第12回知恵蔵の時間 荒井良勝さん

 知恵蔵の時間  第12回   講話 荒井良勝さん
「八重原用水を引いた歴史」    
2019年9月15日   14時~   

於 まる屋 司会  小林恭介  撮影 橘正人

配布資料
●「土に生きる」 田丸哲夫著 
第二編 八重原用水蓼科山からの水引作業
付 八重原土地改良区水路並びに灌漑図
P48~P80(コピー)
● 八重原用水ガイドマップ 改訂版 (北御牧小学校 社会科資料)
● 八重原用水堰路古地図

司会 では始めましょうか。荒井さんはこの間お話し頂きましたが、その時のお話が非常に面白くて、もっと聞きたいというお声もあったりして、今度はぜひ、この八重原の用水の話をして欲しいね、ということになったんですよね。それで今回の機会を頂きました。ありがとうございます。本当にここに暮らしていると、八重原用水の重要性、これがなければ今、ここでの農業や暮らしはないんだろうなあ、ということをすごく思うんですけれども、この八重原用水について非常に研究されて、いろんな所で講演もされてる荒井さん、本当にこの知恵蔵でまた語って頂けるということで、ありがたいなと思います。

 この知恵蔵の時間なんですけれども、荒井さんにメインでお話し頂くんですけれども、どちらかというと皆さんで、聞きたいこともあるでしょうし、その都度どんなんだろう、なんて所も訊きながら、途中でもいいので出して頂きながら、荒井さんにもお答え頂きながら進めて行きたいなと思っています。せっかくなので、今集まっている方に自己紹介をして頂いて、こんな話を聞きたいなということがありましたら、言ってください。そうすると荒井さんも話しやすいのかなと思います。私はこの会の進行役的な立場で進めさせて頂いてます、小林恭介です。よろしくお願いします。やはり、この八重原用水の話、私はここに住んで4年目なんですけれども、この水田地帯を見ても用水がなければこの風景はなかったのかなと思っています。この用水はどうして出来たのかな、そして先人の皆様がどんな苦労をされたのかななんてことを聞きたいなと思っています。よろしくお願いします。

TY TYと申します。今度、八反田の住人になりました。近くなりまして、良勝さんのお話しもこの前、本当に面白くて、今日楽しみにして参りました。よろしくお願いいたします。

SM 地元中八重原のSMと申します。今日はたまたま下八重原、中八重原、上八重原の溜め池の岸の草刈り作業を。

司会 そうですね、やられてましたね。

SM やっておりまして、先祖がこんなにいいものを作ってくれたお陰で、今年も良い実りが出来たんだなあと感じております。用水については、大まかには分かるんですけれども、細かいことは分かんないとこもあるし、今日は話を聞いて知識を深めたいという気持ちでおりますので、よろしくお願いします。

TM 八反田におりますTMと申します。越して来たばかりなんですが以前、村誌、北御牧時報に、ずっと大嶽普請というんでしょうか、連載がありまして、よく見る蓼科山からここまで、どうやって水を引いて来たのか、非常にこう、関心がありました。いろいろ聞いてみると、夜中に行灯で傾斜を計ったりとか、そういう苦労があって、素晴らしいなあと思っています。今日は荒井さんからそこら辺の詳しい話を聞かせて頂きたいと、楽しみにしております。よろしくお願いします。

TM  TMと申します。本職はソムリエなんですけれども、田楽平の南斜面でワイン用葡萄の栽培を始めることになりました。栽培するにあたって、水のことで大変苦労しまして、この地域は用水なくして農業は始められないことを大変実感しまして、地元の方でお話しくださるというので、ぜひ用水のことを聞きたいと思って参加しました。今後ともぜひ、よろしくお願いいたします。

IK  IKと申します。ぜんぜん部外者で、たまたま、ここに食事しに来て、向こう(絵画館)でも2時からお話しがあるので、主人と分かれてお話しを聞きに来ました。私は千葉県松戸市から佐久の方に2年前から移住して来ました。家の傍にもユカ(?)用水というのがあると聞いて、用水ってどういうのがあるのかな、というくらいしか分からない素人ですけれども、仲間に入れてください。よろしくお願いします。

DO はじめまして、DOと申します。住まいは東御市和の何十メーターで上田の人間なんですけれども、たまたまこの辺でウロウロしてまして。昨年も市民大学の一講義で「八重原用水堰を辿る」という現地研修をしまして、途中で雨になってしまいまして、予定をこっちのシマの方にしましたら、端折っちゃったんですね。用水が気になったのは自分、マラソンをしてまして、安曇の方でも用水沿いにずっと走ってたんですよ。素晴らしいなあと思って走ってたら、そういう研修の時期があってですね、参加したんで、またここで、まる屋さんでやるんだな、と思って参加してお話しを聞こうと思いまして出さしてもらいました。よろしくお願いいたします。

司会 じゃあ、荒井さんにも簡単に自己紹介して頂いて。

荒井良勝 小林さんの方から紹介を頂きました荒井と申します。以前から話がありましたように、八重原の用水の水引作業という内容で、話をしようと思います。資料が皆さんの方に行っていると思いますが、これだけの資料を1時間くらいで話すのは、出来るかどうか分かりませんが、大まかなとこだけ、話をします。一番最後の所に八重原に出来てる歌の歌詞があります。八重原音頭と八重原小唄、これは今日、テープがありますもんで、流して聴いて貰えれば良いなと思って、歌詞を載せて来ました。こんなことで、始めたいと思います。

 この文章を書いてくれた人がいるものだから、私はそんな経験がないから、実はこういう本がありました。下八重原の田丸哲夫さんという人が書いてくれたこの本(「土に生きる」)の中に、八重原用水の水引作業について、ということで書いてありましたもんで。この当時、昭和16年頃に、って書いてあるから、ずっと前のことだと思うけどね。この中にこんな資料がありますので、皆さんのお手元に渡してあるこのコピーを取って来たんです。そんなことで実際に体験をしたことが書いてありましたので、こんな所から見つけてやりました。これだけの資料、1時間じゃ駄目だと思うけどね。

 八重原用水が出来たのは、このガイドマップ、前に渡したと思うんだけど、黒沢さんがやったんだよね。黒沢嘉兵衛(くろさわかひょうえ)という人がやったんですが、その前にすでに八重原用水を拓こうという、計画した人がいたんです。(手元の違う資料を見ながら)青山っていう殿様の時代なんですが、尾方兵右衛門さんという人が水引を計画しました。慶安4年、尾方兵右衛門は八重原開発のため、茂田井村の八丁地堰より水路を延ばす工事を進めていった時、その春、病気で亡くなっちゃった。って書いてあるから、工事が完成しないで潰れちゃった。終わりになっちゃったんだよね。

 その後を引き継いでくれた人が黒沢嘉兵衛さんです。かへえ、ではなくて、かひょうえ、っていうんです。

司会 西暦でいうと何年なんですか? 

荒井良勝 1651年です。その時にまあ、尾方さんて人が成功しなかったんで、引き継いだ人が1653年、承応2年に八重原開発の仕事を引き受ける、って書いてあるから。蓼科山の和美堰を最初にやりました。和美堰から水が、八重原までいくらかは来た訳ですが、どんどんと入植して八重原に住む人が、田圃を開発する人がだんだん増えて来て、そうすると水が足りなくなっちゃうんだよね。

 和美堰だけの水じゃ足りないということで、新たに昔の大門村の方、今は長和町、っていう所だよね、そこの大門堰というのがあるわけですが、白樺湖の下の方、その辺から水を引く、っていう計画をしたんですが、これが6年か7年掛けてやったんですが、これがなかなか上手く行かなくて、えらいお金を使ったり、人足を各村々から出してもらったりしたけど、設計してもらったのは隣の塩沢新田の、ろくがわさん、て人にやってもらったんですが、これが設計が上手く行ってなくて、水がそんなに流れて来なかったということで、これが駄目になっちゃった。完成して、いくらか水が来たんですが、大雨か何かでまあ、集中豪雨か何かで水路が壊れちゃった。それでもう止めにしました。

 その後、今現在使っている大滝っていう所から源水を引きました。(八重原用水ガイドブックを見せて)この裏の地図を見てもらえば今、女神湖、って所があるよね。そのもう少し上に大滝、って源水があって、それは毎年、小学校の子供たちを連れて案内なんかしてる所ですが、そこから水を引いてます。それでようやく、まあ八重原も十分と言えるかどうかは分かりませんが、寛文2年に八重原水源は完成しました。それで寛文4年、1664年です。小諸藩から八重原村にしてもよいということで、検地や何かいろいろやって、どのくらいの田圃の面積があるということを調べて、そういうことだよ、検地、っていうのは。そういうことで、寛文4年に八重原村が発足して、正式に認められた訳だよね。

司会 村として、認められたんですね。

荒井良勝 うん、そう。村としてね。その時の人口なんかを見ると戸数でね、100戸くらい、上中下(かみ、なか、しも)合わせて。そんなもんです。

司会 当時もう上中下、って言ったんですか。

荒井良勝 そう。今でもそうだよな。それで寛文4年に八重原村が出来た訳ですが、そのころから、これから話をする水引作業というのは、ずっと繋がっている訳だよね。 

 昭和36年から御牧原に水を上げようということで、すごい工事が始まった訳ですが、10年くらいかけて昭和46年に、今の南部と北部の方へ水が上がっている訳です。八重原の方から、堰から流れた水が上がっている訳です。分かれているんですけれどもね。その工事が完成するまでは、この水引作業を毎年やってる訳です。300年以上ずっと、こういう作業をやってる訳だよね。

 (本のコピーを見せながら)この一番最初の所に八重原用水の概要、って書いてあるよね。これを読みながらやって行きたいと思いますが、大嶽堰源水を起点として落合まで四里二一町三七間、和美堰大和美より落合まで二里、って書いてあるでしょう。落合、っていうのは大嶽源水からの水と和美堰からの水が一緒になる所です。中尾っていう所があるんですが、少し上の所です。そこら辺で一緒になって、その下はこの塚田口まで、六里二五町四一間、総延長が一三里二〇町一八間てあるね。両方を足すとこれだけになります。

 これだけの水路を毎年堰普請で登る訳です。一枚めくってもらうと、両方の地図を載せてあります。字が小さいけど、字名っていうか場所名が書いてあります。(壁に貼り出した大きな地図を指して)この後ろにある地図と同じだと思います。

 52ページの所、横鳥村牛鹿に最初の分水口として、五合枡口、五合枡、ってこのくらいの、何センチくらいあるのかな、そのくらいの幅しか水が行かない訳だよ。それとその下に藤原田への一升枡口、一升の枡の幅で行ってる。古文書で見ると、水が足りない時には一升五合の水を分けてやる、と。こういう決まりがありまして、そういうふうに決められていた訳だよね。それでここにあるように、田楽に入れる水口があります。中八重原のばっちょ(大工)池に入れる口があります。それぞれの池に入る水口がある訳ですが、元割は上大枡一、中大枡一、下大枡二、って書いてあるのは二ではなくて三の誤りです。全部で五つになってる訳です。上一、中一、下三。それで五つになるよね。

 それから明神池にはいる口がある訳だよね。これを書いてくれた人は下八重原の人だから、下のことが主に書いてあるんですが、下組分の番水を一番から九番に分けて、日中十二時間、夜間十二時間として、そうすると一日二十四時間になる訳ですが、わざとこういうふうに奇数にしてある訳だよね。偶数にすると昼間の人は昼間っきりになっちゃうから、わざとこういうふうに九番にしてあるんです。一回昼間にかかった人は、次の番水が来た時には夜になるとか、そういうふになってるんです、これ。今は時計があるからいいけど、昔は日の出、日没で番水の切り替えをする訳です。枡口の地図を入れたと思ったが、ああ、それです。そこに公平に水が行き渡るようにやってる訳です。

司会 その口の大きさで調整する訳ですね。

荒井良勝 そうです。反別によって枡の幅が違う訳だから。公平に皆に水が行くように計算をしてくれてるから。本題に入って行く訳ですが、54ページを見てください。

 用水の切り替えは最近まで水番順に、山崎の方からずっと回って来たわけですが、二人ずつ組になって、夜昼対応する訳です。一人は切り替えが終わった後、私の経験なんだけどね、大道、って、芦田の宿場の上の方に松並木があるよね。あそこら辺まで、どこかで水を盗まれてないかどうか、見通しに行く訳です。そういうことをやってる訳。それで今一人は、理事長、今の組合長から当て事、って言ってたんだけど、人足の割り振りをする訳です。「あの人に頼んで来いや」って言われる訳だ。書き出してもらって、どこの家に行って頼んで来い、って訳だ。そういうことを二人でやってたんです。

 いよいよ用水の堰普請が始まる、って書いてあるね。この「前サライ」っていうのがあるんですよ。前サライっていうのは自分の所を直したりするんだよね。その後「里普請」があって、牛鹿、藤原田、上組、中組、下組の順に行われ、大堰のサライ、土手上げなどの作業を逐次にやって行く。そして山登りの、泊まりがけの「姥普請」が最初に行われる。

芦田、中尾の剛清水(こわしみず)の出水を洗井戸ーーこう書いてあるけど、私の荒井の荒ですーーより揚げて堰に入れる。

 それで和美堰の普請をやる訳ですが、この和美堰の方は中尾、っていう集落が今でもありますが、そこら辺に行ってお願いする家があって、そこに泊まりながら普請を和美堰からやる訳です。それが終わると、あ、ここに書いてあるね。引き続いて「和美堰普請」が行われ、芦田村中尾部落に泊まり宿があり、上宿の団三郎さん宅に副長さんなどが泊まって、って書いてあるね。

 その後、嶽堰でやる訳です。大和美の洗井戸(荒井戸)上までの格丁場のサライ、掘り出し、土手揚げなどの作業を仕上げ、元水をあげて、堰に水を流してくる。完全に水が通るのを見届けてから宿を下りて帰るのである。この水が、あの、苗間の水に使う訳です。五月の八十八夜、って今、二日頃だよね。その頃、種まきをする。嶽登り前にやる大事な仕事、って書いてある。五月に入ると十日頃までに一斉に、スジ播きーつまり水苗代に種籾をを播き込むのである。苗代を作って播くんだよね。これは読んでもらえば分かりますが、そういうことをやって、さっきの、嶽堰をやる前の水が、苗間水に使う水が、来る訳だよね。

 次の56ページの所に、大嶽登り用水普請の出発と目的地到着まで、って書いてあるでしょう。いろいろ資料を見ると、この大嶽の堰普請に行く時に、黒沢さんは馬で行く訳ですが、最初に、お世話になった六川長三郎のお宅に寄って、必ず挨拶をして行く、って書いてありましたから、まあ、礼を尽くしている訳だよね。そんなことがあります。

 それで「本登り」には全員百数十名の大部隊となる。これだけの人が、五泊六日分の白米三升一袋を持って、って書いてあるでしょう。一人一人これ、用意するんですよ。味噌少々、野菜若干、缶詰一、二ケ、調味品、漬物保存食、茶菓子、酒、たばこなど必要分、夜具一、着るものや何か、皆持ってく。メンパ、ってみんな知ってるかね。知ってるよね。ご飯を入れるんだよ。曲げ物って言うんだけどね。木曽やなんかで作ってるよね。そこにご飯を入れる道具です。そこへまあ、匙だとか、茶碗だとか皆一所に固めて袋に詰めて、しっかりした上等の背負子に立ててつけ、その横に鎌一、鍬一、またはジョレン一、ジョレン、って知ってるかね。知らないかね。ジョレンていうのはサライに使うやつなんだよ。

泥を揚げるもんです。それから鉈、雨具として蓑と笠、草鞋二、三足を背負子にしばりつけて行く、って書いてあるよね。そんな準備をして、だからさっき言ったように、用水の水番の人が頼み込みに行った時に、引き受けてもらう訳だ。「あんた、嶽普請にひとつ、行っとくれや」って言って。そういうふうになると、否応なしに引き受けなきゃいけない訳だ。そういう状態です。俺もそういうことをやってた訳だから。

 引き受けて、一週間近くも泊まる訳だから、そこで使う個人のものは全部自分で用意して、背負子に結わえ付けて行くんだけど、それで夜中の一時頃出発する、って書いてあるでしょう。

 その次の所に、近所の人達が三三五五連れ立って、仲間同志、真っ暗だが里道はなれているから、足さぐりでどんどん山に向かって登って行く。藤沢、細谷、芦田町、古町中尾へと登るうちに段々と夜が明けてくる。途中ちょいちょい休みながら登って来て、いよいよ中尾上の深久保から雨境への急坂にかかると大変だ。この場所近くになると、下組、上組、中組、藤原田組、牛鹿組の人足の人達や、各耕地の郷の荷(副長、宰領の荷物、堰普請に使う大道具、各小屋で食事を作る道具、その他必要な物)を運ぶ馬や牛や荷馬車が、続々と登って来るのに出合うのである。こういうものを用意してった訳だね。これはあの、土地改良区で使う道具なんかを荷馬車につけていく訳でしょう。普通の人足が持っていけないものを持ってく訳だな。こんな細かいことがいっぱい書いてあります。

 そういう状態で、次のページに行きます。目標の牛首小屋に到着するのは、まず行って、

(ガイドマップを広げて)牛首の小屋っていうのはここの所に載ってるよね、これ。ここの所。ここの所にいくつも小屋がある訳です。小屋の内容もここに書いてあったと思うけど。手前川に職人小屋とか、下組大小小屋があり、向こう側に上小屋、宰領小屋、皆さん宰領、って知ってますか。工事責任者です。そういう役人が泊まる所もある訳だよね。その他に藤原田の小屋、牛鹿(うしろく)の小屋が並んでいる。その少し離れた所に時たま、大門からの酒を売る出店小屋があった。って書いてある。そんなことまでやってた訳だ。

一大パノラマのような林の中で、緑の陽の光を浴びて、これから昔ながらの山の生活が始まる、って書いてある。そういう訳です。

 細かいことはまた読んでもらえばいいですが、次の59ページの中程の所に、古老の話に開祖の大将黒沢嘉平衛様が山へ登った頃は、自宅より馬に乗り先に日の丸の旗を立てて、馬方や両掛などかつがせて数人の供をつれて出かけた。途中、三都和新田(みつわしんでん)の塩沢堰開祖の六川長三郎様宅に挨拶して、って、これはさっきの、(ガイドマップを開いて)黒沢さんが馬に乗っているでしょう。これはさっき言ったお付きの人。4人もいるでしょ。黒沢さんの門の前で撮った写真です。これは嶽普請が終わってからの写真だそうです。そういう状態で嶽普請をやりました。

 それで登ってから、自分が寝泊まりする所の布団なんか、持っていかれない訳だから、枯れ草やなんか集めて寝床を作る訳。便所をどうしたとか、そんなことも書いてあるんだよ。便所を木陰に作ったり(キジブチと言った)。キジブチなんて、そんなこと誰も知らないだよ。そういう細かいことも書いてあります。また後でゆっくり読んでみてください。

 それで、いよいよ仕事が始まるようになると、ここに「おっ母さん」(お母さん)ってあるでしょう。59ページの後ろから3行目の所に、女の人じゃなくて飯を炊く男の人がいるんです。専門の人が。その人は相当慣れた人で、山に行く時に指名されて飯炊きの、いろいろ知ってる人だと思うけどね。この人が三度三度のご飯を用意する訳だ。朝昼晩の三食を作る、って書いてあるでしょう。

 それで仕事の場所の、自分の行く所の場所が決まっててね、私も行ったことがあるけど、てざかい(手境)ってものがある。ここから下、何丁どのくらいがその人の持ち分、まあ3、4人で工事するんだけど、その人の持ち分になってる訳。ここから下の手境までは、そこにちゃんと宰領、工事係が付いていて、監督みたいな人が付いてる訳。それで、やり方が悪けりゃ、「ここんとこ、少し直せ」なんて、俺もやったことあるけど。その宰領の許可を得なけりゃまた小屋へ帰って来られない。そういうことをやってました。

 それでこの「おっ母さん」という人は、一人一人の、自分で持ってったメンパにご飯を詰めて、仕事の現場まで持って来てくれる。そういうことをやってるんだよね。だから移動の場所も知ってないと駄目だし。そんなことで60から61ページは後で読んで見てください。そういうことで、この工事が進んで行く訳です。

 工事の内容がどこかに書いてあったね。どういう仕事をしたとか。64ページを見てください。普請の名称と内容、て書いてあるね。サライ、というのは籍の中に溜ってる泥を出したりするのが、サライなんです。次の65ページ。ここに書いてある通り、掘り出しというのは、泥で埋まったりしている所もある訳だよね。これを掘り出したり、元の堰の形に戻したりする訳。また土手揚げ、っていうのも細かく書いてあります。また後で読んでみてください。

 次の66ページのシガラ、って所。シガラは、私もやったことがあるんですが、崩れて来る所がある訳ですよ。上から堰が崩れて来て、埋まっちゃう、ってことがあるんです。3尺くらいの杭を所々に打って、そこにソダ、って言って木の枝やなんか編みつけて、上から落ちて来るのを防ぐ、そういうことをやりました。それからハセとか、そういうことをよく知らないんだけどさ、書いてあるから読んでみてください。

 あげ手直し、それからカマ、って書いてあるよね。これは俺たちはよく、オカマ、って言ってたんだけど、これは堰の所々に排水口を設けた所に石の堰を塞いでいる、こういうふうに来て流れているが、それ以上水が来ると排水の方に出ちゃうようになっている。要するに安全弁だな。堰に大水が出た時に傷まないようにしている装置なんです。そういう役目をするカマっていう、オカマって言ってたけどね。

 それからトヨ。これは澤になってる所があって、そこにトヨをつける訳だな。そこに貼り付ける柴なんかが大変なんだ。向こうで良い柴が採れないから。ゼンマイの根っこだとか、そんなものを使って堰の形にする訳です。その柴の張り付け方も手人足、っていう職人みたいな人がいる訳です。そんな人達にお願いして、逆にやっちゃうと、勢いで流れて取れちゃうでしょ。それを取れないように貼り付けるやり方がある訳です。そういうのもあります。

 その次は68ページ。あと入番、入番なんてありますが、これは私も行ったことがあります。牛鹿の方に小桶沢って所がありまして、小屋がありました。そこへ入番に行きました。昼間っから行ってる人もいました。これは水が盗まれたりするから番をしに行く訳だな。水番に行く訳。それで、夜は一人になっちゃうもんだから、添番に行ってくれないか、ってことで、添番に行く訳だ。夜中は二人で水番をする、って書いてあるでしょう。添番というのに行きました。昼間は一人でやってて、夜は二人で見回りをやります。

 それからここに草刈、今でも草刈りはやってるけど、関さん今日、草刈りをやって来たもんな。

SM やって来ました。

荒井良勝 それも、用水の仕事の一つです。ここに踏出しと書いてあるでしょう。踏出し、ってのは水が漏る所があるもんだから、何人もで並んでがちゃがちゃ堰の中歩く訳。そうすると水が漏る所に詰まっていって、水が漏らなくなるんです。そういうことをやりました。

 それから次は大嶽普請余話、って書いてあるよね。「宰領」と「お母さん」の役目って、さっき言ったようなことが書いてあります。

 名称の区切り目を「手境」と言って、そこにいろいろ印があって、こっから下がどれくらいとか、上がどのくらい、って書いてある。杭が立っていてね、そこに紙の札みたいなのが掛けてあって、ここから下は何丁何間、どのくらい、って書いてある訳だ。そこを工事の人が責任を持ってやるようになってるんだよね。ここにまた役目が書いてありますので、後で読んでください。時間がね、そんなに細かい所までは話せませんので。

 次の70ページの方へ生きます。さっきの続きのことが書いてあります。それで工事がちゃんと出来てないと、さっき言ったように宰領が来て、「ここんとこはやり直せ」とか「手直ししろ」とか言われると、自分たちでまた責任上、直したりする訳です。そういうことをやりました。

 6日が7日か、一週間くらい、牛首の小屋、さっき言ったとこへ泊まりがけで行った訳で、それがだいたい一週間くらいかけて終わる訳です。それがだいたい5月の20日頃。17、8日に終わって帰って来る訳です。皆、引き上げて来るんです。それで「嶽休み」って、関さん、聞いたことねえかい?5月の20日の日は「嶽休み」です。それで、農作業なんかやったら怒られるだよ、それは。皆が休むんだから。大嶽の嶽ね。嶽普請で水が流れて来て、それでお祝いを兼ねたり、そういうことでまあ、農休み、ってことかね。

そういうことで「嶽休み」があります。

 それで村中でお祝いみたいなことをやりまして、その頃になると柏の葉っぱなんかが大きくなってきて、だから柏餅なんかを作ったりしてお祝いします。それで各組、下組、中組、上組ごとに行事をやります。下組の場合は相撲大会なんかをやって。諏訪神社の方で相撲大会をやったりしてました。その後は城峯って言ってますが外山城のことです。外山城、って皆知ってるかね。知らないかな。行ったことねえと思うけど。ちょっと見晴らしの良い所で。そこに平らな所があります。そこで相撲大会がありました。賞品なんかが出るんだよね。その後は、公民館の庭かなんかでやっていました。まあ、そんなことで、お祝いをして、それから田植えの準備が始まる訳でしょう。水が来る訳だからね。いろいろな田植えの準備が始まる訳です。そんなことがここに書いてありますから、また後でゆっくり読んでみてください。74ページの所に書いてあるよね。大嶽普請を終わった「嶽遊びの日(嶽やすみ)って。信玄の「のろし台」跡がある城峯で草相撲大会があった、って書いてあるよね。そんなことを、ずっとやってたんです。昭和37、8年まで、やってたよね。

司会 今、だいたい何歳以上の方が、経験されているんでしょうか。

荒井良勝 私達より10歳くらい上の人達じゃないかな。私が行った時にはね、そういう泊まりがけのことは止めてしまって、トラックで一日、場所が決まってたもんだから、仕事だけ終わって、またトラックに乗って帰って来ました。トラックに土嚢みたいなのを積んで、工事に使う道具やいろんな材料を積んで、一緒に乗って、トラックの荷台に乗って行ったことがありました。私はそんな経験しかありません。だから私達より10歳くらい上の人はそういう経験をしたかも知れないです。泊まりがけで行った訳だから。そういうことで、ぼつぼつ一時間だと思うんで、以上で、また細かい所は読んでみてください。以上で終わりたいと思います。よろしいでしょうか。

司会 はい。これからもし、質問とか、聞きたい所があったら訊いて頂いて。僕から一つ訊いていいでしょうか。今はどんなふうに用水管理をやっているんでしょうか。

荒井良勝 今はね、さっき言ったように御牧原に揚げて、御牧原綜合開発事業という、御牧原に揚がって田圃が開けている訳で、それが完成しちゃってからは、そういうことはやっていません。川西土地改良連合会という所があります。八重原堰だとか、塩沢新田だとかね、五郎兵衛新田、千曲のこっち側だよな、その所で管理をしている訳。用水の堰の管理を。今コンクリートになっちゃってるから、そんなに傷む訳はないでしょう。それを使うまでには、やってた。毎年、嶽普請っ、て行ってた訳だから、そういうことをしてました。それが出来てからは行く必要がなくなっちゃってて。自分たちの、八重原用水の場合は、カニクボ、ってとこがある。みんな知ってるかな、立科の。あそこの下だけは八重原で管理はしてます。この図面を見るとさ、ここら辺だと思うよね。これが松並木の所だから。昔の中山道を少し下った所だから。新明沢とか何とか、って所があるんだよ。その下の外倉の辺りのちょっと上の所かな、そこら辺からこの下までずっと、ツカサグチ、って所まで、今でも管理はしてます。今も関さんは草刈りして来た、っていうから、大土手の草刈りやったと思うけど、

SM 大土手はね、8月か。年に二回、春と夏か。今日はね、池の回り。池の回り、って言うか、溜め池の回り。

荒井良勝 ああ、新池とばっちょ池の回りをね。

SM ここは綺麗になってるからね。

荒井良勝 ああ、そうだね。まあ、そういうことで。ただ、今言った所だけは管理してます。(関さんに向かって)今日はご苦労様でした。

司会 もう一つ、いいですか。

荒井良勝 はい、どうぞ。

司会 蓼科の方から引いて来るじゃないですか。そこで、水を通して来る方って、そこの場所を通らせて頂く、って、何かお支払いをするとか、その地権者に対してあったんですか。

荒井良勝 それはね、この堰を作るときは全部、小諸藩の領土だったでしょう。他の藩から小言を言われなくても出来たんです。

司会 その時は全部が小諸藩。

荒井良勝 そう、全部が小諸藩です。大門やあっちの方は小諸藩の預かり地、預かり、ってことだから、自分たちの領地だよね。そういうことだから、全然他から小言を言われなくとも、焚き物でも小屋の材料でも、やたらと切って来て、使って良かった訳だ。そういうこともあった。小諸藩の青山って殿様から許可貰ってやってる訳だから。

司会 そうか。

荒井良勝 えれえ小言言われる必要がねえだよ、ね。ちょっと説明するか。同じ物があるからね。(八重原用水ガイドマップを広げて)こっちの方が川上の方で、大滝、って書いてあるよね。今ここの所は白樺湖になっちゃうけど、ここの所に大滝、っていう源水があります。この水をずっと、この辺までは八重原用水の堰を使ってます。こうなっている所は皆、パイプ、っていうか、ああいうものになっちゃって見えないんだよ。それでここの所に弁天神、って書いてあるでしょ。べていじん、と読むんだけど、これは塩沢新田の源水です、ここん所は。この水がずっとこう流れて来て、第一牧場、って事務所があるよね、白樺湖に行く途中にさ、ここんとこに流れて来てるんだよ。それで女神湖に入っちゃいます。ここから来た水は。塩沢新田に流れて来た水は皆ここに入っちゃう。

 この女神湖もさっき言ったように、蓼科綜合開発っていうので御牧原に水を揚げるのが目的でやってた事業で出来た池です。昔は赤沼の池、って言ってた。大昔。

 それで今、言ってみればボートやなんかを浮かべて、あんまり水を落としちゃいけないような、怒られるような、それは土地改良区のような、立科町の観光協会、っていうだかい。そっちの方の話がどうなってるかわからないけど、この水を落としてもいい権利は川綜連で持ってる訳だから。この水が全部ここに集まって来ちゃって、ずーっと外に出ていません。

 ここに荒井戸頭首工、って書いてあるけど、ここんとこがね、芦田川になってる訳。今でも行ってみりゃ、いっぱいになれば流れちまうようになってるよな。堰が傷まないようにか知れないけど。乗り越えて出ちゃうようになってる。ここから塩沢新田の方へ分かれて行ってます。一つはここから八重原の方へ来ています。後ろへ下れば、こっちの方が本線だけどね、切掛という分水があります。切掛という分水は、ここから御牧原の方へ揚がってる分水があるんだよね。ここがどのくらいの標高があるか分からないけど、サイホン、っていって高い所から動力を使わなくても御牧原に水が揚がっちゃうんです。水の勢いで。そういうふうになってます。それでこっちに来て、宇山の分水というのがあって、新明沢、ここから色が変わっているでしょう。これだけが八重原土地改良区が管理してます。色が変わっているとこ。あと藤原田の方へも水が行ってる訳だ。ここに箱畳の池、ってのがあるけどね。これは藤原田の人がたぶん一緒にこれ、管理してると思うよね。

SM 一緒にやってます。

荒井良勝 そうでしょう。藤原田も八重原土地改良区の一部だから。そういうことで、作業は一緒にやってます。色の変った所は川西土地改良連合会でやってます。こういうことです。

司会 ありがとうございます。ご質問がありますか。聞きたいこととか。

SM この地図はどこで貰えますか。

荒井良勝 岩下五郎さんが来た時、持って来てくれたよね。そっちの方に渡してあるんだけど。たぶん、中にもあると思うけど。

司会 そっちの建物は、土地改良区の建物ですよね。

荒井良勝 土地改良区の建物だからさ。

TY お返ししますので、お借りできます? 今日。

荒井良勝 いいよ、はい、はい。それは私達が作ったんですよ。作った人の名前が皆、書いてあるけどね。一回作って、書き漏らしていた所があったものだから、書き直したんです。四つ折りになってる大きいのを見るとさ、赤沼の下の所に大門堰の取入れ口、って書いてあるね、改訂版には入れたんです、それ。それからね、箱畳の池が書いてなかった、最初は。それ、入ってるよね。それとばっちょ池が最初、入ってなかったんです。それから黒沢さんが勧請してくれた諏訪神社、あるよね。皆それ、入れたんですよ、後で。一番間違ってたのは八丁地川が、違う名前になってたんですよ。細工事川とか,って名前になってて、これは駄目だ、違うわ、ってことになって。細工事川、って春日の方だと思うんだよね。それでこんな間違ってるのは駄目だ、ってことになって、直しました、全部。それで改訂版、ってことで、そう、改訂版にしたんです。土地改良区で少しお金もらって、

うちの方でも全部で40万くらい掛かったけどね。

TY 弁天神、ってベテイジン、って読むんですか。

荒井良勝 そう、ベテイジンです。それは塩沢新田の六川さんが、源水を見つけてそこからさっき言ったように、第一牧場の事務所があるでしょう。あそこに。女神湖から少し向こうに行ったとこだよ。そこから道の村外に流れて来てるよね。その水が女神湖にみんな入ってます。

TY それとすみません。さっきなんか、乞食なんとか、っていうふうに聞こえたんですが、お話しのどの辺だったか、本当の名前じゃないですよね。

TM 水を途中で盗られちゃうから、それで二人くらいで見張るという所じゃなかったかな。

荒井良勝 添番ね。小桶沢、って所があってね、今はもう小屋はないけど、私が添番に行ってこうといった時には、小屋がありました。崩れそうな小屋だったけどさ。そこへ行って、中八重原の有賀たまきさんのとこに

TM 68ページだね。乞食小屋というわれる青木で二人が横になれるぐらいの丸木小屋を作り、ってありますね。

TY 68ページの入番、という所の2行目に、乞食小屋、って読めちゃうんですけど、

荒井良勝 ああ、乞食小屋、って書いてあるね。

IK 汚い小屋、ってことなんでしょう。

荒井良勝 かも知れないね。二人が横になれるくらいの丸木小屋を乞食小屋、って言ってたんだ。たぶんそうじゃねえ? そんなとこだったよ。真ん中に火を焚く所があってね。だから、泊まるとこ、ったって、筵を敷いてあるくらいだよ。そこへ二人で行ってちょっと。石川ってとこがあって、そこら辺の人達が水をどんどん盗んでる訳だ。

TY そういうのを見つけたら、どういう

荒井良勝 直していくだけ。犯人を見つけて捕まえるなんてこと、出来ないでしょう。警察じゃないんだから。石やなんか、ぶっこんじゃって、そのままどんどん出してる訳だ。止めちゃってる訳だ。それを出して、八重原の方へ水が来るように直して来る訳だ。そういうことをやりました。

SM よく牛鹿辺りの農家がね、あそこからホースを入れて水をね、

荒井良勝 そうだよ。菰連窪に行くとさ、堰の下はみんな林檎畑なんだよ。干ばつになって来るとね、さっき言ったようにさ、こんな太いホースをさ、水の中にじゃぶんと伏せといて、こうやって出すと、どんどん出ちゃう。さっき言ったサイフォンみたいにさ。

SM それを見つけると、鎌や鉈で片っ端からぶった切る。そんなことやったよ。

荒井良勝 そういうことも、ちょいちょいある訳。堰の見通しに行くと、そういうことをやってる人がいっぱいいる訳。それで見つけて取り外しておくだけどね。そうするとまた、人間の姿が見えなくなればまた、やってる訳だ。

TY いたちごっこですね。

荒井良勝 そういうことを平気でやってる訳だからさ。だから菰連窪の林檎はみんな八重原の水で出来てる。おいしい林檎だけどさ、八重原の水をいっぱい吸ってるんだよ。そんな状態。ひでえもんだ。

司会 今はもう違いますよね。

荒井良勝 今はそんなことをやってる、ってことはねえと思うが。ちょっと分からねえよ。

最近、その見通し、ってことをやらなくなっちゃったからね。だからいけねえんだよ。昔は必ず、一回は見通し、そういうことをやってることはないか、見通ししたけどね。今はやらなくなっちゃったから、分からねえ。おおっぴらにやってるかも知れない。

SM やろうと思えばね、

荒井良勝 やろうと思えば、いくらでも出来るから。ひでえもんだよ、なにしろ。一カ所や二カ所じゃねえだから。あちこちでやってるんだから。

TY でも、盗られるほど、みんなが力があったということですよね。こんなに大きな水路を引く、っていうのは。盗む方の人はそんなことが個人的に出来ないから、大きな所からちょびちょび盗む、っていうか。

荒井良勝 そうだよなあ。

SM 林檎畑は関の下だから。水路が下で、林檎畑が上だったら、そういうことは出来ないけど。

荒井良勝 それじゃ八重原に水が来ないから。(笑い)

IK すごい単純な話ですけど、なんで蓼科山からこんな長い距離を引いたか、って。私は浅間山の方が近いんじゃないかと。

荒井良勝 浅間山よりこっちの方が、だってこっちには千曲川があるから。

IK 千曲川から引くってことも可能でしょう。

荒井良勝 いや、千曲川からは、だめだめ、

SM 引くんだったら佐久穂町とか、あっちの方から

荒井良勝 とんでもない高い所から

IK もっと遠くなっちゃう。

荒井良勝 そう、もっと遠くなっちゃう。それで中八重原に番屋川から水を揚げたことがあったでしょう。それはね、金掛かっちゃうんですよ。ポンプで揚げる訳だから。電気でやる訳だから。下組でも小学校のとこから水を揚げたことがあったけど、今は使ってませんけど。一晩に、ちょっと行ってポンプを見て来い、なんてことがあるけどね、ゴミ取りに行ったことがあるよ。一晩に3万か4万掛かっちゃうんだよ。電気料と人足賃で。夜、行く訳だ。一晩中ついて、見てる訳だ。そんなことはとても出来ない訳だ。自然流下で来なきゃ。そういう苦労はあった訳でしょう。だから浅間、湯ノ丸の方から流れて来る水は滋野村に行くとか、祢津村に行くとか、そういうふうに分かれてる堰、あるよ。今でもちゃんと使ってるよ。向こうでも水喧嘩することはあるらしくてさ、そういうことを聞いた。発電所の下。横堰のどっか。この辺だ。笹分けの枡とかいうのがあって。

司会 枡の大きさは地域の水源の面積によって、新たに水源開発が進むとその枡が広くなってくんですか。たとえば、ある地域の水源が

荒井良勝 それは見直ししたかどうだか、分からないけどね、元はさっき言ったように、上から来る水を五つに割ってある訳だ。上八重原、中八重原、後は下八重原、下は一番水田面積が多いんよ。106町歩か7町歩くらい。上八重原が60町歩、中八重原も60町歩くらい、それで上の方に藤原田、一升升、って言ったけど、その堰から分かれた水は箱畳の池に全部入っちゃいます。それでその箱畳の池からまた分けて行くんだよね。反別によって計算する方法があるんだよ。面積×どのくらい、って枡の幅が出て来る。そういう計算があって、各一反歩毎にみんな枡、昔は田圃毎に枡がありました。

司会 田圃毎にね。

荒井良勝 田圃毎に。だから自分のかけ口、計算すると出て来る訳。一尺何寸とか。小さい田圃は2寸か3寸くらいの幅しかないんだよ。それがずっと基盤整備するまで繋がってた訳。それはこの後ろの所に図面があったでしょ。一番最後の所に絵かなんかがあったよね。そうそう、それはなんて書いてあるだい。

SM 読めない。水枡分水帳

荒井良勝 何か書いてあるよ。何ページだい。80ページか。これね、八重原用水の水枡分水帳。これ部分だけどね。この合計の面積を足すと、ここの所に二町三反三畝にじゅう?って書いてあるんです、全部足すと。それで一番上の枡が二反五畝何歩って書いてあるんだい。字が分からないけど、名前が書いてあるでしょう。何何衛門、って書いてある。

みんなこれ、名前が書いてあるんだよ。右の方から見ると仙右衛門、ってあるしさ、その次は一反四畝で金作、って書いてあるでしょう。二反五畝七、新三郎、

SM 読めないよなあ、

荒井良勝 その次が二反五畝四歩、定右衛門。下の方へ行って、宇喜田義左衛門、その下に行って百助、ももすけ、って書いてあるでしょう。その下はちょっと読めないな。何だろう、よく分からないね。まあ、こんなふうに田圃の持ち主がいて、その合計がこの八重原用水の一町3反が、これ二町だね。二町三反三畝二十二歩だ。これが大枡、っていうんです。大枡から来た水が、これだけの人達へみんな分けて行く訳だ。そういうふうになっているんです。

DO この枡の位置、っていうのは今でも生きているんですか。

荒井良勝 それがさ、今は基盤整備やっちゃってるから、もう使わなくなっちゃってるんだよ。だから自分で水管理しないとかけられなくなっちゃった。昔は一枚の田圃に枡があったから良かったけど、もうそんなこと、やってられないだよ。大枡だけは変わりないけどね。堰についてる枡は変りねえけど、個々の田圃にかかる枡はなくなっちゃいましたから。基盤整備してない所は使ってる人はいるけどね。まあ、そんなことで、以上です。よろしいでしょうか。

司会 池がいくつもあるじゃないですか。全部この土地改良組合の持ち物なんですか。それとも個人で持ってるんですか。

荒井良勝 ここにある池は田楽の池と、新池とばっちょ池と、この明神池は土地改良区のものだよ。それ以外は個人のものがあります。八丁田にある何とか、って池はあれ、個人のものでしょう。武井さん達が作った池だけどね。後は昔の文書を見ると今一個あったんですよ。上八重原に。屋敷沿?池とかいう、どこにあっただか分からないけど、そういうふうに書いてありますから、ばっちょ池や新池や、田楽と同じくらいの大きさの池が他にあったと思うよ。上八重原にね。この明神池も、もともとは下組の池です。経過を話しますと、総合開発で御牧原の方に水が揚がっっちゃって、我々の方に水が来ないじゃないかということで、県の方へ陳情をして、この池を回収しました。それで少し向こうの面積を大きくしたり、もっと小さかったんです。奥の方を深くしたり、陳情した、その細かい事情を書いた碑があります。その碑を読んでもらえば、書いてありますから。県の事業で温溜池だから、暖まった水だけしか出ないようになってるんだよ。それで、この池の水は元は下だったけど、計画の中では田楽の池やばっちょ池の方へ水が流れるようになってたんです。もう使ってませんけど。電気料が掛かっちゃう訳だから。やめちゃった。それで下組だけ、この水使うときは、上や中へ来る水は上や中の方にだけやっちゃって、下組はこれだけの水を自由に使える訳だ。そういうやり方、今はしてるよね。

SM 今年も結局、5月に出来なくって、これはもう下組で使って、用水は上で。

荒井良勝 蓼科の方から来る水は、上と中だけで自由に使ってください、って、そういうやり方をしてるんだよ。

SM ところが例年のごとく、だんだん減ってくるとね、下組さんも心配になっちゃって、使わしてくれよ、用水を、ってね。

荒井良勝 そうでしょう。

SM それでかなり下がった時に雨が降り出した。

荒井良勝 あれ、2メーターくらい下がっちゃったね。下が見えたもの。あのまま続けば大騒ぎだわ。さて、じゃあこれ、やりますか。

司会 じゃあ、ちょっと流しますね。

荒井良勝 裏の歌詞を見てください。

(カセットテープで八重原小唄と八重原音頭の局が流れる)

八重原小唄    依田康徳 作詞

一、ハアー

  八重の坂道登ってみればよ

  八重原よいとこおいらが村よ

  西にアルプス 東に浅間

  水は蓼科雲井の泉

二、ハアー

  とけて流れて来た此の水はよ

  八重原田圃が青田にかわる

  実る稲穂に黄金さがる

  村の若衆の村の若衆の心意気

三、ハアー

  そよぐその風身にあびながらよ

  はげむ乙女のたのもしさ

  桑をつみつみ流れる唄は  

  おらが名物おらが名物

     八重原 小唄

四、ハアー

  おらが自慢のお米の山はよ

  国を育てる御国の宝

  老いも若きもひとつになって

  唄えおどれよ唄おどれよ

八重原音頭    荒井光之助 作詞

一、ハア

  みんなそろって蓼科山へ アソレ

  五穀実らす水引に ヨイショ

  持たせやりたや ソレ

      みのとかさ

二、ハア

  西の小峰に夕陽が赤い

  広い青田に風そよぐ

  うちわ片手にソレ

      夕涼み

三、ハア

  月はまんまる人輪もまるく

  盆の踊りに夜をふかせ

  みんな一緒にソレ

      手を打って

四、ハア

  娘十八嫁入りざかり

  話はずめば雪つもる

  家のこたつでソレ

      笑いごい

      白倉四十四(よそし)作曲  (山崎) 

小林麻美 荒井さん、水源の水は蓼科から来てるんでしょうけれども、飲み水って、飲み水は地下水なんですか。

荒井良勝 飲み水はこの八重原用水の水飲んでるんです。蓼科の水を飲んでるんだよ。昔の用水利用の方法、さっきの分水なんかの帳面があるんです。書いたのがね。それを見ると6番のどこには飲み水、って書いてあるから。何坪、って書いてあるんだよ。八重原用水をそのまま使える訳。

小林麻美 地下水、っていうのはないんですか。

荒井良勝 井戸なんて掘れなかったでしょう。ないよね。井戸を掘るようになったのはね、昭和36年に山浦村長さんの時に、八重原簡易水道ってのが出来た時、それ以後は水道の水を飲んでるけど、その前はね。それ以後は各家庭に井戸を、今でもあるよね。その前は用水の水を飲んでたんですよ。俺もそうだったけど、池があって、堰から水を引き込んでそこへ貯めててさ、暗がりなんか押し掛けしたりするとさ、蛙が入ってるんだよ。(笑い)蛙が入ったまま煮ちゃってさ、朝、お釜の蓋とって、そんなもんだよ。それじゃ次、やってみますか。

島河原小唄?(歌詞なし)が流れる

(その合間の問答)

小林麻美 結構な人が草刈りでやってますけど、今なかなか後継者がいない、って話で、今後はその、草刈り作業とか、どうなっていくのかなあというのが気になります。

荒井良勝 今日も草刈りは土地改良区の総代だとか、普通の人は頼んだって出て来ないんだよ。やだだよね。なんか、そんなことらしいよ。

小林麻美 何人くらいでやってるんですか。

SM 中八重原はね、10人。上八重原もそのくらい。下はもっといるかな。

荒井良勝 下、16人。

SM 各、用水当番がいて、4年続けてやって次の当番。考えたら、次は私しかいないぞ、と。

荒井良勝 なかなか引き受け手がないんだよ。お米をやっても、そんなに今、良い値段にならないからさ、米なんか作らなくも、一年に今、一人が55キロしか食いません。昔は120キロくらい食ってたんだよ。

小林麻美 半分以下ですね。

荒井良勝 半分以下でしょう。そういう状態だからね、困るんだよ。下八重原でも。

司会 そうですね。また改めて、お話しを伺いたいと思います。それでは、今日はどうもありがとうございました。

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