういう山で見ますと、完全に死火山とは言えないんですが、背駒は今は休止をしています。もうほとんどの土砂を払って、安定した山裾っていうんですか、になっているんじゃないかなと思います。烏帽子の方は火山帯が、烏帽子の火山列が、富士火山帯の系列なんです。

 草津の白根山から北海道までが、火山帯が那須火山帯という、温泉に入りますと、硫黄泉なんですよね、ほとんど。こっちはアルカリ温泉。箱根で一部、酸性の温泉がありますが、アルカリ温泉なんですよ。向こうはもう本当に那須の方は黄色っぽいんですが、こっちは真っ黒です。八ヶ岳も同じ。

TY じゃあ、こちらの台地は浅間の火山灰の影響というか、その積み重なったとか、聞いたことがあるような気がするんですが。

関益巳 それはたぶん、ないでしょうね。浅間山は10万年前、いや、1万年前ですか、これはもう学説的に分かっていますが、それ以前に100万年前の瓜生坂層が最後ですから、ま、その上に風向きによって浅間山の軽石とか、そういうものがたまたま重なって積もったことは、あるかとも思うんですが、浅間山自体は直接関係してはいないと。ただ、軽井沢とか、あっちの佐久の方なんですよね。飛んで行って積もっている可能性はあるかと。浅間山はどっちかというと群馬県の方に、こっちに風が吹いても軽井沢と御代田と小諸の一部くらいが浅間山の影響を受けるくらいで、こちらの方は、八重原台地は、こっちの山の影響ですね。

TY この図で行くと、八重原はこれ。じゃあ御牧原の方はどういう位置関係になりますか。

関益巳 これをちょっと見て頂くと、ここの上の方に赤丸が御牧原台地なんですよ。黒丸が八重原台地。八重原台地の方は中部更新世の堆積物。御牧原台地の方は八ヶ岳火山の噴出物。ということでですね、八ヶ岳火山の噴出物は赤斜線になってますよね。これは八ヶ岳一つでなくて、八ヶ岳火山列ということで見てもらいたいんです。八ヶ岳から始まって立科町まで、蓼科山まで含めた山からの噴出物。これを合うわせて全部、一言で八ヶ岳の火山列というような。もとはやっぱり八重原台地も、八ヶ岳の火山の堆積物があるんですが、最終的には八重原の方は観音寺の泥流。青い部分ですね。中部更新世になってますけど、この更新期の観音寺泥流がメインになってます。その形でですね、もう一枚の方が八ヶ岳の火山から来るやつでございまして、こう見て頂くと蓼科山が上の方にあります。ということでこちらから吹き出して、こちらが八重原台地。こちらが御牧原台地です。こんな形になりまして、最後の観音寺の泥流ですよね。これが終わった後、双葉の泥流というのがあるんですけど、この二つが最終的に蓼科山から八重原と御牧原台地に押し寄せて来て、これが一番最後の完成形です。というふうに見てもらえればと思います。

司会 質問があれば、手を挙げてもらえますか。

TM 東部町の方から八重原、御牧原、手前の方に鹿曲川があって、八重原の台地の方が崖のような形になっています。城峯なんていう。あれはかなり丈夫な岩盤ということよりも、土が重なって出来ているということなんでしょうか。

関益巳 これも表面に近い所で、これは結局長く時間を掛けてます。石になっちゃうんですよね。これに。羽毛山で大体、120メートルくらいになるんですよ。下は完全にこれになってる筈です。もともと上の木の生えてる部分の所は、まだ圧力がかからないもんですから、たぶん、まだ固まりかけてるかと思います。

TM 固まるにはどのくらい、まだ何万年もかかりますか。

関益巳 ただ、この上にですね、また同じく100万年近く土砂で圧力をかけてやらないと、石にはちょっと。この石ってのも、下にある石なんですけれども、これはこの泥流と一緒に上から流れて来た。その頃は上の方は圧力がかかって石になってた。火山灰なんですけれども、石になってたものが、ちょっとした泥流で流れた時に壊されながら、破壊されながら、流れて来ている。で、完全な石になった。こういう中にこれが入っている。表面の泥の部分は、これは相当の年月をかけないと、かなり圧力をかけないと石にはならない。これが表面にあれば、ぼろぼろの土になる、というようなことです。下の方は本当にかちかちの。上の方は、10メートルくらいは、こんな感じでしょうね。柔らかい。

TM すると八ヶ岳の方から攻めて来て、千曲川の所で浅間の方からのと合流をして、低い所が川に流れて行って、どんどん、どんどん、削って行ったと。

関益巳 そうそう、小諸の辺りまでは、浅間山の対岸は、浅間山の影響がある。佐久の方も少しありますけど、こちらは八ヶ岳。こっちまではなかなか影響ないんで、こちらはもう蓼科山のものだけと。だんだん陸がこう上がって来ますと湖も涸れて最後は川になったりと。その川が下がって行く時に削り放題削って。だから土地がある程度固いと、川は東部町の方に流れながら、で、だんだん少しずつ、あの今回の台風のような大雨の時に少しずつ削って、今の形になったと。

KE あの断崖は千曲川によってああいう、絶壁になったということですね。

関益巳 そうですね。地層も柔らかいのもありますし、固い所はですね、ある程度、下を削られると上が落っこちちゃうんです。そうすると包丁で切ったようにドーンと落ちる。それでまた今回の台風のような大雨で下が削られると、またそこからストーンと落ちる。そういう地層にね、凝灰角礫岩といって結構、脆い所があるんですよ。それで、下が削られて行く。

TM 八反田の辺りもですね、西側の方がすごい崖になってまして、あれもいずれ崩れちゃうんでしょうか。

関益巳 たぶん。いずれ下が抉られると、崩れて来ますね。本当にこう、あの台地はきれいにスポーン、スポーンと、包丁で切ったみたい。

TY あの鹿曲川の両脇は、曲がった所が相当に抉られてて、それを一生懸命補強しようとしてますよね。道路がなくなったら困るから。でも、下が抉られてストーンと落ちたら、そういう理屈から行くと、ちょっと空しいものが。

関益巳 そうそう、昔はせいぜい馬や荷車が通るくらいだったから、家を作って、それだけの道があれば良かった。だけど、車社会になって、道幅が足りないということで、本来だったら川の幅は確保しなきゃいけないんですよ、ところが人家を移すには金が掛かるんで、みんな川の中へね、道を出すんですよ。結局、護岸で固めてあるから平気だよと言っても、川は元に戻りますので、元あった川なりに、今回の大雨で両側が崩れて、道路も駄目、通れません、なんて言ってますけど、そこへ道路を出したからそういうふうになるんだ、と。壊れた跡を見ますと、ちゃんと昔人が、馬が通ってた幅の所まできれいに削られてる。

 だからやっぱり、どんなにそこへ杭や鉄を打ち込んでも、鉄は分かりませんがコンクリートで作っても、下の方から抉られて、最終的には川は正直で、昔から流れてた範囲で、まあ、ちゃんと流す。これだけ流れますと、全部持って行ってますので、かなり深くなって流れてますよね。洪水の終わりになると早さが追いついてくるので上から流れて来たものがどんどん溜まる訳です。そういう繰り返しなんですね。だから安易に川の中へ出して欲しくないなと。海野橋も検査やったんですけど、自分の管理している千曲川の中に橋を作っちゃったんです。本来だともう、川がここにあるんだから、川の内側、って言うんですけどね、川の内側の方に橋脚を作んなくちゃいけないのに、それをやると用地買収がありますので、それをやると時間が掛かるので、安易に川の中に。

 それで、いけないことに下が大杭層の固い岩盤があるもんですから、何百万年ですから、そこへ直乗っけちゃった訳です。で、周りをブロック、護岸で固めても、それが抉られたら脆い。そのまま持ってかれちゃった。だから、くれぐれも、川の中に作るにしても杭をね、鉄の杭を入れて支えないと下が非常に固いので岩盤から抜けちゃうと、抜けちゃうこと以前に元あった川の外へね、中へ作ること自体がね、間違ってます。そんなこと言ってると大変なんですけど、やっぱり川の中へ作ろうとすると、用地買収はありますし、いろいろお金がかかることになるので、つい安易に川の中に道を作っちゃう。あそこは一応バイパスになってますけど、川にせり出した形で作ってますので。やっぱり川は昔に戻ると。今回、災害の写真なんかを見ますと、川が元に戻ってますね。ま、今回のことを少し教訓にしてもらってもいいかなと思います。

 2年前が広島の土石流でしたっけ。それで、山裾に建てるのは、それは仕方ないです。土地がないから。そういう所へ家を建てるんでしたら、少なくとも山裾に家を作るんでしたら、ここにね、幅50センチくらいの、こういう厚さの、三角形の構造物を作ってもらいたいんですよ。そうすると土石が流れて来た時に、ここで分かれますので、土砂に巻き込まれることはまずない。なかなかこんなこと言っても、金の掛かる話ですから、なかなか出来ないんですが、もし山の方に家を作るようなことがあれば。

TY 直撃はされなくて済む。

関益巳 直撃はされない。人の家は分からないけど、我が家は大丈夫。それはちょっと変な話ですが。そんなふうにやってもらえればと思うんですけどね。

司会 あの、八重原の台地と御牧原の台地はやっぱり鹿曲川で分かれているんですよね。

関益巳 そうです。やっぱり川は柔らかい所、柔らかい所、と削って行きますので。尚かつ削りながら成長を続けて行くというような気がしますけれども。

司会 将来、ここはどういうふうになっていくんでしょうか。

関益巳 将来はどうなりますかね。タイムマシンでもあれば。そんなことを話すと「お前、見て来たんかい」と。

TZ あとは100万年後。

司会 ここはもっと隆起していくんですか。

関益巳 いや、プレートの、やっぱり4枚のプレートで、非常に珍しい所なんですね、ここは。押し合いへし合いしながら、だから北方領土は1万年待てばちゃんと北海道にくっ付くから「返せ返せ」なんて、言わなくていい。だけど日本列島の東と西がたぶん、ものすごくクロージーなんですよ。昔は平らだったのが今はこんな感じ。また100万年すると、1万年でも少し。嬉しいことに、ハワイが日本にくっ付いてくる。(笑い)ハワイはくっ付いて来る、北方領土はくっ付いて来る、おまけに韓国ともまた陸続きになっちゃうね。

司会 睨み合ってる場合じゃないですね。

関益巳 睨み合ってる場合じゃないですよ。将来仲良くならないと、土地がちゃんとくっ付いちゃうんだから。

司会 土地が隆起していくんですね。山がどんどん上がって行くんですよね。

関益巳 そうですね。当然あの、悲劇なことに、日本列島は地震の巣。今は南海トラフって言われてますけど、ユーラシアプレートとフィリピン海プレートが今、せめぎあってるんですけど、なかなかどうしようもない話で。台風は予測出来ますけど、地震は予測困難。これだけはちょっと、地震の災害というのは大変かなと。

KE 先ほど北アルプスとか、そこら辺は結構古い、こっち側は新しいと言ってたのは、要するにここら辺のことなんですか。

関益巳 あ、ここら辺は新しいです。東日本はもう中央構造線を境にして、本当に新しい。2500万年前とか。中央アルプス、北アルプスは5億年とか、白亜紀の1億何千万年前とか、あの地層がどんどん迫り上がって来て。

KE ここら辺はせめぎ合ってるんですね。

関益巳 そう、一番おっかない所。ここが一番地震の巣で、おっかなですよ。ここが動かれると。松本のごふくじ岩層とかね、ありますけど、中央構造線の付近には断層がいくらでも入ってる。これほど怖い国はないんだなと思いますけど。お陰で福井県も恐竜、岐阜県もそうですけど、恐竜の骨が出て来る。北海道でもムカワ町で、ムカワ竜が出ましたよね。あれはどっちかというとまだ、ユーラシアプレートの付いてる頃に一緒に流れて来たのが押し出されて、陸地になった時にたまたま尻尾があって、ということなんですね。

 あとはフタバスズキ竜か。フタバスズキ竜もそうですけど、やっぱり海の恐竜はこっちに出ますけど、陸の恐竜は出ないんですよね。こっちは陸の恐竜が出ます。地質学的に。まあ、中央構造線も、この前上代田で、あそこで地震が震度6、やはりこちらからの断層でね。おっかないですよ。断層だとか。ただ、これそのものは動かないので、でも、いつ動くか分からない。非常に若い土地と古い土地が一緒になった日本です。

司会 ちょっとずれちゃうんですけど、原子力発電所とか、あるじゃないですか。ああいうのは日本でとか、大丈夫なんでしょうか。地震と聞くと思っちゃうんですけど。

関益巳 同じ原発でも、こっちの古い地層のあるやつですね。西日本は昔からの岩盤で、石灰岩の塊なんですよ。ここは。非常に固い。ガチガチの石灰岩の土地ですので。でも南海トラフの地震がありますので、その揺れに対してはどうか、そこがちょっと懸念されますよね。こっちの新しい地盤はまだ柔らかい土地。ということで、作った時に地震でどうなるか、まあ懸念はされます。古い地盤と古い地質、新しい地質が合体したような日本ですから、おっかないですよね。でも、ハワイと北方領土は嫌でも還って来ます。(笑い)「お前、見たんかよ」と言われますが。

KE ちょっと話は変わるんですが、ここら辺は粘土質だって話をよく聞くんですが、どういうことになっているんですか。

関益巳 これが凝灰岩。もともと凝灰岩なんですね。こういう中に、こういう石になりかけてる凝灰岩。この中に粘土とかシルト、粘土というのは粒子が細かいもんですから、耕したあとに雨が降ると、含まれてる砂分とかは重いから沈んじゃいますよね。上にあるのはシルト質の粘土。それが残るんで、粘土。確かに掘れば粘土なんですよ。ただ、シャベルで掘ってくと、こういうものが採れますし、何百年前の、何千年くらいは耕してますので、粘土だけが上に残っているような状態かなと思いますけれども。

司会 実は粘土は人的な行為によって。

関益巳 そうです、そうです。耕すものですから、ここにある砂ですとか、重いものは、それも田圃にすれば下に沈んじゃうんですよね。それの繰り返しで。結局、粒子の細かい軽い粘土が一番上にあるような、それによって作物が育つような流れだと思っています。

司会 国分寺の瓦とかも焼いたと聞いていて。600年代とか。その時にはもう粘土があって。それって人工的に平らな、流れて来る火砕流なのか泥流か、その上層部が粘土、っていう意味ではなくて。

関益巳 あくまでも流れて来たのはこういうものを含んだ、これです。田圃を掘ると粘土がこれだけあります。その下にはこれがあり、これがある。

KE 固い岩とか。

関益巳 そうです、そうです。粘土もシャベル一掘り、二掘りくらいか、それはもう長年その場所で耕してきた結果、あの粘土の形になってるだけ。きれいに粘土の層がだーっと八重原台地に、御牧原台地に出来たというのではなくて、それが出来てれば楽だったですけどね。植物の作用で砕かれる。雨が降る。で、重い砂が下に行く。軽いシルト質の粘土は上に上がる。だから千曲川が氾濫した時に砂も土砂も上から全部流れて行ったのが、結局床下に入ったのを見ると全部、粘土ですよね。砂はどこへ行ったかというと、その下にたぶん、それか遥か手前に、畑の中に残って、軽い粘土分だけが流れて来て。見てると大変なんだけど、ああ、粘土を出してるな、ということがあります。もしここら辺に人も何も入ってなければ、掘れば腐植土の下に浮遊土が出て来るかなと思いますけれどもね。ま、何百年、何千年は行かないけど、この土地を耕しながらやって来た結果が。

KE 凝灰岩が一番上に来て、粘土質の土になったということですね。

関益巳 成分的には粘土の下には掘って行くと砂も出て来ますし、砂利も出て来ますし、尚掘れば、こういう流れて来た当時のこういう石とか、火山質の石だとか、そういうものが入り交じって。

KE 相当掘って行くとでしょうね。

関益巳 1メートルくらい掘ると大分、違うんじゃないですかね。まあ、場所によりけりというのもあるかと思いますけれども、基本的に粘土、耕作地の粘土というのは皆、人的に作られた粘土というふうに思ってもらえればいいかと思います。たまたま陥没したような所があって、そこへ上から流れて来たのが溜まって、最後に軽いものが上に乗って、その部分だけ粘土、というのもあるかと思いますが。

司会 よろしいですか。今、何時でしょうか。はい、今日、関さんのお話しを聞いて、本当に目からウロコというか、八重原がこういう、噴火、その他の影響を受けていたこと、また海があったということ、それによってこういう台地になったというお話しを聞いて、ちょっとびっくりしましたし、また機会があれば他の方にもお伝えしたいなと、そういうふうに思いました。では拍手で。

(一同拍手)

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