第6回知恵蔵の時間 青木桂子さん

知恵蔵の時間 第6回  講話 青木桂子さん

「地域の憩いの場 憩いの家」

2018年10月21日  14時~

於 まる屋  司会 小林恭介  撮影 橘正人

司会 こんにちは。この知恵蔵の時間というのは、今日で6回目なんですけれどもね、青木桂子さんをゲストでお招きしたんですけれども、本当に橘さん、関さん、男としてこんなにね、女性に囲まれて(笑い)、まる屋始まって以来、初めてこんなに沢山の女性の方が集まったんじゃないかと思いますけれども。本当に有り難うございます。この知恵蔵の時間というのは、この北御牧のことについて、たぶん皆さんはいろんなことに関わられているじゃないですか。その関わられて来たことを、お話しを伺うことで、みんなで、あ、この地域はこんな所だったんだなとか、そういうことをお聞きするなかで、この地域をこんなふうにしていったらいいな、なんていうのをみんなで共有っていうのかな、出来れば良いなというふうに考えて始めました。今日もスペシャルなゲストにお越し頂きまして。あ、私はこの会を主催している小林恭介と申します。よろしくお願いします。

 それで、今まで何回かやってきたんですけど、これまで来られた方たちもそれぞれテーマを決めてまして、それに関するお話しをお聞きしたんですけど、今日は青木桂子さんには憩いの家の話しをぜひしてもらいたいなって思いました。今日のタイトルは「地域の憩いの場 憩いの家」ということで、まさにこの地域の皆さんの憩いの場、集まりの場である「憩いの家」について青木さんから、どうやって出来て来たのかといったこととか、どんなことをやってきたのか、やっていたのかということをお聞きしながら、これだけ皆さんいるとたぶん、いろんな形で関わって来ていると思うので、そういう話しもぜひお聞きしたいよね。この会はあんまり一方的にお話しをするというよりは、お茶飲み会みたいな感じなんで、進めながら桂子さんに訊きたいことを言ってもらってもいいし、自分で例えばこうだったよね、と、あったらどんどん言ってもらった方がいいと思います。

青木桂子 そう、一方通行じゃなくてね。

司会 そうそう、そんな感じで、約1時間半くらいの時間でやりたいと思いますので、よろしくお願いします。僕の方から自己紹介を簡単にしましたけれども、こんなことを桂子さんに聞きたいというのは、やっぱり憩いの家でどんなことを今までやって来たのかなということを、まあ、今もやってますけれどもね,桂子さんがどんなことをやってきたのかな、ということを、まあ、みんなでやって来たんだと思いますけど,それを教えて欲しいです。ちょっと自己紹介を、せっかくなんで兼ねて、一言ずつお願いします。

TY TYと申します。私は20年くらい前に絵画館が立ち上がるときにお世話になりまして、青木桂子さんの「すいとん」と「おやき」で頑張ってました。その時には白倉さんにも本当にお世話になりましたけれども、その時のみなさんの、出来上がって来た、そういうお話しが聞けたら本当に嬉しいと思います。よろしくお願い致します。

IF 憩いの家に15年間お世話になりました。IFと申します。お勤めさせて頂いた仲間同士の話しを聞きたいです。

SS SSと申します。私も憩いの家に20年だか15年だか勤めました。初めっから勤めさせてもらい、人生の間にこんなに良いことがあるのかな、ってくらい楽しい、憩いの家で過ごした時間が忘れられません。そういうことで、今日は桂子さんに良い話しを聞きたいと思って出席しました。

司会 そんなに楽しかったんですか!

SF でも青木さんが創立者よね。

KK KKと申します。よろしくお願いします。私は20年もは、いませんでしたが、途中でひとっきり入れて頂いて、いろんなことを教えてもらったり、楽しい思い出があります。今日は青木さんにぜひ来いと言われて、みんなの顔を見に来ました。よろしくお願いします。

YM YMです。おまんじゅうを作って売って、こんな楽しいことはなかったです。本当にお客さん相手でね、いろんなお漬け物を持ち寄ってお客さんが来れば皆さんにあげて、喜ばれて。たくさん来ましたね。大将がそういう気持ちですから。(笑い)何年か、楽しく過ごさせてもらいました。

OH 知らない人はいないと思いますが、(笑い)OHです。今日は久しぶりに皆さんにお会い出来ることを楽しみに来ました。皆さん,私と同様に年を取りましたね。(笑い)以上です。

司会 ありがとうございました。結構、皆さん、こうやって集まることは多くないんですか。

(一同、口々に) ないですよ。一年以上会ってないよ。何年ぶり?

司会 そうなんですか。すごい。

IM この憩いの家が出来た時からお世話になりました。途中でお姑さんがちょっと病気になりまして、4、5年休ませてもらいましたが、また来ました。お世話になりました。

SW 中八重原のSWです。昔の話しだと思いますがね、岩下よういちさんという人が、村会の議長をやっていて、それで御牧原で、池を拡張する補助事業があって、でも御牧原でキャンセルしちゃった。それで、どうしたもんだか八重原の池へ来ちゃった。しかし、これは八重原中の池ではなくて、下八重原の池だった。それだから八重原の池に補助を出して中八重原の……その辺が難しかったの。しかしよういちさんの英断でね、これは八重原をね、北御牧を良くしようとね、これは池(明神池)が、水量にすればね、当時の十倍ということです。土手を上げてね、なぜ十倍かというと、池は上口がたくさん水が溜ってね、下の方は(ほけて?)いるから見たとこからすれば、上口が少し上がっただけで、何倍かの水量が溜る。そんなことで、昔々の話しでした。

司会 そのときに憩いの家も出来たということですか。ああ、それより後か。

KM 私も憩いの家に始まる頃からお世話になって、それこそ私なんかまだ若かったから、右も左も知らない箱入り娘で育ったものですから本当に皆さんの、桂子さんに教えて頂いたり、皆さんにいろいろ教えてもらって、ここまでやって来れたような感じですけれども、人生であの頃が一番充実してたかなと。楽しい年月でした。あ、名前言うの忘れちゃった。KMといいますが、よろしくお願い致します。

Km 私は桂子ちゃんがお話しするというので来ました

IM 私はしばらく憩いの家の近くに住んでいたことがありますが、憩いの家が気に入ってお世話になって来る度にお漬け物をね、皆さんいい人だったけど、青木さんがいないと寂しくてね,未だに、このまる屋さんが出来て、良いとこが出来てね、時間がある時は来させてもらっています。IMと申します。今は塩川に住んでます。よろしくお願い致します。

Im Imと申します。憩いの家でお世話になりました。よろしくお願いします。

IY IYです。憩いの家でね,皆さんのおもてなしに惚れまして、お客さんが来ると、「良いとこがあるから」って連れて行きました。ただ、いろいろ出して頂いた時に、無料なんですよ。「何か箱を置いといてお金を入れるようにしたら良いんじゃなあい」と言いましたけど。おもてなしに惚れて。以上です。

IM 中八重原のIMです。本当に憩いの家は女性パワーで溢れて、素敵な皆さんが盛り上がってまして、元気をもらう所でしたね。素晴らしい場所で。よろしくお願いします。

AK 私も憩いの家に10年くらい勤めさせて頂きましたけれども、なんにも知らないで、それこそ桂子さんに一から十まで手取り足取り教えて頂きました。本当に楽しい10年間でした。ありがとうございました。

KS 私も桂子さんから学んで。いろいろ勤めましたけど、皆さんと一緒に野菜を作ったり、それを加工して売ったり、来て下さる方に出したり、すごく充実した働き場だったと思います。楽しかった。TMさんとはうちのお父さんとの関係で、カメラの関係でお世話になって。よろしくお願いします。

YN 憩いの家には発足当時からお世話になってたんですけど,その頃はまだ若くて……それまではずっとお百姓一本でやってきて、いろいろのことが分からなかったんですが、いろいろ教えて頂いて、その頃が一番充実していたかなと思う時期だったと思います。

MS 始まった時からで、どういうものかも分からないで。さんざん苦労しましたが、とってもアイデアが良くって、こうやる、ああやる、って、入れて頂いて本当に楽しい憩いの家でね。みんなで一緒に旅行に行ったり、視察に行ったりしました。今もこうやって集まって頂いて、嬉しいです。

SF 皆さんの顔を拝見しても、私が一番年寄りなんだけれども、それこそ「70になったからそんなとこに勤めることは私には出来ません」って言ってたんだけれども、役場の人たちから「どうしても」っていう青木さんの言葉を聞いたから、「青木さんの下につくんなら、私もそれじゃあ社会に出てみるかなあ」って感じでね、それこさ畳を初めて敷いて頂いて、青カビみたとこ青木さんと一所懸命になって拭いて、苦労したって言えば苦労したんだけど、また、ここは繁盛しなけりゃいけないし、役場のためにもならなきゃいけないし、そういう関係があるからまあ一生懸命になって。若かったから。それから20年も生きちゃって。(笑い)生きちゃったんだけれども、本当にいろいろな思い出、それと一番は自給自足ってことがね、みんなで野沢菜を作って野沢菜のあんこ、それからもろこし、産地のものを利用して、すべて青木さんのアイデアで。それと一番は視察にね、長野中に憩いの家の名は響き渡ってたから。あっちからもこっちからもね、来てましたが、それは青木さんの顔です。私たちはなんでも青木さんの言う通りに動いていればいいと思って一生懸命になって、まあ皆さん一回でも口喧嘩したこともないし、いつも和気あいあいとして笑顔でお客さんを迎え、本当に楽しい、私の人生の足跡だと思って。一ページだと。青木さんと共に創立者でね。幾人くらいいたかね。私もちょっと分かんないんだけど。30人かいたよね。和気あいあいとして、青木さんの顔が光ってましたよ。

TM 皆さん、TMです。合併の時に合併記念の時に10000の瞳、それで笑顔の写真を一番最初に皆様方に、憩いの家にお邪魔しまして撮らせて頂きました。そのお蔭で、その時の写真を皆さんにお見せすると「こんなに良い顔してるだに」(笑い)と、本当に和やかに皆さんの写真を撮らせて頂きました。これは最初からのご縁だと思っております。ありがとうございました。

司会 ありがとうございました。さて皆さん、やっぱり憩いの家の話しを聞きたいんですけれども、憩いの家っていつ出来たんですか?それが僕、分かってないんですけど。あ、坐ってていいですよ。

青木桂子 こうやって机に取っ付いていれば大丈夫だよ。(笑い)さて、どん尻に控えしは青木さん、っておだてられてまあ、(笑い)恐縮しておりますが。

 創立はねえ、オープンしたのは平成8年。5月の連休に間に合うようにやっておくんなんしゃ、やっておくんなんしゃ、って。その時の村長さん、小山村長さんに言われてね。やっておくんなんし、って言われても、何をどうやっていいんだか、雲をつかむよう。仲間がみんなお百姓。専業農家のお母さん。商売なんてやったことのない人がさ、何をどうやっていいだか、まだその時は道具も何も揃ってないで、家からほとんど持って来てたの。みえこさんがみんな軽トラで運んでくれて、そんなことで始めた。どうして、あれから22年も経つんですわ、創立から。

 私らが嫁いだ時は、私はちょうど60年になるんですけど、八重原が悪原と言われるくらい、八重原で百姓をやるには本当に耕作面積が私の知ってる限り北佐久郡一。それで水がない。粘土土。まあず苦労するから八重原に行くか、悪原しょうかって。そういうことを言われて来たです。だからみんなが自分の住んでる地域、この北御牧村を本当に良いとこにしようっていう、そういうパワーが溢れてたの。今考えれば腰が曲がったり白髪になったり、耳が遠くなったり、まあ何か考え出すことが、そこの商店に行くが大変。あの、何たっけ、あすこさあ、それで長くなっちゃうけど、大体は分かるんだわ。そんなことで最初は、創立っていうか、その時は大体30人。それで平均年齢が六十ウン歳。この資料には65歳って書いてあるけど、70歳の人もいればもっと若い人が、KNさんなんて人は一生懸命やってくれたです。本当にその目標が安全、安心ってこと。本当にどんな時も、苦しい時は支え合い、楽しみは分かち合い、そういう精神でやってきたですわ。だから本当にお百姓のお母さんの和気あいあいとした集いの場でも、研鑽の場でもあったの。本当にいろんなことが勉強になったの。それで……ちょっと喉が乾いたわい。(笑い)

TY 坐って、坐って。ちょっと立ち過ぎですよ。

青木桂子 それではお言葉に甘えてちょっと腰掛けさせてもらいます。立ってるってことが何しろ苦労で。駄目。知らないうちに腰が曲がっちゃって。苦労したわいね。

 それでまずね、自分たちが何が出来るかってことで、生産から加工、販売ってことで、この土手の下のとこで村の所有してる畑があったです。そこをね、誰が作ってるかってことも、みんな役場の人も人事異動で分かんなくって。そしたら上八重原の白倉ゆきおさん、あの人が作ってるってことでね、こんなちっちゃな麦で、その時は雨の降った日でね、麦の穂から芽が出てるようなね。それで皆さんがやるなら作って下さいってことで、金井さんの旦那さんには本当、お世話になって。みんな土作りから始めただから。石灰を撒いたりさ、チップを入れたりしてそんな小さな麦だって鋤で起してもらって、それからトラクターでかき回してもらって、そこにそれじゃあ、ここの有名な何を作るかってことで、ジャガイモを作って。

 それから自分たちで作る、おやきの野沢菜を作るかって。それで野沢菜も苦労してまあ、日照りで生えなかった時は、ほうれん草くらいの野沢菜しか出来なかった。それを滝澤勉さんがね、うちの畑に作れって言ってくれて。それでタンクに水を汲んで、ジョウロでみんな、水をくれてたんだ。なんせ、おやきにするだけの材料がなかったの。そして、これは困ったもんだと思ったら、新聞で、青木村の休耕田で野沢菜を作ったって、それを売り出すってことで。だからさっそく申し込んで、それで穫りに行った時が雨っぷりで、みんながカッパ着て、トラックが3台ずらっと行って。「この二本が憩いの家の分です」なんて割り当てされて、それで両側から穫って来て、やっぱり青木の、あんな池の傍、神社の傍だったね、畑が。それで両側はほうれん草に棒をふったくらいの菜で、真ん中が良いお菜だったんだ。両側から穫って来たら、上田の人たちが後から来て、真ん中に入っちゃって。それで、今はいないけど、ともさんが「皆さん、そこは憩いの家のとこ!そこは憩いの家のとこ!」って。良いとこへさ、後から来て、割当られてる真ん中のとこに、しゅっと入っちゃうだに。まあそれで雨っぷりにみんながカッパ着て、それでお菜を穫って来て、あの丸子のけさみちゃんの、親類の息子がやってるレストランで、カッパ脱んでストーブ焚いてもらって乾かして。あの時食べたカツ丼(笑い)、本当に美味しかった。

 まあずほんと、苦しみもあったけど、楽しみもあったですよ。みんなで穫ったお菜穫りの時さ、雪ん中も穫ったし、そんな、ほうれん草のようなのも穫ったし。二十何樽、どれもみんな自分たちの、働き出した資金で樽を買ったんだに。その頃、丸い樽から、角のプラスチックの樽が流行って、それで信子さんとやってる最中に樽が足んなくなっちゃって、大地に買いに行って。畑から飛んでっただに。そんなようなこともしたが、そういうこともだんだん、みんな農家のお母さんだちだから、経験が豊富だからね、まあだんだん上手くいって、土作りもして、そういういろいろの体験をして来た訳ですが。

 なにしろ、あれですよ。そういう努力がね、県の方でも村の方でもみんな認められて、長野県の味のコンクールってのがあってね、そこへ出品して下さいっていうので、ここで私らが始めた時、今の陶芸教室の下の方、あれ精米やってたですわ。紫米作ってたの。それで紫米っていうのはね、今は新興?百四十何号かな。それに改良されてはぜかけも出来たけど、最初のはね、脱粒しちゃうんです。実が入ると稗と同じこと。みんなパラパラ落ちちゃうの。それだから、その、どこにもそこから下には田が無いっつう一番田尻に作ったわけ。それだから精米も別じゃないと混じっちゃう。それで、その下に精米の機械があって、そこで搗いて。だんだんやらなくなっちゃって、その機械は荻原しんちゃんだね、あの家とそれこさ本当、交流っていうか、よくやってね、みんないろいろな粉も、おやきの粉も荻原さん家から採り、また、あれもやったよな、送り物もえらいやって。北海道から九州までみんな送り出して。

 何だか知らないが、みんなの努力が実って、県の主宰のマイスターのサミットって言やあ、大げさだけど、それも憩いの家でやると。それに外国からも視察が来て、インドとか外国から、それも国家レベルで来てたですよ。なんでこんなお母さんだちの、何にも知らないようなこんな処へ、そんな国家レベルのさ、国の農林水産省から紹介されてね、13人と、通訳が一人付いて、みんな偉い人がやっていると、通訳が言って、その次の言葉が同時通訳じゃなくて、よく話しを聞いてから、あれが、どこまでで切れるだか分からないだよ。(笑い)何も分からないもんね。だから、言っていいかと思えば、まだその時じゃないと。(笑い)ああいうことも慣れない者には難しいもんで。まあ、いろいろな経験をしたが、この近辺はもちろんですが、県外からの、まだ、道の駅っていうのの走りだったんだね。それでみんな視察に来て、今の丸子、あそこは朝露、あの人たちもみんな視察に来たの。今はみんな自動販売機だけど。

白倉文江 おやきが評判良かったよね。ポテトのおやきとかさ。

青木桂子 そうそう、(一同それぞれに思いだして)野々村真とか、一緒にやったね。一緒にジャガイモを蒔いた。気さくな人だったよ。

 めた放映されたから有名になっちゃった。また、そのジャガイモが、その馬鈴薯を十文字にやって蒸かすと、ぱかっと、そこに飾ってあったダリアの花のよう。ぱかっと口が開いて、それがまず美味しそうだから、みんな全国から注文が来て、ジャガイモだけは足りなくって、みんな出してもらった。それで送り出したの。それでそのジャガイモのおやきを作るって時には、味研は、わしらみんな会員だったけど、ホントに先がけで、村起こしのお豆腐を作ったです。その時それが内閣総理大臣賞を取ったの。その時査定に見えたですね。東大の教授と慶応の先生が。それで立派な、みんなスーツ着た悠然たる人たちが幾人もついて案内して、味研を視察して、それから憩いの家でお茶を飲んで行った訳ですが、その時の東大の先生が、「ともお」って、こっちの兄さんと同じだから、それで覚えてるんだが、松田ともおさん。そしてね、ああいう大学教授なんていう人がここの歴史の話、本当に私は方言で喋るんだけど、その話を本当によく聞いてくれて。それでそこに売ってる物もね,説明して、「このお豆は下八重原の80歳になるお婆ちゃんがきれいに選別してくれて出してくれたお豆ですよ」って言ったら、「いやあ、私にもそれをください」って言って。買ってくれてって。その時は私もまだ若かったわなあ。それが今は80を越しちゃってるだから。腰も曲がる訳だと思ってさ。

SF そういう苦労もしたけどさ、視察もそこら中、お蕎麦の作り方なんかも鬼無里の方へ行ったり。旅行にも天竜船下りしたりさ。そういう楽しさもみんなでやったからね。

司会 天竜に行ったんですか。

(一同) 飯田の方へもね。平家の、落人のね。シモグリね。そこでお昼食べたね。

青木桂子 視察なんて、もうどこへでも行ったわね。そこら中に。小海線で清里まで行って、富士山を見て。銀座の店じまいのものを買って来たり。それこさ美術館はすべて回って。釣り場行ったり。

 武藤先生が、東京の方からこういう団体の人を連れて来てくれて。今も日体大の体操の方の指導をしてるから。ケアポートに来ればこっちの方に挨拶に来てくれる。

司会 おやきもたくさんの種類があるじゃないですか。あのおやきの種類はみんなで開発したんですか。

青木桂子 そう。それで、そのジャガイモのおやきを作るきっかけは、その東大の先生たちが見えた時、その説明して、「白土馬鈴薯っていってね、有名ですが、これをどうにかしておやきの具にしたらどうでしょう」って言ったら、そりゃあ良い考えだからやってみろ、ってわけ。

司会 それまではジャガイモのおやきはなかったんですか。

青木桂子 なかったの。ジャガイモは作ってても。その東大の先生たちが来た時にどうでしょう、って言ったら良いアイデアだ、って。ジャガイモは作ってても、ジャガイモのおやきは誰もやらなかった。特産のトウモロコシを入れて。

SF トウモロコシが産地だから、それを利用して青木さんたちが考えたり、みんなが考えてね。一番私が感心したのが、なすのアンコを作った時です。前の日に作っておいて冷蔵庫に入れておいてしみれさせておくから、今度はぱっと入れればほわっとなる。それを揚げたりね。評判良かったですよ。青木さんのアイデアがね。みんなで。

青木桂子 すいとんが良かったよ。地粉?のすいとんが。それがさ、米寿の人もここには幾人もいるし、みんな八十ウン歳。九十歳の人もいれば九十ナン歳のひとも来られない人もいるけど、あの頃はみんな張り切っていたよな。

(一同)そりゃそうだ。若かったもんなあ。(笑い)本当。

司会 一番最初は何人で始めたんですか?

青木桂子 30人。だから最初っから続けてやってる人も、殆どだったな。

司会 それでまたメンバーが増えたりしたんですね。

青木桂子 そうそう。増えたり、年とって辞めたり、いろいろ。定年なんてないよ。

SF 本当にボランティアなんですよ。毎日3時4時まで働いたって、半日分の給料しか貰えないんだから。それじゃ行けないなんて人は一人もいなくて。みんなが楽しくおやき作りね。今日は完売できた。ああ、良かった、って。

青木桂子 だから配達する人も苦労してくれたしさ。東部の学校へ持ってってくれたし。

SS 滋野の小学校にお芋も届けましたよね。

青木桂子 3つの小学校にやっただかい。

SS 滋野と和かな。

IF 私は滋野しか行かないよ。

SF 道の駅みたいなこともやったよね。

青木桂子 7月から10月までかい。夕市をやったね。

(一同)温泉病院にも。病院の前ですいとん売ったりしたね。温泉の前でね。大町にも行った。そこにみんな視察に行きました。そうしたら上手に作ってるから、ああいうふうに作らなきゃって。

青木桂子 鬼無里に行ったな。

SF それで、こんなに大きなおやきでな。それから、蕎麦の打ち方を習いに行ったね。自給自足みたいにやったから、とても評判も良くって。

司会 長野県中で、いろんなおやきがあるじゃないですか。それをまた見て、ここでも取り入れて、ということだったんですか。

SF みんなのを聞いて、揚げたのは嫌だって言う人もいるから。

司会 だって、おやきの生地だってね、粉は何を使うかだってね、場所によって違うんでしょう。

SF みんなお百姓やってるから、苦労だなんて言う人は誰もいなくって。とても楽しかったです。

司会 でも皆さん、お百姓さんで、忙しいじゃないですか。その忙しい中で皆さんが集まるということが。

IF 楽しいから。

司会 ああ、楽しいからなんですね。

SF 毎日じゃないからね。何曜日は誰と誰って決まってて、当番制みたいになってたから。

司会 家での田んぼの仕事、畑の仕事も、もちろんあって、この憩いの場に来るってことが楽しみだったってことですね。

IF メリハリがあってね。

SF 団体のお客さんの時に、青木さんが、タンポポだことの何だことの、みんな揚げ物にして。畦にみんなで行って採って。

青木桂子 東京の人たちをさ、武藤先生が連れて来てくれた時に、天ぷら料理を出したんだ。

SF よもぎから、そういうものを、ナズナだのね、それをみんな揚げて一皿ずつ持って。それがまた、みんなね、都会から来る人たちは大喜びでね。

青木桂子 タンポポだってね,朝早く、夕方は萎んじゃってだめで。日中だけ開くから。そういう観察しながらだよ。自然観察。楽しかったよ。いろいろのこと。それと、子供。今はもう十数年前、鍵っ子というのが流行ったんだよ。それで学校だけが週休二日制になって、それでお父さんもお母さんも、みんな勤めてるから、家は留守だから、あの、政治も今のように、児童館のような受け皿を作ってくれて、それから二日制にすればいいのに、そうじゃないから、寒い、もう10月の末ね、今頃、今は暖冬でこんなに暖かいけど、もうあの前で遊んでるから「ストーブ焚いてあるから、こっちに来て当たりな」って入れてくれてさ。

SF みんながお漬け物を持ち寄って、お客様に提供してたんだからね。本当に自慢の漬け物ぐらいする人がいっぱいいたからね。それを出してお客さんを喜ばしてたからね。ボランティアの精神ですよね。

青木桂子 (持参の袋から漬け物とみかんを取り出して)お茶を出してくれてるから、みんな、話しながらお茶飲めば。(笑い)(まる屋さんが漬け物を受け取って、一人分ずつ分けて配ってくださる)悪いと思ってさ。みんな話してるのに。

(一同、みかんと漬け物、お茶を頂く)

司会 青木さんは公民館の館長さんだったそうですね。それはどこの公民館だったんですか。北御牧の公民館て、いくつもあるじゃないですか。

(誰かが)一つだけだよ、北御牧の公民館は。

司会 じゃ、後は分館か。中央公民館ね。中央公民館の館長さんだったのね。すごいよね。

SF 女性の公民館長て、有名人だったですよ。鬼無里に行ってね、公民館に行ったらね,女性の公民館長さんは青木さんですか、ってね、そっちで知ってましたよ。

司会 憩いの家って行くとこうやって、漬け物が出るんだね。でも皆さんね,田んぼや畑の仕事が忙しいじゃないですか。でも、憩いの家に行くって言えば、家の人はみんな送り出してくれるよね。家の人も憩いの家で仕事だって言えばさ.

青木桂子 なにしろ、この地域を良くしようという気持ちがね。トラクターだって、みんなボランティアで起してくれたんだから。

(一同歓談)

司会 皆さんはここまで、どうやって来られてたんですか?

SF 車を持ってるのは二人きりだったけど、近所の人に乗せてもらったり、歩いて来たり、青木さんのバイクに乗せてもらったり。

司会 大変だったんですね。

SF あの美術館も反対が多かったけれども私はね、まず人が来てくれなきゃ商売にならないって言ったんですよ。まず温泉が出来て、それから憩いの家が出来て、それで美術館が出来たんです。

司会 そうだったんですか。そいう順番だったんですね。それでは、感想を一人ずつ言って、それで終わりにしたいと思います。ああ、もう言いたいことは言っちゃいましたか。それじゃ、感想のある人だけ言ってもらいましょうか。

SS  今日、青木さんのお話しを聞いてね,起業家を目指す人、その人にはこの話しを絶対、ためになるから、青木さん、どんどん起業セミナーっていうの、開いたらどうでしょうかって強く思いました。

青木桂子 私だって忘れちゃってるけどさ、記録が残ってたからさ、なんたって20年も前のことなんて定かじゃないわい、年取って来れば。あんなに揃ってないとこで、よく始めたもんだわな。

 あの、さくらさんが九十何歳にもなっててもさ、憩いの家に勤めてた時が一番、充実していた人生だって言って。しょうこっきりじゃだめ。

(誰か)兵隊がいいから。

青木桂子 その通りだよ。兵隊が良いからだよ。

司会 感想のある方は他には? 関和一さんは如何ですか。

青木桂子 ああ、和一ちゃんはいつもお正月になると門松をさ、作ってくれるだに。3本の矢でね。元就のね。竹の切り口の所に松だ何だってさ、こんなのを毎年、持って来て飾ってくれて。

司会 ではそろそろ終わりにしましょうか。本当にお話を聞いていて、憩いの家っていうのが皆さんにとって、すごい充実した時間だったんだなあと、すごく分かりました。ああ、思い出の会ね、またやりましょう。

青木桂子 それじゃ、またいろいろの時を重ねてきて、最高に昇り詰めているだから、また愉快に忘年会でもやろう。相談でもこの後、していけば、な。

司会 いいですね、忘年会。やるといいですね。それでは最後に一言、皆さんにご挨拶をお願いします。

青木桂子 さて、では皆さん、今日はそれこさ天気が良くて、こういうふうに年寄りが集うにはいい日だったわい。けさ代さんたちも今日、忙しかったやつ、無理に来てくれて、これから、けさ代さん家にお手伝いに行くってわけにもいかないで、こんな腰が曲がっちゃっちゃ。

AK それこさ医者に連れてけ、なんて言われちゃ、かなわないよ。(笑い)

青木桂子 みんなあの、都合して来てくれて、楽しい集いになって本当に良かったと思います。みんな団結力と連帯感がすごいだよ。この村の連帯感てものは、すごい。だから主張する所はどんどん主張して、妥協するときは妥協して、みんなこれでやりょうしょう、ってなれば、丸く治まって行くんだわ。それほ黙ってて後でああでもねえ、こうでもねえ、って言っちゃいけないわ。な。そういうことがなくてみんなしゃあしゃあと意見言って(笑い)、それでこんなに仲良くやって来れたもんだだよ。本当にみなさん、今日はご苦労でした。(一同拍手)

(誰か)桂子さんがいたからだよ。

青木桂子 みんなが桂子さん、桂子さん、って言ってくれたから、やって来られただよ。今日は良い天気だから橘先生が、みんなのスマイルの写真を撮ってくださるというから、にっこり笑って.

司会 今日の良き日に、紅葉がきれいだから、皆さん、写真を撮りましょう。

青木桂子 折角だからさ。

司会 外に椅子を並べますから、写真を撮りましょうね。

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