第11回知恵蔵の時間 荻原慎一郎さん

知恵蔵の時間  第11回  講話 荻原慎一郎さん

「地域づくりと人づくり」        

2019年8月25日 14時~ 

於まる屋  司会 小林恭介  撮影 橘正人

司会 では、始めたいと思います。知恵蔵の時間、第11回目になります。今日の語り手さんは上八重原にお住まいの荻原慎一郎さん。タイトルは「地域づくりと人づくり」と、まさに慎一郎さんにぴったりの題で、地域と共にいきていらっしゃった方じゃないかなと僕は思っているんですけれども、上八重原、御牧原、このエリアも含めて、もっと広いエリアもそうだと思うんですけれども、慎一郎さんはいろんなことをやられて来たのかなと思っています。この知恵蔵の時間というのは、ここにお住まいの方とか、地域に関わりのある方とかから、その方がどういうふうな思いを抱いて、またこの地域と関わって来たのかということを聞いている時間です。そういう中からこれからの地域をどういうふうにしていったらいいのかということも見えて来ると良いなと思っている所です。ここのやり方とすれば、あまり一方的に話して頂くというよりは、皆さんから「こんなことを聞きたい」という所を語り手さんにお答え頂くような形にしてますので、あとで慎一郎さんから自己紹介をして頂きますけれども、その前に、こちらにいろんな方に来て頂いたので、大変申し訳ないんですけれども、お名前と、どんなことを聞きたいと思っているのか、何でもいいんですが、一言、頂けると有り難いなと思っています。

YM どういうことをしているのか分からないと、質問が出来ないんですけど。

荻原慎一郎 また俺、お話しするから。(笑い)それから訊いてもらえばいいよ。

小林恭介 じゃあ、僕は小林恭介といいます。この芸術むらに住んでいます。慎一郎さん、僕ね、ここに越してくる前から荻原ファームというのがあると聞いていて、それを立ち上げた方ってどんな方かなとずっと思ってました。だからその荻原ファームを立ち上げていったお話しなんかも聞きたいなと思っています。

TY TYと申します。皆さんの、すごくためになるというか、大変でも喜びのあるお話しをずっと聞かせて頂いて、本当に有り難いと思います。荻原慎一郎さんは何か大事な時にはいつもいらっしゃる方、という、そういう方だと思ってますので、ぜひ詳しいお話を聞かせて頂きたいと思います。よろしくお願いいたします。

NJ 切久保のNJです。いろいろ勉強したいと思っていますので、よろしくお願いいたします。

YM 中八重原のYMです。顔ぶれを見たらなんか隣組みたいで(笑い)、間違えちゃったかなと。あ、でも荻原さんがいる、と思って。やっぱり議員さんをやったり、ご商売も繁盛させて、家のところに行くといつも大勢の人が行き来してますけれども、大変ご繁盛なさってるんだなと思って見ておりますが。興味深いところでお話しを聞きに来ました。

SM 中八重原のSMといいます。慎一郎さんとはいろいろな会議なんかで行き会ってるんですけど、話も非常に楽しいというか、ためになる。今日も何か収穫があると思ってお邪魔しました。よろしくお願いします。

TM 皆さん初めまして。TMと申します。今年から田楽平ですね、田楽池の南斜面の方で、ワイン葡萄の栽培を、八重原で2号目のワイナリーを目指しています。荻原ファームの荻原さんは上八重原の重鎮の方なので、ぜひお話しをお伺いしたいと思いまして参加しました。よろしくお願いします。

YM YMと申します。この度、八反田の方に引っ越して参りまして、皆様のお仲間に入れさせて頂きました。慎一郎さんの「土に生きる」というお話し、後から来た者として、ぜひ伺いたいと思っております。よろしくお願いいたします。

YA 中八重原のYAと申します。自分の子供が小さい頃からPTAで、竹の子会で、本当に尊敬しておりました。今日もいいお話しを聞かせください。

YM YMです。高齢者になってね、耳は遠くなってくるし、いろんなことを忘れてしまうんですよ。荻原さんが活躍していることはお聞きしてるんですよ。今頃になって聞いても間に合わないけど、それでもね、生きてかなきゃいけないから、よろしくお願いします。

OH 上八重原のOHです。私は慎一郎さんの話が大好きなんです。今日の予定も万障繰り合わせて、何もかも置いて、この時間に来ました。よろしくお願いします。

KA 上八重原のKAと申します。今日はOHさんの2番目に慎一郎さんのファンで、来させていただきました。TMさんのような、こちらへ来られて頑張ってらっしゃる若い方にもためになるようなお話しをぜひ、聞かせて頂ければと思います。よろしくお願いします。

AK 中八重原のAKです。私は慎一郎さんていうより「慎ちゃん、慎ちゃん」、て長いお付き合いで、そこの憩いの家にいる時から味の開発をしたり、新商品の紫米を作って商品化したり、うんとこの商品にね、名前を付けるのが上手なんだに。だから紫米を作った時は「紫の宴」とか、紫米で作ったおまんじゅうには「卑弥呼まんじゅう」。ほら、紫米は古代米だから、それで卑弥呼。そういうネーミングがうんと、付けるのが上手。それで、いろいろのことでね、紫米のうどんを作ったり、切り方練り方、全部いろいろ研究して、どのくらいの歯ごたえがいいのか、ほうとうなら太いのがいいとか、普通のうどんならこのくらいの太さがいいとか、いろいろ研究してやって、あの頃は、十数年前、生き甲斐があったが、今は腰が曲がったり、まず忘れはしちゃうだし、何か言いましょう、っていっても、はて、何を言ったらいいのか、というようなことになっちゃうけど、あの頃は楽しかった。今日はまた思い出して、話を聞きたいと思います。よろしくお願いします。

司会 ありがとうございました。では慎一郎さんの方から自己紹介を兼ねて、お話し頂けますでしょうか。

荻原慎一郎 はい。初めまして、こんにちは。今みんな、よくよく知ってる者ばかりで、とても話しにくい。(笑い)家族に話すようなもんだ。裏も表もみんな知ってる人ばかりで、えらい難しい話をしても意味がないし。そうかといって自分の過去を遡ってみても、ぼちぼち終焉に近いから、でも振り返ってみると、けっこう貯まってるから。皆さん方と同じくらいなもんで、昔話に花が咲いていいか、というふうにも思ってますが。皆さんがおっしゃいましたような、この地域を守ろうとして守って頂いた先輩の皆様がね、この地域の良さだとか、人となりを百も承知で住まわっているんだけど、それを次代に繋ぐ、っていうこと。それから故郷づくりだとか人づくりだとか、っていう地域でうんと言ってるんだけど、そうかといってどこまで残せるか、とか、伝えるか、といったこと、みんな口では言ってるんだけど、出来ない。そのことがね、ちょっと気になってるんで。

 主観でしかものを言わないし、自分の思った所を今日はわずかな時間だと思うけども、枝葉に入って、話がどこに飛ぶかわからないけども、思いついたまま話したいと。あえて弁護団と謀って(?)来たら大変なことになってしまうから。顔ぶれを見ると懇談の形で、今小林さんが言われたみたいな形で、語りながら皆さん方と思い出と将来について、お話しが出来たらいいかなあというふうに思いますんで、貴重な時間を割いて頂きまして、ありがとうございます。本当は4、5人いればいいかな、と思って来たら、こんなにいられて俺はとても困ってる。(笑い)考え直してまた話します。よろしくお願いします。

司会 本当に慎一郎さんがおっしゃるように、慎一郎さんが感じたままを話して頂ければいいと思うんですよね。客観的にどうだというのではなくていいので、どう思ってやって来たかということを言って頂ければいいと思います。慎一郎さんはお生まれは、昭和何年かというところからお願いできますか。

荻原慎一郎 昭和24年。10月18日。だから、あと二ヶ月だだよ。大台になっちゃうだよ。

AK それでも若いもんだで。私らから見たら。

荻原慎一郎 いつまでも若いだ、俺は。弱っちゃたい。

AK みんな、80過ぎてるんだから。

荻原慎一郎 今に追い越すから、俺が。(笑い)

司会 今年何歳になられるんですか。

荻原慎一郎 今は厳密にいうと69。もうちょっとで70になる。だから、運転免許のあの検査。通知が来て、「誰宛だ」って言ったら、俺だだよ。「俺が痴呆の検査を受けるか」って、一人で怒ってたけど、行ってきました。

司会 あの、農業は家業だったんですか。

荻原慎一郎 そうです。

司会 子供の時には家は農業を。

荻原慎一郎 もちろん、もちろん。私で今、5代目です。今は倅が継いでるんで、6代目までは間違いなく続く。ふつう商工業なら6代続けば、かなりの老舗だが、農業の6代目はゴミみたいなもんで、なかなか続かんだけど。何とかね続いてブランド化してね、今のはやりの言葉で言うと。地域ブランド、あるいは個人の法人としてのブランドだとかというものを作って皆が生き甲斐としていければ良いな、というのは、これは俺の案ですけれども一応、気持ちとして夢です。

司会 あの、もともとあれですか。慎一郎さんが子供の時はどんな作物を作ってたんですか。

荻原慎一郎 それはここにいる皆さんが良く知ってる。大体、米と薬用人参が中心。それと養蚕と。その三つは大なり小なり、農家ではやってたかな。その苦労話は俺が言わなくても誰もが知ってる。あんな儲からない仕事をよくやってたもんだ、って、よくよく思うだけど、そんなこと言うとバチが当たるから。それがあったから、今があるんで。その辺の話もしたいと思います。

司会 それじゃ養蚕と、薬用人参と、米、か。でもここでは薬用人参はすごかったんですね。一大産地だったんですよね。

AK そこの芝生の所もみんな人参小屋。そこのマレット場も。

司会 そうだったんですか。どこのお宅でも薬用人参の農家をやってたんですか。

荻原慎一郎 みんなやってた。薬用人参ってのは、ほら、日本でも島根とここと、福島、伊豆でしか出来ない。本当に局地の適例作物だったもんで、他の地域でやろうとして研究者が北海道や九州で作ろうとしてみたけど、出来なかった。気候があってたということで。今も島根の隣の大根島でしか作ってないよ。

AK でね、養蚕のいい時は薬用人参が安くて、薬用人参のいい時は養蚕が安くって、それでちょうど、農業のサイクルがいいんだよ。蚕が終わって稲扱きが終わると今度は薬用人参の植え替え、2年生の。それで冬は小屋掛け、っていうように、ちょうど米と養蚕と薬用人参は、3つがうまく廻って行くんだよ。

YM 人参は、小屋の中でやるから、腰がこごんで。

AK みんな腰が痛くなっちゃって。

荻原慎一郎 身体に悪いだ、あれは。12月のな、凍(し)み始める寒い時にさ、地べたの上に座り込んで一年中ほじくってるだから。身体にいい訳がねえわ。ところがな、くずを一片二片背負って来ると、これがどのくらいの金になるかと思うと、治っちまうだよ。(笑い)まあず楽しみでな。そのくらい高価な物だったな。

司会 やはり貴重な現金収入だったんですか。

荻原慎一郎 もちろん。ま、人参でなけりゃ、農業はまとまった金を残すことが出来なくって。蚕やそんなものをただ年間の生活のつなぎで、春夏秋って蚕でつないでたが、その間も薬用人参がボーナスのような、ビッグボーナスだな。だから、欠かさなかった、絶対に。

AK 年取るまで杭打ちやってたんだに。凍みてるとこな。

司会 もう、あれですか。農家を継ぐことが宿命だった。

荻原慎一郎 宿命じゃないけど、そういう、まあ、宿命っちゃあ宿命か。もうレールは敷かれてたもんな。

司会 農業を始められたのはおいくつくらいですか。

荻原慎一郎 19歳だったか、20歳だったか、そのくらいだったなあ。一年、高校終わってから専門学校に行ってたから。それが終わってから、19歳か20歳の頃。家に入ってな。親父と喧嘩しながらやってたわいや。10年くらい口も利かなかったな、俺。嫌だくって、嫌だくって。

NJ 専門学校って、農業の専門学校ですか。

荻原慎一郎 違う、違う。自動車の整備をやる、まったく勉強してなかったから。

NJ それは役に立つ。

荻原慎一郎 それがあるから今があるだよ。その話もいっぱい出来るだけどさ、その話をしてると時間が過ぎるから、俺のペースで話すから。

 実は皆さんもご存知のように、この地域で生まれ育って今、皆さんがいるこの明神池のぐるりは、小学校1、2年の頃、私らから5、6年後の皆さんまで、みんなここを通っただ。分教場。用水の元の事務所。資料館みたいになってる。あそこが分教場で、1年2年の桜組が一クラスずつあっただ。そこへ我々も通ってた。で、その時はこんな綺麗なとこなんか一つもなくて全部、松山。この道だってこんな広いのじゃねえだよ。むかし牛の運送がやっと通れるくらいの農道が池のふちを通って、その坂を転がり落ちるように学校の庭に行っていただよ。それを毎日通ってた訳だ。俺らは上八重原だから、菖蒲池、近道田圃のあぜ道を飛んで来ちゃあ、ここへ出てた訳だ。だって今考えりゃ、上八重原からここまで30分くらいで来れるだけど、朝8時半ころの学校に遅れてるだから。遊んで歩って、行かないだよ、みんなして。雪降ればこの大土手がこれよりこんな高くなかったけど、法面(のりめん)から下の方へ、ランドセルを橇にして滑ってて。学校に行かねえで遊んでて。行ってみりゃ弁当箱は潰れちゃってるだよ。橇にしてるだから。何度も怒られてな。

 ただ、家族的な雰囲気で、とても。みんなも知ってると思うけど、大日向の直井先生と、下八重原の依田先生と、1年2年担任してもらってて、直井先生に教わったけど、あの先生も大日向から毎日登って来る訳だ。山崎のあの峠を。で、あんないい道じゃない訳だ。そんな所を登ってくる。こちらで本校がね、たまに本校に下るだけど、本校に行くなんていえばもう、朝、点呼とってて遠足のようだ。下まで降りるだ。それで向こうで校長さんの話を聞くだか、顔見て、また登って来るだよ。まあだ山の中だっけね、ここ。そういうことを2年間やって、3年からは本校に行った。

 本校に行くと、同じ八重原と同じ斜面だけど、初めて会う人っきりだよ。みんな他は。本校に行ったら、4クラスある。松、竹、梅、桜と。4クラスあった。1学年。45人のクラスがおおむね4クラスあった。我々より一つ上の人たちは5クラスあった。これを称して団塊の世代と言うだよ。これが山ほど産めよ増やせよの時代で戦後、増えただ。で、4クラスあった。3クラス分が知らない人だよ、みんな。北御牧中、こんな上八重原と中八重原、山崎と下八重原の一部、鍋蓋の辺までの人がここへ通った。あと下の方はみんな下に降りてたから。向こうの本校に下りるようになって、4クラス百数十人のみなさんに行き会うようになって、それが3年生の時だ。それで小学校を過ごして、中学校もそのまんま行く。北御牧にはもちろん高校もなかったもんで、中学を出ると上小から南だけど、佐久周辺の高校へ、みんなてんでに分かれて行っちゃう。

 それは今でも同じではあるんだけど、ただ、違うのは、明らかに子供がいない。我々が小学校に行ってた頃は、1学年に40人から45人のクラスが4クラス、間違いなくあった。我々の一つ上の人たちは5クラスあったけど、単純計算をしても1700人の上、いた。小学生が。1年から6年まで。それが、今はどう? 300人切ってる。千数百人減っちゃってるんだ。どういうことかというと、今、我々の年代が達者でいるからいいけど、これから数年のうちに千何人がいなくなるだよ。間違いなく。今でも減少してるけど。だからどっかで俺も見てるけど、10000の瞳? 10000の瞳がじきに5000位の瞳になっちまうじゃないか、って、心配してるだな。塊で減ってっちゃうのを、心配してるだ。これがどういうことかっていうと、地域づくりにものすごく影響が出る。というのは、我々が千人を超えるような大家族で勉強した時代は、村落だけじゃないだよ。全国でそうだった。皆さんも承知のように我々が家に入って家業を継ぐような、20歳を過ぎて来る頃に、例の安保闘争、それから連合赤軍、赤軍派ね、そういうのがあった。あの時の年代が我々と近いだよ。我々のちょっと下くらい。安保の時代はもう同じくらい。日本を揺るがすような、動かそうとする力を出して、あの頃考えられなかったような力を出してデモをしたり、いろんな決起集会をしたり、全部20代の若者だよ。それで日本を作っちゃうと言ってもいいし、動かしたと言ってもいいだ。それが、今はどう?20代の若者は一体どこにいるだ。今だに国を動かしてるのは団塊の世代だよ。60代も後半、70代になろうとする者が、まだ国の先端にいるだよ。これで、明日の日本はどうなるか、ちょっと心配になる。

 ここら辺のことが、この地域でも言えるというふうに思う訳。で、我々が学校を出て家へ入った頃は、みなさんの話にあったように純農村だったもんで、農業立村と言われた時代だから、どれくらいの作物をどれくらい作れれば一軒の農家が生活出来たか、っていう、ま、だいたい農家戸数の9割以上、9割強くらいは農家だった。大なり小なり。それが今は逆になっちゃった。農家をやってる者はおそらく2、3割。あとは、たいがい兼業農家になって来てる。農業を辞めちゃう人もいっぱいいる。この時に過去のような農業立村と言われた北御牧地域の力が果たして出るんだろうか。ハードな部分で物質的なものの力もそうだし、人的な力もそうだし、どんどん減ってきてるのに、これで北御牧は維持出来るだろうかということが、とても心配されます。と同時に、十年ほど前に北御牧が東御市になって、合併されました。事実上、市として動かしているのは東部町側にウェイトが行っちゃった。あの当時、北御牧が三十数億円あった一年の予算、それも、もちろんないですし、東御市もあの当時、約百三十億くらいだった東御市の予算が、今どんどん増えて150億を越した。なのに、その一つの区である北御牧に投下されてる予算て、どれくらいあるの。とてもとても昔のような三十億はないです。で、主権が向こうに行って、我々は一つの従属する一つの区のように残り、こんな言い方をするとまた怒られるかも知れないから、他では言わないけどね。

 それで北御牧が一つの区として、極端な言い方をすると、埋もれたというか、5番目の区になっちゃった。そういう中で我々が本来、その前に規模は小さくてもすべての自治がこの中にあったんだ。北御牧の中に。自治が。皆さん方もそのお陰でここで生活してたんだ。それが今、むこうへ行っちゃって、用があればこっちに来ればいい、という話しです。債権も発言権もないような状態になっちゃってる。この中で北御牧を残して行こうとするにはどういうことが必要か、というと、これは住民の力やエネルギーしか、頼るものがないだ。ところが住民の頼るべきエネルギーも、若者がいなくなっちゃったところで、誰がそれを教え、誰がそれを培っていかなきゃならねえか、というのが、とても問題になります。これは我々が親である以上、また社会人である以上、子供たちに受け継がなきゃいけなかったもの、失っちゃったものの一つになる訳。このことを我々が次代を担う青少年、あるいは子供たちに、どう言う形で残せばいいのかな、っていうのを考えなかったら、忘れられて行っちゃう。

 で、全然つまらないというか、みなさん方が語ってくれるような、昔の北御牧は良かったなあ、という夢だとかというものに縋れたような地域、魅力ある地域が、二度と蘇らないというような状況になったら困る。というふうに思う訳です。その環境はそのまた先の人づくりにも影響するんで、うんと大事な場所だ、タイミングだ、と、思ってます。ですから北御牧という小さな地域が、将来も東御市の北御牧地区として、ちゃんと存続出来るような知恵を皆さん方と一緒に残したい、と私も思ってます。その中で一番大事なことが、これなんです。地域の皆さんのコミュニティーをどうやって作り上げて行くか。たとえばここで話をして、そうだよなあ、北御牧は昔は良かったよなあ、この地域は良かったよな、あれはどうしちゃったかな、俺はこう思うだが、というようなことを皆がもし話せるタイミングがどっかにいくつかあったら、じゃあ、こうしようか、っていう発想が出てくる。それが出て来なくても、住んで良かったという満足感でいられる筈。ところが、今はない。

隣は何をする人ぞ、っていう集落になってきちゃって、街場のような。で、このことが地域づくりや人づくりに欠かせないものだということを気付かないと、子供たちは今、気付きません。子供たちの仲間はこのパソコンやスマホの中にいて、隣の子とさえ話をすることがまず、ない。ある日突然けだし出てみたら若い人が歩ってて、あれはどこの息子だ、って訊いたら、「裏の息子だに」。(笑い)「あんなでけえのが、いただかい」って、そんなことがいくらでもある。20年も経つのに知らなかったかい、って。話もしたことねえ、ってのはいっぱい出てくる。いるだよ。

 地域の産業である農業に後継者がいない。後継者がいない、じゃねえだよ。全部、後継者はいるだ。いるだけども農業しなくなっちゃっただけだわ。それで、もっと腹立たしいことに、家も継がねえだ。父ちゃん母ちゃんが年行ってきたら家に入ればいいわ、って、親も親だ。俺も親だけど。親が長男に言っておかなくちゃ駄目だ。俺も皆さん方にお世話になって、山ほどの家から田圃を借りて、毎年暮れに年貢を持ってみんなの家に行くだけど、行くとな、爺ちゃん婆ちゃんがいるだ。それで「今年はどうなっただい、米穫れたかい?」「お陰で穫れたわいやあ、これ、年貢だからない」と言うと、「良かったわいや。若い人は東京へ行っててな、これ、送るだわい。」これが楽しみでいるだわい。 それで毎年、送るだよ。それで送れねえ人は、「悪いけど、ここへ送ってくんねえ」って、住所を書いてくる。「いいよ、いいよ」って送ってやるだよ。それを見ながら、「この若い人は何を考えてるんだろう」。それで若い人に訊いてみた。「面倒くさくて、米なんかいらねえ」と。「買えば安いものを、送って来られるから、何かまた心配しなくちゃいけない。面倒くさいや」。こういう、とぼけたことを言う倅もいるだ。だから、それは極端にしても、そうやって親子が、若い時「いい学校出ろ、いい大学出ろ、いいとこへ勤めろ」って、「それやるだら東京がええわ」って出しちゃう。ほいで爺ちゃん婆ちゃんに「若い人はどうしたい」って訊くと、「帰ってこないわい」。「東京に行ってなあ、こういう仕事をしてて、向こうで家を建てちゃったみたいだわい」って。「なんだい、それ」って。

AK 空き家ばっかりだよ。

荻原慎一郎 そう。だから、そういう所で、皆さん方が育てた自分の子供は、そんなことの為に育てたの? 子供をね。自分たちと一緒に最後まで、面倒見ろとは言わねえが、一緒に暮らして笑ったり、騒いだり出来るような家族、っていう、そういうものに憧れて、皆さん方も育てただろうし、そういう子供とのつき合い方がしたかった筈。なのに今の子供は、そういう思いを親から教わってない。小さい時から「なんだ、この成績は」。今も夏休みが終わってな、「宿題やってねえ」。昨日もテレビでやってたけれども、これ、親の宿題だよ、親が競争しているだけだよ。学校行って怒られるとな、あの授業?に負けちゃ行けない、って必死になるだよ。宿題でも自由研究でも。そうやって子供を育てて、「いい学校行って、いい所へ勤めて」って言って、それで大きくなって、いいとこへ努めて「良かった良かった、私の子供はこういう所に勤めたわいや」。「すげえなあ」と言われて、それで疲れが取れるだと。「えーっ、そうかなあ」って、時々思う。大事なことを忘れてねえかな、と。だから北御牧の我々が入った頃はまだそれでも農家もあったし、農業の跡取り、それから土、日には家の手伝いをする、っていうようなことを、さんざんやったから、だから親の姿を見てた。だけど今、見てない子供は、汗して働いて僅かな米を一年掛かって作って、それで収入を得ていることを「なんでそんな苦労なことをするだい」。そりゃそうだよな。20歳やそこらで勤めれば、月に20万円前後の初任給が入るだ。米を買った方が安いに。それを汗水流して穫ったよと恩着せがましく言われたって、感謝なんて気持ちが出て来ないだよ。

 これ、何故だろう。これ、教えるタイミングがなかった。小さい時にもう少し子供たちに関わっておけばよかった。教育っていうのは学校だけじゃなくて、家庭教育がうんと、でかいだ。人間にはね、家庭教育と学校教育と社会教育と、三つの立場で教育の場面があるだよ。それで、このうち社会教育ってのは 我々がやってるような、地域の子供のために何かやってやろうか、って動いてみたり、それから地域の子供たちの活動のお手伝いをしたり、そういう場面を見てやったり作ってやったり、それからパトロールだとか防犯だとかという部分で子供たちを見る。たまにね。これが社会教育。それから学校教育というのは、その通り。学校で教わる教育。先生が、国語、算数、理科、社会を教えて、休み時間や放課後を使ってクラブ活動や部活を教えて、若干の道徳を先生が教えてやる。これが学校教育。残りが家庭教育。この家庭教育が一番、でかいんだ。子供を育てるのに一番関わりのあるウエイトの大きいもの。これは家庭教育です。家庭教育が9割を越えます。子供の人格形成に一番大事な教育は家庭教育。学校教育は数パーセント。社会教育は1パーセントか2パーセントだ。ほんの僅かです。

 だから我々が今、地域の子供を何とかしなきゃ、って血道をあげて知恵を絞っても、その1パーセントを何とかっていっても力がないだ。だけど、これすらやって来なかった。だから子供は学校の勉強と親の言うことを聞いてたために、優秀な子供がいっぱい出来た。いっぱい出来たが、地域を考える子供が出来なくなっちゃった。地域の素晴らしさとか、自分の夢だとか、目標だとか、っていうものを、数字や立場や自分のポジションに置き換えて考えるような人間しか出来なくなっちゃった。お金がなくても、どんなに、その、立派な家に住めなくても、父ちゃん母ちゃん爺ちゃん婆ちゃんがいて、毎日、笑ったり騒んだりして、朝、飛び出して、夕方、帰ってったら怒られる、っていう、こんな家庭、今でもやってる家なんて、どこにもない。つまらない。

 我々も今、考えて、親父ももう亡くなっちゃったけど、親父やお袋に怒られる度、世話焼かれたり、「ワレは学校から帰って来たら、なんで来ねえだ。桑切ってあるのを誰が持って来るだ」なんて言われて学校の頃、さんざ怒られて、「そんなもの、蚕なんてつまらねえ」って言いながら、お袋と一緒に桑を運んだりしたもんだ。あれ、今、とっても懐かしい。あんなことを教えることが、今は出来ない、どうやってみても。

YM そんなことがあって、親と繋がっていくんだもんね。

荻原慎一郎 そうよ。それが大事。それが家庭教育なんです。この家庭教育が人格形成の中で、人としてものすごく大事な部分を占めている。

YM だけど、今はそういう時代だから。

荻原慎一郎 そうなんです。だから、みんな言うだ。「時代だからしょうがねえ」って。子供にも言うだ。「昔と時代が違うわい」って。

YM 「昔のこと言ってちゃだめだよ」って、いつも娘と突き当たってるんだよ。

荻原慎一郎 そう、当たるの。でも負けちゃいけねえよ。それはねえ、間違いだよ。

YM 喧嘩になる訳。

荻原慎一郎 喧嘩していいだ。喧嘩出来るのは、親子だから。隣のおばさんとは喧嘩しないわい。

YM だって、ぜんぜん私らの考えと違うだもの。

荻原慎一郎 それはね、時代が違うっつうだよ。俺もさんざん言われたし、俺も言ったわ。「今より何をよくだ」(?)ってな。言ったけど、時代は違うけど、人は同じだぜ。昔から手が3本も5本も生えた人間は育ってねえで。千年も前からこうだで、人間は。生きることについては寿命が10倍にもなってねえよ。50年が80年になっただけだよ。生きることも、正しいと思うことも人の倫理も、100年前でも200年前でも、今と同じ。人は同じ。社会が変わっただけだ。

 その社会が変わることを、今の若い人は進化だとか進歩だとか文明だとかという言葉に置き換えて、良いことだと思ってるだ。間違ってはいねえよ。良いことだよ。良いことだけど、それは人が生きるための資質だとか感性だとか、そういうものを失ってる、ってことを誰も気が付いていない。それで親はそのことを説得する、今、言語も力もない。だから「そうかな、俺らの言うことは駄目かな」と。

 私が昔、48歳の時にたまたま、北御牧村の公民館長をやらしてもらって、敬老会をふれあい体育館でやっただ。北御牧に約700人の70歳以上のお年寄りがいただ。全部は来なかったけど、百何十人来た。それで「公民館長、挨拶しろ」と言うから、そういうことになってるから、俺は挨拶した。それで「皆さん方、家の子供にちゃんと教えて行かなきゃいけないことがあるだから、あなた方の時代だで、これからは」と言ったら、「家の子供なんか、言うこと聞かねえ」って。誰も。「守んなくて、わくてえ疲れる」って言うから、「そうでしょう」って言っただよ。「それは誰の責任?」って。「あんた方の責任でしょう」。年寄りを敬えとか、尊敬しろ、って教えた筈なのに、自分が年寄りになったら、誰も尊敬してくれないだよ。「このことは誰の責任?」って言ったの。「家庭教育で何か抜け落ちていない?」。

 家族を大事にすることが、地域を守ることの第一歩だよ。一番根っこだよ。家族を思わねえ奴が地域を思うことなんて、ぜったい出来ない。そのことを親が教えなかったら先生だって人の子だけど、1クラス30人も40人もの子供の親には、なり切れないだよ。 だから、学校行って「俺たちの子供は馬鹿だけど、よろしくお願いします」って頭下げても、よろしくなんて、お願いされたって困る、って、先生は。よろしくは、出来ない。よろしく出来るのは、家しか出来ない。家で子供たちとどれだけ関わり合ったかという厚さが、人をつくる。家族を作る。それで、地域をつくって、未来をつくる。これが、みんながやれば、もっと厚いものになるだよ。

 それが出来たのが、かつての北御牧、いや、もっと前の、皆さん方が若かりし頃、青年団だとか、農協婦人部だとか、いろんな活動をして、燃えてた時代があった筈。その時代のエネルギーは家族づくりから来てた。我々の父ちゃん母ちゃん爺ちゃん婆ちゃんがつくってくれた地域や文化を、我々が継承して守らなければならない責務がある。そんな立派なことは言わないけど、感じてただ。だから守らなければならない、やらなければならないっていうのを感じてられただ。

 今は何も感じない。「税金払ってるんだから、誰かやればいい。役場がやればいいじゃないか。俺は関係ねえ」って。「前のU字溝にゴミが溜って流れねえから、何とかしれや」って、それ、ゴミを片付ければいいだ。役場の建設課に行って「ゴミ取りに来う」って。やりゃあいいで、自分で。という気がない。税金を払ってる。そうじゃねえだよ。地域を思うっていうのは、違うだよ。だから、そういうことを家族の間で話すこともなくなっちゃったから、地域を思うことや、上八重原や中八重原もそうだけど、盆踊りだとか夏祭りだとか、ああいうの、みんなやってた。村民運動会なんて、俺もやった。だけど、今は草野原だ。もう使わないよ。皆さん方とゲートボール、血道をあげてやってただよ。今どこも見てみ、草の山だよ、ゲートボール場。あれ、誰が使うだ、誰も使わねえだよ。な、ゲートボールは戦中、戦前の者じゃなきゃ耐えられねえスポーツだ、って言って、売られて行っちゃっただよな。あれは今の民主主義の中では、やり辛くって出来ねえ。あんなスポーツは駄目だって言って、終わっちゃった。

 と、いうふうに、今の連中には考えられない。感じ取れない部分、てのが出て来てるだよ。それが今の、話は少し進むけれども、今の若い人が、20代30代の若いお父さんお母さんが子供を育ててる。あの時代からは我々の時代はなかったパソコンが入って来て、今はスマホになって来てるね。それも日々、進歩してる。でも、我々にはさっぱり分からない。勉強しろ、ったって、勉強なんて出来ねえ。土台もなんにもねえや。「ここ押しゃ、こうなるだろ」って言われただけで、忘れたらただのゴミだわ。何も使えねえだよ。そういうのがいっぱいあるだよ。それなのに今の子供は、もう1歳2歳でやるから。子供が、スマホ貸せば、赤ん坊がそれをいじくって笑ってるからね。読めもしない、理解もしてないのに遊ぶだよ。あんなこと、我々には出来ない。ところが、そういう子供が、目の前で10年もすりゃ皆、大人になっちゃう。そん時に今言ったような、家族を思いましょうとか、地域の産業はこうで、なんて話をしたら、そりゃまあ縄文時代の話かい、ってなっちゃうだよ。聞いたこともない、見たこともない、家の父ちゃんだって、そんなことはしてねえに。そんなこと、誰がやっただ、ってなっちゃう。

 そうじゃねえだよ。そのことを必ず話して、継承をしていかなかったら、人づくりが出来ないだよ。分かってくれねえだよ。北御牧という、この八重原という地域を300年も、もっと前に入植してここを開墾した時、道具も何にもない、人の連絡もない、情報もない時代に、営々として開墾をし、農地をつくり、農業を始めた先祖。どこの誰かは分からないが、いるだよ、必ずここに。その人たちが今、見てるとしたら、何て言う。「わんだれは、誰のお陰で生きているだよ、誰も感謝に来ない。それで自分がやったかのような、自分がつくった世界のような顔をして、のほほんと暮らしてるのは、何のためだ」って。子供なんて、もっとそうでしょ。親がそういうことを言わないから、知らないで行っちゃう。「そんなのは日本中同じだ。世界中同じだ。べつに今おらほがいけねえ訳じゃねえで」って開き直っちゃう。それじゃ、どうにもならない。そうじゃなくて、そこで必要なのは、自分たちの回りのことを、こうやって話せる仲間づくり、話せる場面、場所、をつくること。そして皆さん方が残したいことを、語っておくこと。それが今、出来ることって言ったらば、こういう話を若い人たちに居てもらって、そのうち一割分かるかどうか分からないけれども、その人たちにも聞いて貰って、我々がこの北御牧をどういう思いで守って開墾してつくって来たものなのか、という重さを感じて貰いたい。そうすることで、無くしてはいけないものを、言わなくても分かる。そのことをやっぱり地域の中で出来る。人をつくる。

 その、人をつくる、っていうのは、話はちょっとそれるけどね、長野県の知事が、それを心配してるだ。「次代を担う子供たちを」と、村長をはじめ知事までみんな言うだ、挨拶の時には。「次代を担う子供たちを育てるために」とか、「伝えるために」と、みんな言うだ。どうやって。誰も分からねえだ。今、リーダーとして残る者とは、どういう人たちのことを言うんだろう。みんな考えてるだよ、一生懸命。

 で、皆さん方も知ってると思うけれども、長野県には青年の船、っていうのがあっただよ。我々が青年団をやってる頃、もう30年の余も前だけど、それが田中知事の時に経費削減で止められちゃった。23、4回続いただ。それで、第一回目の船に俺が乗った。あの時、西澤権一郎っていう著名な、全国の知事会長をやったくらいの人物だけど、西澤知事があの時な、長野県青少年ジャンボリー、っていって大々的なキャンプを開いたんだよ。霧ヶ峰で。500人を越える長野県の若者が寄ったの。何十張りというテントを山中に張って、そこで皆、集まったのよ。それでキャンプファイアーをやったのよ。巨大な火を焚いて、500人の人間が輪っこになって、何重になったか分からないけれども、膨大な広い所で。キャンプをやった。そのキャンプの火を囲んで、マイクを使って意見交換をしたの。山ん中で。そうしたら、ある青年が「長野県は海がない。海がないから、洋上を船で出掛けられるような研修が出来ないか」と、提案をしたの。そしたら、それはいいなあ、って、知事が思ったんだよ。それで「分かりました」と。そんな簡単にはいかなかったけど、それはいい、って。その時はね、青少年課長もそうだし、社会部長もそうだし、みんな行ってたから、部長が。みんな聞いて、「良いこと言うなあ、そうだよな。海なし県の青年に、海の上で洋上研修をさせよう」っていうふうに提案をしたの。そうしたら今までの長野県の歴史の中で、起きなかったことが起きちゃっただ。夏だよ、キャンプだから。翌年の4月までに、予算が取れちゃった。こんなこと、嘗てない。県庁の予算であの当時、三十数年前に7,600万円の予算を取っちゃった。あの当時だよ。今だったら数億だよ、になる予算を取っちゃった。その一言で。それほど知事を動かしただ。知事も感動しただ。それで「即刻具体的な予算を立てろ」って言って、「青年の船の第一回をやるぞ」っていうのが、4月に出来ちゃった。

 あのことは、今まで億を越える、皆さんが何年も部局が検討して、さんざん削って何年も掛かるだよ、事業として立ち上げるには。それを半年もなかったうちに上げちゃった、という事態が起きた。で、騒ぎ出したのが、その時ジャンボリーを推進してた長野県の青少年会議という若者がいただ。その連中のトップが乗船の船の団員の執行部になって、それで動き出した。その時、長野県は121の地町村があって、その市町村に団員募集のチラシを配った。定性人口割で、人数を割り振った。

 その時に北御牧の割当は二人。立科町も二人。東部町も二人。少なかっただよ。上田市が十六人。長野市が二十何人。松本市もそう。ていうふうに、人口割で集めた。四百数十人。男女比率でいくと、女性が6割くらい、ちょっと多いくらい。で、募集した。そうしたら山ほど募集が来ちゃって、選考しなきゃいけなくなっちゃった。県でももちろん、ルールの中で、市町村の推薦が絶対なもんで、市町村では応募した人を選考しなくちゃいけなくなった。

 その時に、北御牧は5人の応募があった。俺は青年団と八日会、っていう、農業後継者の会に入ってた。それで活動してた。それで、その時に5人が応募に出て「どうしたもんだ」って言った時に、募集が掛かった時に、八日会の役員の方から、その時に青年団の学習部長をやってたもんで、「おい、行かねえか」と言うから、「そんなもの、百姓やってたら、17日間だよ、夏。17日も家を空けたら、家は終わっちゃうじゃないか。俺一人しかいないんだから、爺ちゃん婆ちゃん残して。駄目だ、俺は」って言ってたんだよ。そうしたところが「困った。青年団でも八日会でも、誰か推薦しないとまずい」って話になって、「おめえ、行くしかないでや」なんて、めた押し詰められてな。「会長でもなんでも行けばいい」って言っただけど、めた言われて。

 それで、何気なく家に帰って、お袋に言ったの。「実は今、こういう話があってさ、青年の船が出るだそうだ。北御牧も二人、行けるそうだが、八日会や青年団の方から俺に行け、って騒がれてるだが、とんでもねえ話だよな」って、蚕飼いながら話しただよ。そしたら、お袋の手が止まって、「なんして、あんた行かないだ?」「行かない、って、おめえ、俺がいなかったらこれ、出来んだぞ」「あんたが17日位いねえこと、家は何と思わねえや」ってお袋が言うだよ。「俺が17日もいなかったら、おめえ、どうするだ」って言うと、「いなきゃいねえで、何とかなるで」「そんなこと、ねえだが」「行けるだら行けばいいに」って、簡単に言うだ。「ちょっ、ちょっと待て、親父に訊け」と言ったら、「父ちゃんもたぶん、そういうふうに言うよ」って言うから、「そりゃ、弱ったな、じゃあ、嫌だ、っていうのは俺、本人だけかい?」ってな。そんでもって、もう一回考え直して、で、親父やお袋に話をしたら、「俺、行ってもいいだか」って言ったら、「いいともさ」ぐらいでさ、って言うだよ。そんだから、しょうがないから行って、「じゃあ、俺、行くわ」って言った。

 すぐ推薦状が付いて、5人いたやつ、もう一人いたけけど、3人を落として俺が行っちゃっただよ。もう一人も青年団で活動してた彼が入って。そこには条件があった。事後活動を期待出来る者。船から降りてっから地域で、活動を期待出来る者にしてくれ、という条件があった。それには推薦母体があるのが絶対だもんね。俺も現役でやってたから。そんなもんだから、乗ることが出来た。

 それで初めて長野に行ったんだよ。事前研修で。長野の宿坊を全部貸し切って、500人近い、スタッフを入れると、人間が、泊まりで研修を受ける訳だ。それは面白かったわい。長野県中から若い人がいっぱい来てるんだから。船もそう。みんな班分けになって、十何班まであるだよ。男女、部屋は違うけれども、混合のクラスになってね。17日間、一緒にいるだ。これは天国だわい。楽しいわい。ほんでイギリスの船だったもんで、全部船の中は免税だわい。ナポレオンでも、ジョニ黒でも、ジュースと同じ値段。300円くらいで皆、飲めるだ。2桁も違うだよ。日本で飲むのと。俺は酒を飲まないから残念だったけど、好きな連中はジョニ黒とナポレオンで酔ってたわい。天国のようだ、って。っていうようなことが繰り替えされて、船は17日間、長野を出てから汽車で、一列車貸し切りで大阪まで行って、そこに船が待ってるから、そこに乗り込んで、それから17日間船が出て、沖縄と香港と、フィリピンを廻って帰って来た。その行った先で、第二次世界大戦中、日本で今話題になっている、戦争の被害者というか、我々にしてみりゃ日本は加害者のように思うけれども、戦争で痛い目に遭った祖先がみんないるから、だから、あまり戦争のことは触れないように、っていうふうに言われて、で、そういう質問もしないように、って言われて、向こうの寄港地に全部寄って。で、船から降りて寄港地を廻るのはみんなバスを仕立ててあるもんで、バスで廻って歩くんだけれども、夜は全部船に戻るだ。

 船は立派なもんだからね。船は一万トンで450人の所にボーイが450人いるだ。一人に一人ずついるだわ。実際にはそんな付き方はしねえけど、だもんで、いっぱいいるだ。それが純客船なもんで、今の日本のサンフラワーのような、貨客船じゃないだよ。純客船なもんで、あの中には大丸のデパートまで入っている。美容院もあるだ。床屋もクリーニング屋も、プールもあるだ。映画館もあるだ。スナックもあるだ。和風バーもあるだ。全部あるだ。夜になれば、それが全部開くだ。そんなもん、あんた、他の街に行くよりずっと楽だわい。サンダル履きで行けるんだから。

 それで女の人がいっぱいいるだず。20代の女の人っきりだよ。もう8割方の人が独身だわ、スタッフ以外は。名簿を見てれば住所からみんな分かるだから。あの娘は誰だ、って名前すぐ覚えて、「あれ、ちょっと連れて来う」なんて、まんず動機が不純だから、そんなことばかりやってただよ。それで夜になれば家に帰らねえんだから。そこにいるだから。お陰でね、青年の船で帰って来て、一緒になったカップルがいっぱいいます。だから立心偏に生きる、って書くだよ。違う違う、俺はね、話は逸れるけど、俺は一船だだ。家の女房は四船だよ。俺は一船から帰って来た時に女房に話をしただ。「あの青年の船は意味がねえ」って。「あんな金使って、あんな天国三昧をしたじゃ、まずい。あれは金の使い道がいけねえ」なんて、そんな小言を言っただよ。そしたら「あんたが乗っとる、というのがおかしいわ」っていうから、「行ってみろ」って言ったら、「じゃあ、行ってみる」って、四船に乗った。女房の姉というのが、2つ上の、それが俺と一緒の船に乗ってただ。一船に。そんなことがきっかけで、ひょんなことになっちゃったんだけど、それで船が出て、そんなことをずっと繰り返してただ。

 でもね、面白くも何ともなかったけど、俺はあの中で一つだけ、感動したことがあるだよ。四百何十人がいっぺんに研修に出る、って場所はそうはねえだよ。ね。で、だいたいね、二班くらいに分かれるだ。二百人くらいに。そうするとその船にはね、今でも覚えているけど、ロンドンバーとか言ってね、名称はね、部屋は厚い、毛足の長い絨毯とソファーが山ほど並んでいる部屋があるだよ。大きいホールが。船の一階のデッキの上にあって、海がみんな見える所だよ。展望の良いとこだ。サロンのように使えるだけど、船の上では研修施設になっているだよ。会場が大きい。そこに200人からの人がみんな座っていろんな、その、毎日毎日いろんなテーマに沿って議論をするわけよ。それが、要するにファーストセリング(?)、セカンドセリング(?)って、入れ替わりになるの、半分ずつ。それで、そこへ座って話をする。そしたらね、ある女の子が手を挙げて。「あっ」って、俺と同じ部屋の同室の友達が、「おい、あれ、オラと一緒の」。飯を食う時にね、席がテーブル毎に決まってる。誰の隣かみんな決まってて、乗ってる間中決まった席だ。朝晩。俺の向かいにいる女の子がいただよ。「ああ、あの人だほ」。それでね、その子がね、手を挙げるだよ。大声なんか出さない感じの人が。手を挙げて意見を言うだよ。「あれ、喋ってる」喋るだけで格好いいだよな、あれは。で、最後に言った。「発言するような意見じゃなかったけど、大勢の前で発言する、ってことをしてみたかった。そういうことをしてみたかった」って。「それで勇気を出して手を挙げてみた」って。そのことに感動しちゃったんだ、俺は、話の内容より。「素晴らしい女の子だな、おい」って。それからもう、「夕飯食ったらデッキへ誘え」(笑い)飯の度に「夜、デッキに来ない」って。行ったけどね、駄目だ、いっぱいいて。

 しょうがないから、「面白くねえな、何で俺らはこんなに恵まれないだや」って思ってな、で、友達と一緒にデッキに行かず、って言って、南の方だからね、暖かいだよ、海の上で。じゃあ、南十字星を仰いで一杯飲むのも、それもいいわな、って、デッキに行っただよ。真っ暗だよ。デッキにいっぱいベンチがあるから、見てただよ、二人で。だんだん眼が慣れてきたら、「あすこに誰かいるでや」。みんな、あっちこっちでアベックじゃん。

「俺ら何で男同士でいるだ。つまらねえ、ったらありゃしねえ。帰って飲むだ」そんなことを毎日繰り返してただ。

 それで、もう一つはね、20歳の女の子がね、デッキにいた時にね、俺も一人でデッキにいただ。同じ組の女の子で、20歳の女の子が、そのデッキにもたれかかって海を見てて、俺も距離をおいて見てただよ。そうしたら、その女の子がハーモニカを吹き出すだよ。童謡を。こっちが、しんみりしちゃってな。ある意味感動して、「お前、上手だいな」って、俺が寄ってっちゃっただよ。それで話したら、こがねの女の子で、青年団やってる、って訳だ。「それじゃ、一緒じゃん」って、それで話が盛り上がって、それでしばらく後半は、香港行ったり、フィリピン行ったりして、船を降りても一緒に買い物したりしたけどね。

 いろんな人の出会いってやつはね、その人をずっと面白くする、っていうか、楽しくする。だから、いろんな人と出会うことを、うんとしなくちゃ。これはね、若いからじゃねえだ。年を行ってても、年なんか関係ねえだ。うんと出会わなきゃだめ。それとね、人間の精神ってやつは、人との出会いでどんどん、若くなる。それで、言葉で言えば社交かも知れねえけど、社交なんて、術でも何でもないだ。自分の思っていることを素直に言葉に出せば、自然に社交になるだ。格好つけて何か話そうと思うと、しどろもどろになって話が、辻褄が合わなくなるだ。そんな無理しなくてもいいだ。それから、普段思っていることを一生懸命、喋ればいいだ。

 だから、例えばここで、AYさんが憩いの家でやった時も、AYさんの流儀で喋るだよ。そんだもんだから、何て事はないけど、面白いおばさんで、いいおばさんだよな、っていう印象が出て来ちゃうだよ。これがいいだよ。このことを皆が出来るようになるといいな、と。それこそ話はずっと戻るけど、家族の中で、親子の対話、それから夫婦、あるいは兄弟の対話、ってどれほど取れてるの、って。いろんな話をした時に、そのことを理解したり口に出して話せるようなタイミングがあったな、っていうようなことを皆で感じ合える時があると、別な家族が出来るよね、っていうふうに思う。それで、そのことが仲間づくりにうんと大事になる。初対面の人。

 それからそんなように偶然青年の船で行くと、数百人の初対面の仲間と一緒になるだよ。で、そん中で、数えきれないほどの出会いがあるだよ。それで、どこで行き会っても今、あん時はどうだ、って言えるだよ。それで、その連中が、今さっき話した阿部知事が、ネクストリーダー養成塾の、俺が進言しただけど、作れ、と。長野県の将来を担えるような、リーダーになれるような青年を、今作れなければ大変なことになるよ。阿部知事も「その通りだ」と。だから、ただ単に地域づくり、人づくり、って、いろんな補助金出してやってますけど、それでうまく行ったということが一つもない。「どうしたらいいだ」って言うから、「青年の船を思い出してみな」って。「なくなっちゃったけど、あの青年の船に乗ったメンバーで今、地域の中で活躍してるメンバーがどれくらいいるか、拾い上げてみ、圧倒的に多いから」って言って。ネクストリーダー養成塾は今、県の次世代サポート課、って言う所で立ち上げて事務局持ってるだけど、あそこのスタッフになってる、最初にスタッフになったメンバーは一船、俺の仲間みんな。俺の友達が、その時のスタッフをやってた連中が、今だもって青年だだわい。「70にもなるのに何でおらほはここに集まって、青年、青年、って言ってるか、俺らは」って言ってるだけど、可笑しいよな。70だよ。

 でもそれくらい、青年というものが次代に受けた影響ってすごいだよ。昔、哲学者が「もし私が神であったなら、青春は人生の一番最後に置いただろう」っていうくらい、若い、青春、ていうのはすごいエネルギーがある。歳行ってからじゃ出来ねえだよ。やりてえと思っても。世間が相手にしてくんねえだよ。でも、負けちゃいけねえ。気持ちは。だから、そういうふうに今の、たぶん、皆さん方の子供や孫が近い将来、そういう次代に入ってくだ。その時に何を一番学ばなきゃいけないか、ということを、あなた方が教えておかなくちゃいけない。よく中学校や高校の進路指導の時期になると、学校から三者面談なんかで親が呼ばれて、子供と先生と三人して「どの学校行くだ?」「どこに勤めるだ?」「夢や希望はあるだ?」。そうすると「よく分からねえ」なんつってな、「お前は何も考えてねえだか」親が横で突ついたって、子供なんて、言える訳ねえだよ。それで、あげくの果て、父ちゃんと母ちゃんと話すとな、「えれえ、野郎の人生だもの、好きなようにやらせればいいでや、俺らは厄介にならなくていいだから、好きにやらせろ」。

えっ?15や18の子供に人生の将来を判断する力があると思ってるのか、この親は。ありえねえよ、そんなこと。人生の経験者は親や爺ちゃん婆ちゃんだよ。この人たちが「こういうもんだよ」って話をしてやらなかったら、誰が人生が選べるだい。ただ子供は夢物語で言うだよ。当たる力のあるもんだらいいよ。だけど、大方のもんは言ってみるだけだだよ。いいとこへ勤めて、親を喜ばせるにはどうしたらいい、親が喜ぶにはどの学校に行けばいいかな、くらいしか、頑張れないだよ。その先何をやるかなんて、考えられる子供がいたら、大したもんだ。ごく、まれです。

 だから、親は日頃から家の子供が何をやりたがっているか、何を望みを持っているか、地域のことで馴染むことは出来ねえか、地域のことをこいつに教えておくには今、何を話せばいいか、っていうようなことを絶えず親として、大人として思ってなきゃ駄目。そして、話してやんなきゃ駄目。「くたびれてるから、飲んで寝るだ。早く部屋へ行って、とっとと勉強しろ」「寝ろ」なんて言わねえで、「ちょっと話せ」って言ったら、面白い。

NJ あと、その子がどのくらいの能力があるか、だよね。

荻原慎一郎 そうそう。だからさ、能力なんてさ、俺もそうだけど、能力なんてねえだよ。劣等成績で最低線離陸した、俺も人間だからよく分かるんだけど、馬鹿でいいだよ。あの、昔から言うだけど、人づくり地域づくりに欠かせない人材、それはよそ者、若者 、馬鹿者、だわい。(笑い)この三者がいれば出来るだよ。学識経験者や、どこそこの大学の教授なんて呼んで来たって、何の意味もないだよ。「よそ者、若者 、馬鹿者」。これは信大の教授が言った言葉だよ。今、どこでも言われてる。「よそ者、若者、馬鹿者がいればいい。この地域は絶対、発展する」。馬鹿者はともかく、若者もよそ者も、寄って来ないじゃないか。で、それはこの地域の中にいる馬鹿者を、もっと助けなくちゃいけねえんだ。

その馬鹿者はどこにいる、っていったら、どこの家にもいるでねえか。俺ん家にもいるけんど、そういう者に、「地域、ってどういうものだろうか」「家族、って何だろうか」「歴史、ってなんだ」「何百年も続いて来た文化、ってなんだ」というような話をしたことあるかな。

 どっちも答えは出せない。だけど、営々として続いて来た事実が、ここにある。失ってはいけないという責任だけは、ここにある。放置しておいたら亡くなっちゃうものが、ここにある。このことを誰かが伝えなければいけない、ということについて、やっぱり話す機会がない。昔、青年団がここにあった頃は、この間のドキュメントかい?  かなんかで、テレビで滋野時報が廃刊になった話を、見た人いる?ね、あれ、滋野時報は、戦中、戦争が厳しくなって来た昭和19年から』20年にかけて、特高警察に全部、撤廃されちゃった。あん時、東信地方に33、時報があった。北御牧にもそう。箒村(?)から武石村まで、全部時報があった。それも全部、特高警察に止められちゃった。禁止になっちゃった。ところが、滋野時報は奇特な人がいて、それをとってた人がいた。それが戦後になってから出て来て、それを紐解いてみた所が、その時の特攻のやり方や、世論の動き方、それからその時活躍してたメンバーの意見が、いっぱい載ってた。これは全部の地域が、この広報を出してたのは青年団だった。なぜって、日中戦争や満洲戦争を通して若者がどんどん狩り出される、それで大日本帝国は、放送や連絡で、「何しろ日本は勝ってる、どうでも勝ってる。だから敵と戦ってる家族や兄弟のために、一国火の玉になって加勢しろ」、と。「だから、みんなで苦しい思いをしなければならないといけない」って言って、言いなりになっただよ、国中が。戦うつもりに。それでやっただけど、その報道が間違ってるじゃん。勝ってねえじゃん、日本は。どんどん、負けてるじゃん。そのことを知らなかった。で、若者が「おかしいよ、あの報道は。やっぱり報道は自分たちで見なきゃ駄目だよ」ってなって、「何とかしよう」って言って青年団が「自分たちが何とか調べて書こう」って始めたのが時報の始まりだだ。

 それで、始めは団外の連絡とか、ああいう報道っていうか、するもんでしかなかっただ。

それが、だんだん書いてるうちに内容が面白くなって、調べてくると、一般の人がとても読むようになっちゃった。それで、どんどん続けてくれないかと言われて、で、刷るようになって、自ずとこれ、戦争が厳しくなるまでは、行政がお金を出して、青年団がそれに記事を書いて出してたんです。そしてそれを「時報」って言ってた。今で言う「広報」だな。それを我々が青年団だった時も、時報で、青年団が全部やってた。予算は全部、村が出して。金は出すけど口は出さないという、ルールだった。でも青年団員が減って、なかなかそういうことを出来なくなって、衰退をして来たら、団員でそれを毎日のように時報の事務所に詰めて原稿を書く、毎月、ということを、やるものがいなくなっちゃった。それでだんだん、公務員の仕事に回ってっちゃった。それでその時に俺の先輩だった青年団員の幹部の人たちは、「この仕事は絶対公務員にやらせるな」っていうのは、鉄則だった。

「青年団の時報の役員は、一般青年が絶対受けるべきだ。法の者にやらせるな」で、ずーっと来ただ。ところがある時から、公務員と青年団員の仲間でやるようになって、役場の職員をやってる人たちが入って来た。それで、混ぜてやってただけど、そのうちにだんだん役場の者が入ってくると、書けないことが出てくるだ。内部のことでは。政策だとか長期構想だとか、計画について、他言無用のことがいっぱい出てくるだよ。それを我々は知りたいだ。だけど、立場があって、書けない。結局それはそのまんま、今のように広報は役場の広報部がやってるだよ。民間の者は入ってねえ。だからただ、単なる連絡事項にしかなってない。意見が入ってないだ。「俺は住民としてこう思う」「青年としてこういうふうに思う」主観の入った記事じゃねえだよ。だから感動出来るような記事は少ないだ。人の心を動かさないだ。

 我々の頃は俺もさんざん、あの時報に記事を書いたがね。あの青年の船の報告ね、時報は毎月出るだけど、原稿用紙7枚ずつ、俺、半年書いた。10月から3月までか。ずーっと書いた。その「洋上報告記」って言って。今の縮尺版、取ってあるから分かるけど、ずっと書いた。香港て、こういう国だよ。フィリピンて、こうだったよ。沖縄ってこうだよ。我々が沖縄に行った時は返還した翌年。日本に返還した翌年。だから、まだ車は右側通行でした。それでみんなアメリカのパトカーが付いて、ノンストップで、信号はどこもみんな、香港もフィリピンも、全部そうだった。国賓待遇で動いたから、どこに行くにもノンストップ、全部。前後にパトカーがみんな付いて。十数台の車がそれで行くだから、街の中を。日本から。すごかった。「えらい待遇だな、これ」って言うくらいの。そんなことを時報に書いてもみた。

 そういう、一般青年の眼から見た活動だとか、市の状況が、今の広報にはどこにも出て来ない。議会だより、あれもただの連絡。ようでもない(?)意見をただ吐いてるだけで、もうちょっと突っ込んだ話は出来ないのか、と。そのことに対してどうして疑問を持たないだ、というようなことを発言する紙面は一つもない。

 たぶん、書けないでしょう。今の空気では。もし書いたとしてもボツだわ、それは。

AK 投稿欄ってないかい?

荻原慎一郎 あるとは思うけど、そんなにきつくは書けない、たぶん。一般的な、「明神池は素晴らしいなあ」という話は誰でも載せるわ。「あそこは何とかで、あそこがいけんわ。補助金を出せ」なんてことは誰も言わない。でも、それを言え、って訳じゃねえけど、そのことの必要性。話は戻るけれども、この10年後20年後の、この明神池の回りの空間の雰囲気を、誰が維持するんだろう。こん中で俺もそうだけど、10年すりゃここに来れなくなっちゃうかも知れない。俺らですら。その時にこの景観、この環境、この空気を誰か維持してくれてるかな、誰か。とかね、そういう、守らなくてはならないものを守ろうとして、守れる人がいるだろうか。行政が月並みに予算を盛って業者を頼んで下払いをしたり、枝打ちをしたりして、かろうじて形を守っても、気持ちはどっかへ行っちゃうんじゃねえんかな。という思いもいっぱいする訳。通わなきゃいけねえのは、気持ちなんだよね。地域づくりに。

 そのためには、やっぱりこういうコミュニティーの場面をいっぱい作る努力を、みんながしないと育っていかない。だからこういうことは今、たまたま、このまる屋さんでやってくれるから、俺はうんと素晴らしいと思うんだけど、情けないと思うだ。なんで我々がこれを出来なかっただ、って思うだよ。このことをもっと広げて、たとえばここじゃなくて、でも、あまり、もっと仰々しく何十人も集めちゃうとね、ちょっと大変かも知れないけど、こういう小ちゃなコミュニティーをいくつかつくって、交流をしたらいい。何とかの会でもいいだよ、にして、こういうのを地域づくりでつくって、何とかの会と何とかの会の交流をしましょう、みたいにやってったら輪が広がるだよ。そんなようなことが、俺は地域づくりの、本当の本当の根っこだと思うだよ。このことがうんと大事だと思う。で、このことをつくるためにも皆さん方のそれぞれの家族の輪や、家族との対話をつくれるような、家をつくりましょう。これがうんと大事。

 そうするとね、今農業の話をしねえで終わっちゃうかも知れねえけど、農業を俺、やってるけど、殆どが農家を離れて全部離農したり、農地を俺もそうだけど借りたり、貸したりして、やってく農家がどんどん増える。なんでやらねえだ、って、出来ねえだよ。出来ねえだよ、ってのは、経営的に出来ねえだよ。農産物が安くなって、生産コストがうんと上がっちゃったから。もう出来ない。昔、人参や米や蚕をつくってやってる農家が殆どだったけど、今はそんなもんじゃ、とても食えない。いきおい、大規模にするか、付加価値のあるものをつくるか、しなけりゃ出来なくなっちゃった。その将来、どうなるかな、この農業は。我々専業農家も、とっても危機感を感じている。

 というのは今、皆さん方も分かると思うけど、長野県は茸で有名だよな。茸栽培で有名だだよ。ところがね、今、昨日ちょっと喋ってたけど、長野県の茸の販売額。何百億もあるだよ。そのうちの7割以上が、ホクト1社。ホクトがあらかた。後の3割くらいのところを、長野県中の何百軒の農家がやってるだ。細々と。なぜ? ホクトって会社は俺なんかが二十歳の頃は、茸の資材会社、プラスチックの瓶をつくってた会社。それが、瓶なんかつくらないで茸をつくっちゃったら、あんなもんだ。資本に負けだた。金があれば、茸は皆コンピューターがつくる。オートメーションの機械がやる。ロボットでおがくずを詰めて、コンピューターが培養をして、時期になればブザーが鳴ってコンベアが出て来て、次の所へ行く。全部入って出てくりゃ茸になってる。だから出来るだ。茸の職人なんかいない。ホクトは莫大な金をかけて研究室があるだ。新しい茸だとかね。耐性を持った菌だとか、そういうものの研究をする研究所がある。農家にはそんなものは持てない。だから、あれに対抗するものは、農家にはもうすでにない。資本力で負ける。

AK だから野球チームだって、茸のマークだよ。

荻原慎一郎 そうよ。だから、県民文化会館もホクトが買っちゃったでしょ。ネームバリューだけどね。

 この辺の界隈では、トマト。トマトを買おうとしても、生食トマトにしても、今みんなオランダ式のコンピューターで全部、出来るようになっちゃってる。銭さえ、数億円あれば、来年から3億売り上げのトマト農家が出来ます。5億円の投資が出来れば、ノウハウも設備も、全部来ます、オランダから。そうやってやってるのが長野県にもあります。南信に。それから俺も視察に行ったんだけど、山梨県の北斗市にもあります。30代の社長です。それが5億円かけて5町歩の山を平にして、そこに3町歩のハウスを建てました。

一棟で3町歩だで。要するに、鉄骨造り、高さ8メートル、幅200メートル、長さ170メートルのハウスだよ。その中にトマトがいっぱい。そのトマト、「今年の目標は?」って言ったら、「初年度だからね、3億くらいは狙ってるんだけど」って。何?

「後2年のうちには、5億には行くつもり」って、行っちゃうね。

AK 元はいくら掛けたかね。

荻原慎一郎 5億。10年経たないうちに元は返っちゃう。だからもう、その人は次の場所を選定してる。もう一カ所。それでもって出荷は今、全国から引く手あまたでまだ足りない。毎日そのトマト農場、ハウスだけど、大型トラックで1台か2台、配送だけど、トマトがだよ、大型トラックで出てくだ。それなのにここら辺界隈で「トマト、作らねえ」なんて、「俺、100坪作るから」「そりゃ、でかいわ」なんて、そんなもんじゃレースにならねえだ。絶対ならない。彼らはトマトの技術者でも研究者でも何でもねえだ。ノウハウは全部コンピューターが持ってる。だから、みんな土を使ってない。ロックウールという、ね、スポンジの固い奴、あれを輸入して、そこにみんな管を刺して点滴で水をくれてるだ。ペーハーだとか、葉っぱの緑色だとか、そういうのを見てコンピューターが皆、ここには何グラムの窒素が必要、リン酸が必要、このハウスにはCO2がどれくらい必要、

って、みんなコンピューターで出るだ。それを全部、自動で、換気から水遣りまでやってる。ただ、コンピューターを管理してればいい。それで、どんどん、どんどん、出来る。だからトマトを作ったことのある人は、俺も専門に作ったことはねえだけど、トマト、っていうのは露地栽培で簡単に甘くなったとしても、だいたい下から7、8段目まで穫れれば、3ヶ月くらいで終わって秋になっちゃう。

YA それでも失敗、っていうのはないもんですかねえ。

荻原慎一郎 それが、今の所ねえだよ。だから、完全に上手くいくだよ。

AK 資金さえ都合がつけばいい訳だ。

荻原慎一郎 だから今のトマトがね、7段か8段で今年は終わっちゃうだよ。6月頃植え付けて、7、8月頃から穫り始めて、一生懸命頑張っても10月までには終わるだ。それでみんな切って戻して、ま、ハウスに戻す。ところが、そのトマトは収穫の期間が11ヶ月ある。12ヶ月で一年のうち、11ヶ月収穫出来る。「なんだ、それ」って「どういうトマトになるわけ」って言ったら、穫ってって、40段になるって。だから、このハウスが必要。8メートル。天井からワイヤーが下りてる。それで穫ってって、届かなくなったらワイヤーを降ろす、手の届く所まで。それで、下にとぐろを巻いてっちゃう。40段だって。それで穫ってく。一ヶ月空くだけ。一ヶ月の間に全部出して、新しいマットを入れて殺菌しちゃえばいい。そういうノウハウはあるだ。肥培管理だとか、病気だとか、湿度温度は全部自動になってる。コンピューターで。そういうソフトも全部、オランダからセットで輸入してる。それで向こうから技術屋が、輸入元が日本にあるんだけど、販売はどこだっけな、住友だったかな、かなんかが、駐在員をおいて、サービスしてるから。完全に出来るまで、保証で。

 それだから、そこにいる従業員ていうのは、おばちゃん達が、端境期で30人雇用。最盛期になると100人を超える、って言ったな。だから地元の雇用に、すげえ貢献するだわい。それで、難しくねえだ。要するに、トマトの通路に入って行ったら、トロッコにこう腰掛けたようなやつ、交通作業車みたいなのがあるから、コンテナ持ってってボロボロ、ボロボロ穫って、枝になってる通路から戻ると、そこにトロッコが来るだわい。そこでコンテナを乗っけるとバーッと出てって次の部屋へ行くと、選別梱包の部屋があるだ。ラインになってて。コンテナごと持ってってザーッと空けると、秤がついてガタガタ、ガタガタ、ってパックに入れてっちゃう、みんな。それで上に行って出て来た時には、箱に入った、「トマト」って書いたトマトの箱が出来ちゃう。それをバチバチって封したら、トラックが待ってるだよ。行列してトラックに入って行っちゃう、ハウス中から。あれには勝てねえですよ。

AK このハルデンのシクラメンだってさ、そうだに。

荻原慎一郎 そう。だからね、施設園芸はトマトや茸や花や、ああいうものは、大手企業に絶対勝てません。よほど自分とこのトマトが美味い、って、こだわってて、それは100キロ200キロ売ればいいけど、それで生計を立てましょう、って思ったらレースになりません。それと、農業だから落胆することもねえだけど、同じことが商工業でも起きてるだよ。だって、上田の回りにベイシアだとかアリオとか、いっぱい出来たじゃん。あれは皆、地元の商店街じゃないじゃない。全部、県外企業じゃん。金があるから何十億もかけて、建てちゃうじゃん。

NJ どこに行っても同じなんだよね。

荻原慎一郎 どこ行っても同じだよ。今度はコストコが須坂に出来たでしょ。あれ、半径50キロ以内のエリアだってからね。ここもみんな、入っちゃう。そういう俺も群馬のコストコにはよく行くだよ。おそろしいスーパーだ。あれが須坂に出来たら、ものすごい脅威だわ。この机の半分くらいのカートだよな、あんなかに入ると。子供二人乗っけて歩くようなカート。それであそこは会員券がないと入れないだよ。会員登録をしないと。入り口に人がいて。「カードをお持ちですか」って、「もし入り用でしたら、すぐ作ります」。「じゃあ、作ってくれや」。作ってくれて、それで初めて入れる。そうするとカートを一台もらえるだ。中には何でもある。テレビから犬の餌まで、何でもあるで。いっぺえ。ロットもでかいじゃん。

OH そういう施設ってさ、年とって足の悪い者は行かれないじゃん。若者しか行かれないね。

荻原慎一郎 それがターゲットだよ。ところがね、だって、百姓が今、同じ話でしょ。じゃあ、俺らみたいな人は出来ねえじゃん、って、出来ねえだよ。早く止めな、って言わんばかりの勢いだ。

OH でも将来は自分たちが食料とするものが出来ないかな、って思ってたんだけど、人手不足でもあるけども、安心は安心だね。不足はないと思うね。

荻原慎一郎 だから、日本の自給率が3割を切ろうとしてる今、危機的状況だとよく言うだけど、スーパー行ってもどこ行っても、食料だらけだ。ほとんど間に合ってる。だから、今はいい。輸入出来るうちは。で、政府が考えてるのは、輸入が出来なくなったらこれは大変なことになるな、って考えてるだ。で、考えた国の策が、農業を大規模化しよう、コストをうんと下げさせよう。そして安くさせよう、農産物を。そして輸入食料に並ぶくらいにしちゃおう。そうすれば輸入も、無理しなくても買えるし。国産の物も大量に作れれば、少なくとも利益は出るだろう。その裏に、安くされたがためにやめざるを得ない農家が何千万軒とある、とは誰も言わないだ。な、安くなっちゃったでしょ。

 十数年前まで八重原米は2万4、5千円したのよ。それが今、1万2、3千円だよ。半値だで。それでも作るかい。誰も作らねえ、って。八重原米に魅力がない、って。美味しい、って言っても経営の糧にならない、これじゃ。だから、そういうふうに、米でも何でも欲しいと思えば何でも、全世界にはいくらでもあるだよ。あるだけど、国内で作る物は我々が食べたいと思ったら、政府だって言ってるよ、「家で食べる物を作るっていうのはどんどんやっとくんな。みんなで作っとくんな。出来るうちはやっとくんな」って。「止めろ」なんて言わないわ。

 だけど、生活が出来ないよ。食べるだけじゃ、生活出来ないよ。いい車に乗りたい、って言ったら、稼がなきゃいけねえんだし、銭はねえ。となりゃあ、農外収入をどうやって求める、って言ったら「そりゃ、百姓やらなくていいから、勤めろ」。二十歳の息子が外へ出ればさ、年に200万くらい、人件費で持って来るじゃん。百姓が200万稼ぐっていったら、蚕をどのくらい飼えばいいだい。命が三つもなくなるで。芋なんかあんた、どうしたもんだ。雪降るまで掘ってなきゃいけないわ。そんなことしたって200万しか穫れないだ。ところが二十歳の子供が外に出りゃ、取って来るだよ。この次代に農業やれなんて、言えっこねえじゃん。

 というふうに、農業をないがしろにしてる、って言えば語弊があるけれども、コストを下げるために、どんどん規模拡大を進めてるだ。そうすると俺みたいに規模拡大が好きな者ですら、自分で自分の首を絞めてっちゃうだよ。どんどん安くなってっちゃう。だから増産すればすればするほどコストが下がるけれども、単価も下がるだよ。そうかと言って、止めたらもっと苦しいだよ。だから、しょうがなしに頑張ってるだけで、これで安泰だなんて仕事はどこにもない。

 だからこれは今の話、外国からの輸入が安定してればいいけれども、「入って来なくなることはあり得ない、戦争でも起きなけりゃ」って皆思うだけど、早い話、北朝鮮のような、あの北朝鮮は皆、飢えに苦しんでるってな。餓死してる者もいっぱいいるってな。だけど、あれ、食料自給率5割だよな。日本よりいいだで。ただ、金がねえから買えねえだ。外国から。日本は自給率は低いけど、金があるもんで買えるだ。だから豊かに見えるだ。

だから必ずしも自給率が全部じゃねえんだけど、ただ、この長野県は七十何パーセントです。食料自給率は。海産物がねえだけで、ほとんどの食べ物は十分にあります。だから、出て行かなけりゃ食うには困らない。ただ、豊かな生活、って皆さん方が豊かをどう考えるか、だな。ただ食えて、家族が笑顔で暮らせればいい、って考えるか、外食したり、旅行に行ったりが毎日出来るようなリッチが豊かだって、それも豊かだだよ。それを望みゃあ、限りなく上に行っちゃうけど、まあ、どこら辺で考えるか。

AK だからさ、慎ちゃん、「農は国の基なり」って、でっかい声して言わなくちゃ駄目だわ。

荻原慎一郎 そうだよ。第一次産業をないがしろにする国は、必ず滅びてます。今までの歴史を見れば分かります。だから農業をないがしろに出来ない。なぜかって言うと第一次産業の人口が一番多いじゃない。戦う、ったって、農業の、みんな農家が戦ってるだから。

一番死んでるのが農家だから。このことを忘れちゃいけねえ。日本を支えて来た者も、産業を支えて来た者も、みんな農家だだわい。そういう思いを皆、今までずっとして来ただよ、俺よりも。それをあんた方の子供に、農業を支えろなんて、誰も言ってないじゃない。困ったもんだ。

AK 現金にならねえから、駄目なんだよ。

荻原慎一郎 じゃあ、皆さん方が家に帰ったら家族と相談してみ、俺ん家はいくらあれば生活して行けるか。たぶん、家計を見てるから分かると思うけど。生活費、って言われる、生産費はまた別だけど、生活費、衣食住で掛かる金って、一年間にいくらあればいいんだろう、っていうのを自分で懐で勘定してみ、これを余程の贅沢をしない限り、大なり小なり、似たくらい。どこの家も。毎日鰻丼食ってる家ある? たんとはねえから。毎日牛丼食ってる家ある? たんとはねえから。普通の漬け物と味噌汁で食べてるのが大半だから。そんなに変らねえだ。俺、今訊いてもよく分からねえけど、昔お袋に生活費ってどのくらい掛かるかって話をしただよ。そしたら「ちょっと待って」って家計簿見てたわ。去年のを見て、一昨年のを見て、「いくらだ」って言ったら、これが「いろいろだわ」って言って、夏休みの宿題かなんかだっただな、さんざん検討した結果、8万円。「8万円」って言ったら、たまげられたよ。あの当時の8万円はすごかっただよ。昭和35年頃の8万円。

今だから思うけど、俺ん家はリッチだったんじゃね。って思ったもん。その時にね、社会の先生が「皆さんの家で、今、農業で一町歩の田圃を作っている家はあるか」って、訊かれたの。で、俺は分からなかったの。それだから、手も挙げなかったの。ほとんどいなかったよ。で、親父に「田圃ってどのくらいあるだと」って訊いたら、「一町歩ある」って。それで蚕もやってただよ。人参もやってただよ。それじゃ、俺たちはリッチだっただ、って、だいぶ経ってから思っただけどな。だから、良くねえだけど、ただ、そういった時に親父も戦争から帰って来て、頑張ってそこまでもってっただなあ、良く分かるなあ、その努力は、って思うよ、俺は。今でも。親父とは冷戦状態で一緒の空気を吸うのも嫌、って言うくらい嫌だったから、親父の顔を見たくなくって、いたことがあったけど、今はただただ感謝だね。しょうがねえわなあ、親と子の仲だから。「百姓やれ」とも、「この馬鹿」とも言わなかったが、たぶん、お袋にはこぼしてたはず。お袋は切なかったと思うけど。そういうことをやっぱり話してみないと分からない。

 で、今皆さん方が農作業をやってる時に、生活費がどれくらいで、たまにに車にかけてえとか、家を直してえとか、電化製品を入れ替えてえとか、金が掛かることがあるけど、そういうものも含んだとして、年間にどのくらいの売上げと所得があればいいのかなって、計算してみれば分かる。それを農業であげるにはどのくらいの規模をやればいいか、っていうのを逆算すると、とても無理だ。っていう数字が出て来るから。必ず。俺なんか単純だから、米なんかやったって、すぐ分かる。この面積じゃ無理だわ。絶対分かる。だからそういう時に、親たちは子供たちに出て働けって言うんだよ。長男次男が働いてれば数百万は持って来る。そこに農業をちょっと足せば、皆食ってかれるでや、って。それが一番賢明だだ。

AK でも現金が入る前に、うんと元が掛かるに。

荻原慎一郎 そうなんです。投資が掛かっちゃう。家もそうだけど、長年かけて投資して来たものは、追加でやってやれるけど、「そうかい、そんなに儲かるなら俺もやるわい」って始めてみ、2年持たないな。考える方が馬鹿だね。それでやんねえ方がいい。さっきの茸やトマトと同じだよ。そうかい、一年に1億も3億もあがるだかい」って俺がやるか、って。5億も用意してみな。銀行でもどこでも貸してくれねえ、って。そういうことの積み上げだだよ。それを狙えばいいだよ。それを今の若い人に言うと、ITに走っちゃうだよ。ITでやると、一台で何千億も稼いじゃうだよ。大学生でもITを起業してさ、何億の売り上げなんてこと、やってるじゃん。それでみんな夢見ちゃうだよ。俺もやるかも知れねえ。パソコンを叩けば儲かるなんて、そんなもんじゃねえだ。あんな簡単なもんじゃねえだ。

 だからITだとか、ATだとかが、これからうんと普及する農業も出て来ます。それは我々が次世代の農業になって来てるから。このことを理解出来る者でなきゃ、農業すら出来ない。絶対に。そういう次代が、もうすぐそこまで来てます。汗かいて働いていた農業、かまける農業、農業って書いてる、あの農業の時代はもう、終わります。これからは、脳みその脳です。脳の業です。その脳の業の中にはITしかり、コンピューターしかり。このことをちゃんと解けなかったら、出来なくなる。間違いなく出来なくなる。パソコンは農機具だって、俺は言ってるだ。家も今、ネットで売ってるよ。ネットの売り上げ、すごいよ。ものすごい売り上げがあるよ。ネットを上手に使えるか使えないかでね、導入した以上の効果がある。初めてネットを始めた時はね、100万稼ぐのにこんな無駄なことを、ってうんと思ったけど、今はとんでもねえ。あれは家のコンバインやトラクターの何台にも勝る。数十万のパソコンが。あれに勝る農機具はない。ものも言わんで、手で働くから。燃料もいらないんだから。あれはいいよ。あれを駆使出来る人間はまさしく脳業。

NJ それをやってる人は、いるんだね。

荻原慎一郎 いるだ。それで、そのことを今、テレビでも最近の農業のことをやってるけど、IT農業、AT農業、って、うんと言い出してる。家も若干ずつ取っ付いてる。家も何カ所、全部の耕作面積の中で田圃は10箇所くらい、あれが付いてるの。発信器を付けてね。水温と水位を皆、常時コンピューターに入ってる。どこの田圃がどのくらい水が減ってるとか、水温がどのくらいになってるかって、家の所に報告するように機械が皆、立ってるわい。何て機械だか忘れちゃったけど。それがあります。

AK 儂が慎ちゃんに用があって電話掛けたら、今田圃に見に行ってるっていうからさ、八丁田にでも来てるのかと思ったら、どこか、あっちの坂城の方かい。

荻原慎一郎 ああ、時々、とんでもない方へ行くからな。だから、そういう時代で、トラクターやコンバインも無人化なんて言われてるでしょ。それは実用化されつつあるから。ただ、それはもう、知ってるけどね。乗ったら運転席が分からんだ。「なんだ、これは」「こういう設定をして、こういうふうにすれば動くだ」って言われても、それが分からんだ。「ハンドル持って、アクセル踏めば動くでや」って、逆さまには動くけど。設定をして、補助用のGPSを使って圃場の記録と設定をして、それでスタート地点を決めて、付けてる作業機と内容をインプットして、それでスタート、って。そうすると黙って回って帰ってくるだ。何もしなくも。そんなことは分かるだ、実は。でも、操作が出来ない。「なんだ、これ」ってな。それから、そんなすごいコンバインはないけど、家にあるコンバインでは、稲刈りをして、田圃に行って入るでしょ、こうやって。こう刈ってくでしょ。一回りくらいするとね、この田圃の食実(?)と収量が分かるだ。コンバインで刈ってくと、分かるだよ。2メーター20と半で、ずーっと何メートル刈ったっていうのが、それで面積が出ちゃう。すると背中に背負った籾の重さが分かるから。歩留りと水分を計算して、食実どのくらい、収量は何百キロ、って出ちゃう。「えっ、これは穫れねえな、今年は」。まだ終わってないのに、出ちゃってるだよ。「やっぱり足りなかったんだな、追肥が」なんて、そのデータを事務所のコンピューターに送ることも可能。だから、一枚一枚刈り入れしながらデータが全部取れる。読める。っていう機能は付いてます。ま、使うことはないけど。時々やってみるけどね。

AK 慎ちゃんとまさひろちゃんが対談した時さ、これからの農業青年はハーバード大学を出てなくちゃ駄目だ、って。(笑い)

荻原慎一郎 俺はただ、そんな優秀な者を育てられたら困るだよ。でもね、ハーバードでもケンブリッジでもいいけどね、そんなとこを出たものは何も百姓やらなくても給料取れるだわい。そんなのは俺は出れねえから。

 それがね、今の話、コンバインでも、消毒もそうだよ。無人のヘリコプター、頼んで大豆の消毒をしてたじゃない。自分じゃ竿持って歩けないし、トラクターで10メートル幅でやってけるズームスプレーもあるだよ、だけども、そんなものじゃ間に合わないだよ。面積が広くなると。これは空からでないと間に合わない。それで下を歩く者は雨降りゃ入れないだず。空飛ぶものは雨が上がれば飛んで歩けるでや。だから、あれしかねえ。それでヘリコプターを頼んだのよ。そしたら毎年40万も取られちゃう。一回消毒するのに。これは馬鹿馬鹿しいけど、自分でやるよりゃ安いか、ってな。思ってた。そうしたら、いいのが出て来てな。今はドローンだよ。やっと昨日の新聞で、JAの佐久浅間が相馬商事に委託して消毒を始めるから、来年から試験的にやってみる、って。俺は去年からやってるだよ。自分でドローンを買っただよ。200万だよ。それで、あのドローンは業務用のドローンだから、電波法に引っかかるから資格がいるだ。免許がいるだ。それも全部、3人に取らして、それも東京に泊まり込みで行ってな。勉強させて、45万も掛かった。

KA お金がずいぶん掛かりますね。

荻原慎一郎 皆、借金だな。もう八十二銀行と親戚だから。(笑い)農協と八十二銀行、行ったり来たりで、もう、すごいだ。もう死ぬ時は一緒だわな。

司会 なかなか良い時間になって、このままずっと聞いていたいんですが、

荻原慎一郎 また、第二部にしましょう。

司会 今度は飲みながらで。

荻原慎一郎 ああ、いいよ。

司会 せっかくなんで、感想を皆さん一言ずつ頂けたらと思います。お話しを頂いたので、感想をぜひね、お返ししたいなと思います。僕はお話しを聞いていて、やっぱり人の出会う場所が必要だよ、って言って頂いて、そういうふうな場所をつくっていく、ってすごく大切だなと再認識しました。そうすると若くいられるということで。本当に皆さんと話をしてね、やっぱりその中でいろいろああいうふうにして行きたいな、こういうふうにして行きたいなということが、イメージで動き出せば、皆さんもまた、さらに若くなっていくんじゃないかな、と思います。そんなお言葉を頂いて、嬉しかったです。

AK 私はさ、まる屋さんがさ、こういう会をさ、開いてくれたってことが、それがすごいと、いつも考えてるの。常連になっちゃった。

司会 ありがとうございました。では感想を

TY 私は二つ、感じたことがあって、皆、働く姿が美しい、っていう感性っていうのと、その、工場みたいでないと生計が立てられない、というのを、どういうふうに人間らしく、楽しく、生計も立てて、人のつながりも根付いて、っていう、そういうことを荻原さんのような知恵のある方に一緒に考えて頂けたら、この村は本当に皆が困らないで、楽しく生きられるのではないかと思いました。よろしくお願いいたします。

荻原慎一郎 よろしくお願いされても困るけど、確かにそうだだわい。人間てね、生まれ持った性だけど、絶対に欲があるだわい。隣の家が500万取ったら、俺ん家は600万取りたい、800万取ったらこっちは1000万取りたいとか、欲があるだ。欲があるから人類は発展しただ。開発もしたし、豊かにもなっただ。欲って奴は上限がないだよ。無制限だで。それをね、自分で自分に満足するレベルを課さないと駄目だね。これでいいという。それが出来ないと、どこまでも走る。成功するものもいるよ。成功したのを見ると、なんで俺はやらなかっただ、って思う。

NJ 人ってそれで病気になっちゃったら、成功したとは言えないよね。

荻原慎一郎 言わねえ、言わねえ。だから、楽しい我が家じゃないけれども、金はねえけれども、見ろ、この家族。面白い連中がいっぱいいるわ、って、それで豊じゃん。と、考えられるような心の広さを持たないと、豊かさって絶対にない。ベンツに乗って、海外旅行に行ってるけれども、日がな皆でカリカリしてるようなの、いるよ。

NJ だから、人からどう見えるか、っていうよりも、自分がそこにいてどうか、ってことが大事なんだ、ってことだよね。

荻原慎一郎 そうだよ、世間体じゃなくてな。気にしない。でもね、そういう神様のような生き方はなかなか出来ねえで。俺も頑張りてえ、って欲があるから、それはあってもいいけど、必要以上のことをね、病むほど、しなくてもいい。病んでも耐えられる人は耐えればいい。(笑い)病んだら死んじゃう人は病まねえ方がいい。

NJ 病んでから気がついても遅い、ってことになる。

荻原慎一郎 そういうことです。

NJ 家はいつも柿を余らせているんだけど、ネットで売れば儲かるかな。

荻原慎一郎 儲かるよ。(笑い)

司会 烏がそれがないと泣きますね。

NJ それだけです。

司会 次に、感想を。

YM ひたすらびっくりして、なんか、かけ離れたとこの。荻原慎一郎さんはやっぱり金持ちだなあ、って。

荻原慎一郎 金はねえ、って。金は人の金を使えるのが一番の金持ちなんだよ。手持ちの金を使えるなんてのは、誰でも出来るだよ。百姓って面白いよね。手持ちの金を使えねえ人もいるだよ。金は使わなきゃ紙くずだよ。使ってものにするから豊かになるだよ。通帳覗いて喜んでるようじゃ駄目だよ。

YM 太っ腹で思い切りがいいというかね、ちょっと普通じゃ出来ない。

荻原慎一郎 明日のことは分からねえだけ。その場しのぎのことだけやってるだ。(笑い)

YM 分かりました。はい。

SM まだ慎一郎さんの1パーセントを今日、聞かせてもらいました。残り99パーセントが分かれば。また、こういう小ちゃいコミュニティーをつくって、重ねていくようなね、そういうことが出来たらと。ありがとうございました。

TM 初めてお会いして、初めて面白いお話しを聞かせて頂いて。

荻原慎一郎 会ったことはあるけど、話したことはないわな。

TM 会ってますか。

荻原慎一郎 会ってるよ。あそこの下の田圃は、俺が全部つくってるんだよ。

TM ああ、そうでしたか。通ってるんですね。

荻原慎一郎 そう、通ってる。今度、お話しします。

TM 是非、色々人生に参考になります。またお会いして、 お話しを伺いたいです。

荻原慎一郎 そんな、大それたもんじゃないけど。はい。

TM 青年の船の話が、とても面白かったです。そういう出逢いっていうのは楽しいな、と思います。

NJ あの船は見合い船、って言われてたんだよ。私の友達も乗ってたんだ。

KA  農業では立ち行かないってことで、やっぱり子供にも、脳を鍛えることを教えないと。

荻原慎一郎 脳を鍛えると親から離れていく傾向があるだよ。というより、親が引いちうだよ。そうすりゃ寂しくなるからな。だからある程度、馬鹿な子がいいぞ。あまり利口にすると、親が寂しい。

KA  あんまり利口な子は皆東京とかに行っちゃって、今は夫婦二人して、腰が痛くて百姓は続かない。で、草だらけになっちゃう。

荻原慎一郎 その通り。

KA  息子3人もいて、一人は置いとくような息子をつくっとけば良かった、って。いい息子が3人もいて。なんで子供を生んだのかなと思っちゃいます。

YM  子供に面倒を見てもらっている立場で何も言えないので、そっと生きて行きます。(笑い)

OH 私は一番、地域のために、北御牧のために、って、ここに子供が残って、子孫を残してくれる、ってことに、私が26で結婚した年齢に、子供にそのことを一生懸命伝えて来たんだけど、それが未だかつて、今も、叶えられてないということが、とても残念です。今の話を聞いて、それも一つありました。それともう一つは、私も青年の船に乗りたかったということ。ありがとうございました。以上です。

YA 家は女が二人なんですけれども、二女が今家から通っているので、二女をなんとか家に引き止めようと、相当努力してます。(笑い)慎一郎さんのお話しを聞いて、さらに一生懸命考えよう、って思います。地域に貢献出来るようなことが出来れば、私の親としての役目はいいかな、って思います。ありがとうございました。

AK 二人女の子じゃ、養子だな。(笑い)

YA それは誰でもいいんです。養子でも何でも、来てくれさえすれば。

荻原慎一郎 地域の子供たちに、ってさ、区もそうだけど、役職や係があるだよ。ああいうの、だいたい順番が来ても、自分は、俺は出来ない、俺は出来ない、誰かに回してくんねえ、俺、忙しくて駄目だ、ってなんか言い訳して、皆逃げるだよ。あれは絶対に止めた方がいい。年取ってくれば来れば来るほど、どんどん受けてっちゃう。どんどん受けると、不思議なほど、自分が若くなる。やらなきゃいけないっていう外的な要素があると、人間て、プライドがあるもんで、やるだよ。そうしないと情報が入って来なくて、面白くない。拒んじゃだめ。若い頃からそれをやってると、どんどんと、子供がね、出たがり、って言われてもなんでも構わないから、どんどん出るとね、どんどん、変ってく。それをね、「おめえ、よせ、そんな得にもならねえことを、この忙しいのにまた会社でなんて言われる」なんて、余分なことを言うから、この引っ込み思案になる。「やれやれ、めちゃやれ」って言えば、やります。

 これは長男が中学の時に2年の時かい、生徒会長選ぶのにな、家に帰って来て、「生徒会長に立候補しろ,って言われてるだけど、俺は嫌だ」って言うから、「嫌だ、っておめえ、考えてみろ、生徒会長は生徒の中で一人だぞ。おめえ、一人って今逃したら出来ないじゃん。やりゃいいじゃん、面白えじゃん」て、そそのかしただ。そしたら次の日にやるって言って、選挙やって通っちゃってさ、それで生徒会長やっただよ。そしたらな、それが卒業式の時に俺もその時来賓で行ってたから、議員やら集まって、それで、在校生の謝辞があるだよ。あ、答辞か。卒業生だから。生徒会長挨拶、って出て、親として聞いてた。挨拶の一言の中にな、僕は農業をやる。将来、北御牧の農業をやりたい、って、言っただよ。それまでは全然、俺はまだ、少しはやってたけど、専業農家でやってくなんて言ったから、また、こいつ本気か、このボケが、って思ったけど、やつはそれ、今、実践してるというか、その方向に走ってるから、俺は何も口は出さないけどね、あのね、そういうことなの。

 二番目の野郎は生徒会長やる、って立候補したの。そしたら「落ちちゃった、俺」って、なんてな。それでも剣道は命でやってたから、高校卒業するまで、一人で単身で、松本に行っただけど、俺も、親も気楽でな、4月の3日が入学式だよ。3月の30日にオリエンテーションてい言って、父母を呼んで、説明会があるだよ。それで俺も一緒に高校へ行って、これがその高校か、ってことで、話を聞いただ。その後担任の先生に会って、「実は先生、俺の子供は泊まる所がないのでどっか心配してくれや」って言ったら、「うちの学校では一切やってません」て。だって3日ばかりで入学式で、住むとこも何もないだよ、子供は。「どうするだ」家には帰れねえ。それから女房と二人で不動産屋を飛んで歩いてさ、どっかにアパートはねえか、って探して、高くもなんでもいい、とにかく高校生が自炊するんだから、あんまりあばら屋でもいけねえ、って、まあ見っけてさ、学校から自転車で15分くらいのとこ、見っけて、家帰るなり、今度は電気屋だわい。家財道具を、みんな買ってやっただわい。電気器具は冷蔵庫から洗濯機からみんな、もう嫁入り道具だぞ。後は毎週なんか買い集めればいい、って俺は一月くらい毎日通っただよ。

 それが二番目で、自炊もしたことねえし、自分で何もやったことないだから、その野郎が、15の時に自炊を始めただ。初めて、こともあろうに、その高校で、剣道部をやるってわけでな、行ったもんで、入学式の時に道具の入ったでっけえ袋な、あれを竹刀に通して、それで入学式に行っちゃっただよ。そしたら学校中に「あれは何者だ」って、目付けられちゃって、それでも応援団、それで3年の時には応援団長、こういう学ランのやつ、裏が真っ赤な刺繍のあるやつ、あれ着て応援団長。まんず、面白かったず。それで、15で行って、自炊も出来ないのになどうやって暮らしてるか、俺、心配になっちゃって、女房なんか、仕事が終わってから、毎日松本に行ってたわ。俺もつき合って運転して行っただけどさ、毎日、通ったわい。食いもん作っちゃ、これで3日くらい保つかな、なんてな。そのうちに「もう、来なくてもいいわ」って言うようになって、「大変だから、来なくていい」って。それでもドライブがてら来るだわ、って言ったが、俺は帰りは眠たくって、死にそうだったわ。それで通ってな、そしたら、良くしたもんだで、先生に「一人暮らしでごったくだから、時々行って頭の一つも叩いてやってくれや」って頼んでおいただ。そしたら暫くしたら、野郎から電話があって、「俺は先生に寿司をおごってもらったわい」なんて言ったりな、それから「今日、先生の家に行って来た」なんて、「そして飯食わしてもらった」なんて言うから、「なんで先生の所に」って、「悪かったね、申し訳なかったね」謝ってお礼言ってさ、そしたらね、自分でバイトを見つけて、総菜屋かなんかだな、余りもんが出たらみんなもらって、それで家に持って来て、それで食いつないで、3ヶ月もしたら「ラーメンはな、このラーメンとこのスープを混ぜると美味い。俺はラーメンは全部食ってみた。こういうふうにやると美味いわ」ってな、だから、料理は全部出来る。今でも。早くて美味いだ。女房よりも上手いわ。嫁さんもいるだけどさ、全然食いもんの心配してない。家に来ても、食いもんあっても「いい、いい、自分でやるからいい」って自分であるもんで作って食ってる。大したもんだなあ。俺はさっぱりだけど、すごい。だから、ほっとくがいいで。

AK 良く育てたね。たけちゃんはじゃがいものお焼きが好きだっけな。

荻原慎一郎 そうだったな。それが今、家の農場長。で、専務って立場で、それで農場の連中を束ねて、一年中の作業計画や資材の購入も、みんなやってるだ。俺はさっぱり分からない。

AK 昔はさ、政伊ちゃんが、あれ、小学校の時かい、県の作文のコンクールで賞を取った時、大きくなったら社長をやる、っつうことだったな。中学校の時、小学校の時から、帰って来たら鞄をおいてすぐ、田圃に行っただよ。感動しただよ、私。

荻原慎一郎 今日は話さなかったけどな、ああなったのは、一つの原因はね、俺が40の時に、手を取ったからだよ。怪我したから。これで、あの家の女房も働く夫人のコンクールかなんかで入賞してるし、中学生の部でも入賞するし、みんな人に関して書いて取ってたけどさ。怪我したときの話をすると、面白い話が山ほどあるけど、また後日、第二部。

司会 一時間以上、掛かるんですね。

荻原慎一郎 掛かる、掛かる。

司会 今日は本当に、ありがとうございました。

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