第9回知恵蔵の時間 荒井良勝さん

知恵蔵の時間 第9回  講話 荒井良勝さん              

「地域の伝説について」     

2019年6月9日  14時~    

於 まる屋 司会 小林恭介  撮影 橘正人

司会 本年度二回目の知恵蔵の時間、お集り頂きましてどうも有難うございます。今日は荒井良勝さんの八重原の伝説。いや、僕はすごく楽しみでした。やっぱりこの地域の伝説を知るということは、たぶんこの地域に暮らしている中で、ここがどうやって出来て来たのかな、ということを知ることになるのかなと、すごく思っていましたので、たぶん話を聞いたらそこに置いてある石とか、どっかの社とかに意味があるんだろうな、ってことが、まだ分かってないんですけど、そいうことを知ることが出来るのかな、というふうに思っています。何度もこの知恵蔵の時間に来て頂いている方も多いかと思いますが、ここはやはり和気あいあいとした会ですし、荒井さんがお話をしてくれるんですけれども、ぜひ皆さんからも「これはどういうこと?」とか「これって、こういう話?」とか言って頂きながら、お話が往ったり来たり、相互に進んでいくと楽しいので、自己紹介をかねて一言ずつ、今日はどんなことを楽しみにして来ているか教えて頂けると有り難いです。私は小林恭介といいます。よろしくお願いいたします。

TY TYと申します。お話を伺って、出来る限り記録に残させて頂きたいと願っております。よろしくお願いいたします。

SW 中八重原のSWです。お世話になります。(笑い)実は俺、荒井さんとは本当に親しい仲で、荒井さん家に行くことがあって、そうするとね、荒井さん家の本は何万円もするような本ばっかし。ほんと。俺は安いね、千円以下の、場合によっては古本屋でさ、大屋にも小諸にもあるけど、案外歴史の本も安く買える。そんなことで人生も安上がりでいってます。

AK 中八重原のAKですが、ここがある毎に来て、もう興味津々。八重原の歴史っていうか、そういうことに興味があるもんでね,楽しみに来ました。

YM 中八重原のYMです。私も頭がぼーっとして、あまり覚えられないけど、歴史は好きなもので、荒井さんと歴史の散策で三年ばかり一緒に行きました。行ってみないと、あまり思い出さないこともありますけど。こんな偉い方と一緒でいいのかな、って思いながら来ました。

YA 中八重原のYAと申します。長年住んではいても、あまり八重原のことは分からなくて、今日は誘って頂いて、大いに勉強していきたいと思います。

OT 田楽のOTと申します。ここにはちょっと載ってなかったみたいなんですけど、登り窯の所もお話して貰えればな、と。

KM ここの?

OT これはどこかにあったのをね、左岸道路ってのか、そこにあったんだってね。

AK それを移しただよ。公園を造る時に。

荒井良勝 ついでにその話もしようでないかい。

KN 芸術むら区のKNと申します。大変有意義な講座を開いて頂きまして、感謝してます。荒井良勝先生、と、私は申し上げているんです。ここに来て、古文書の関係も荒井先生に教えてもらってます。たぶん歴史的なことは結構、勉強させてもらっていると思うんですが。八重原用水のことなんかも大体、把握しましたし、荒井先生にくっ付いてって、ああ、ここに八重原土地改良区の方もおられますけれども、源泉まで、今もお陰様で小学生も一緒に連れて行って説明出来るほど、こういう内容も全部荒井先生から教えて頂いて、というくらい八重原が好きになってます。素晴らしいです。これが私の家内なんですけれども。

KJ    KJといいます。よろしくお願いします。話を聞いているととても面白そうなので、付いて来ました。

IM 中八重原のIです。すぐそこに、ほとんど毎日出勤してます。是非またお立ち寄りください。

司会 ほとんど目の前のとこですね。

IM 待ってるから。よろしくお願いします。

KM 上八重原の金井といいます。先ほど青木さん達にお声を掛けて頂きまして、馳せ参じて参りました。楽しみにして参りました。よろしくお願いいたします。

YS 下八重原のYSですけれども。今日は地元八重原の歴史が聞けるということで、楽しみにして来ました。今ね,芸術むらのKさんですか、自分、地元の下八重原のこと、「伝説」ったって全然知らないんで、歴史から何から勉強してて、自分より詳しいなあ、って恥ずかしいような思いで。今日はよろしくお願いします。

司会 では荒井さん、自己紹介もかねて、あと何でこんなことに興味を持ったのかとかね、歴史とかね,その辺りから初めて頂いて。よろしいですか。

荒井良勝 皆さんに改めてこんにちは。大勢の皆さんに寄って頂いてどうも恐縮をしております。この間、二回くらい前のことかなあ、もう。関和一さんが来て話をしてくれた時に、「ちょっと次、やってくんないか」と、こっちの方から言われたもんだから、何を話したらいいか考えてたんだけど、この題にあるように八重原に残されている伝説の話をするか、ということで、やることにしました。私は先ほど司会者の方から言われた、興味を持ったというのは、北御牧村が出来たのは明治22年、4月1日から村が出来たわけですが、それから数えて100年目に当たる、ってことで、平成元年でしたな、その時に村誌を作ろうという話が、あの当時は柳沢代重さんが村長さんかな、そんなことで、その村誌を作る時に調査員みたいなことをして、調査して歩いた経験がありまして、その時に村誌を作るには、ちょっとは八重原に、北御牧に残されている古文書も、ちょっとは読めなきゃいけないんじゃないかと。こういうことで、村の方で用意してくれた古文書の先生、あれは高校の先生だったかな、山辺の保科ノブチカって先生がいて、あれ、2、3年続けてやってたのかな。それで古文書の勉強をした訳ですが、なかなか古文書っていうのは、すぐさま1年2年では駄目なんだな。覚えられない。何年もかけてやってなきゃ分からないものだ。そんなことが興味を持った、ってことになるのかな。村誌を作ることに携わったということが、な。私も持っている資料を提供したり、いろいろしてたもんだから。そんなことで興味を持って今日に至っている訳です。

 それで、今日の話はこの題にあるように、八重原の地域にある伝説がある訳ですが、実はこういう本があるんですよ。これは佐久孝子?伝説集というね、これは昭和7年に発行された本で、この中に北佐久郡だから、北佐久の伝説がみな書いてある訳です。その中から選んで、八重原関係だけ拾いあげたやつをコピーしてみました。そんなことでね、だからこれ、えれえ前のもんだよな。88年も前のもんですよ。だからこれ、北佐久教育会っていうところがね、そこで学校の先生達が各地域を回って、年取った人達からいろんな地域に残された伝説を聞き取って本にしたものです。それをちょっとまあ、用意した訳です。 

 それから、その資料の裏にあるように、これは前に出した、関和一さんに委員長でやってもらった北御牧地区活性化研究委員会というところの出した本で、その時にもまあ、関さんに委員長をやってもらって、この本をまとめた訳です。それぞれ資料を、書きな、なんて言われていろいろ文献を漁っちゃあ、文章をまとめたんですが、この中からもちょっと、先ほどの登り窯もみんな載ってるから、その話もすればいいと思ってます。

 まあ、そんなことで、始めたいと思います。私は昭和16年の生まれで、今年78歳になっちゃったよな。(笑い)今思い出すと、この間小山治さんが来て話をしてくれたよね。それと河合さんでしたか。この芸術むら公園が出来るまでの話をしてくれたんですが、私が今、話をしたいと思っている話はなかったから、ちょっと付け加えるようにしたいと思います。

 昭和16年というと、ちょうど太平洋戦争が始まった年だよね。12月8日という日に真珠湾攻撃、アメリカと戦闘に入れりというラジオ放送があったと思うけど、太平洋戦争が始まりました。それが4年くらい続けたんだよね。最終的には広島、長崎の原爆があって、それで終戦になっちゃった訳だけど、その前、昭和20年の年に、終戦の年なんですが、本土決戦というようなことになって来てる訳でしょ、日本の国では。沖縄で地元の人がやって、それでも今度は本土決戦になるわけだ。そうすると今まで東京の方にあった大本営っていうだよな、あれ。青木さん達は良く知っていると思うけど、大本営だとか、そういうものが全部長野県に移る訳だ。皇居もこっちに移るんだよな。松本に地下室があったよね。松代のね、地下壕の中にさ、天皇陛下の住む所が造ってあったよ。俺、見に行ったもの。そういう時代でした。神奈川県のね、座間っていう所に陸軍士官学校ってのがあったんです。陸軍士官というのは大将ってのか、指導者みたいな者で、そういう人達を育成する場所でしょう。そこで、その部隊がそっくりこの辺の川西地方に来た訳です。こういう本を取ってるんだけどさ、この中を見ると、そのことを調べてくれて書いた人がいる。陸軍士官学校が疎開して、川西地区に来たんです。本隊というのは今の望月高校へ来ました。いろいろの部隊があるんだよね、これを見ると。経理部とかなんとか、それが望月高校へ来て、征討隊?本部というのが、望月中学校。歩兵部隊とかってのが、春日だとかキョウワだとか、南牧国民学校に来ました。

 それから砲兵隊、砲兵部って言ったかな,ヨコトリの国民学校。それから通信部って言ったかな。タチナワ?農学校。今のタチナワ高校だよな。それからシチョウ兵、それはアシザワ国民学校。それから材料なんていうのかな、これがモトマキ国民学校ってのか、望月だよね。あと軍医の、お医者さんの関係が川西病院、今の赤十字の病院だね。その中で馬の部隊、馬術部隊てのがあって、それがここに来ました。北御牧の国民学校。分教場へ寝泊まりをして、来ました。それで今でもあそこに明神様っていうか、諏訪神社のとこにちょっと掘ったとこがあるでしょう。今でもあるよね、知ってるよね。誰も知らないじゃいけないと思ってね、俺、副市長に言ってさ、何か書いて立てときな、って。これは今、立ってると思うけどさ。今、分かっているのが四つくらいあるんだよな。あれは馬の壕って、馬を隠すっていうか、なんか、そういうとこらしいんだよな。各小学校から壕を掘りに小学校5、6年生くらいの者を、みな来てやったらしいよ。いや、俺は知らないんだよ。

YM 小学生が来たって、誰か教えてくれたよ。

荒井良勝 そうでしょう。

AK 焼き肉やってる中もそうでしょう。

荒井良勝 そうだよ。

AK 立て札が小さすぎて駄目だね。「もっと大きくはっきりしたのを立てろ」って言ってね。

荒井良勝 そういうことでね、「何の穴を掘ったんだか分からないから、分かるように書きな」って、田丸に言ってさ。それで言って書いて貰って今は。

AK 看板は大きくなくっちゃ駄目だよ。

荒井良勝 ちょっと小さいな、あれじゃあ。(笑い)それで、全部で、村誌を調べてみたんだ、この中を見ると北御牧に来たのが、馬が何頭って書いてあるでしょう。馬が200頭、ここへ来ました。それで兵隊が50人、って書いてあるよ。それから下士官級って書いてあるのが、要するに指導員ってことだね、それが50人。それだけ来て、今の分教場に寝泊まりをして、それで指導者みたいな人は田丸テツオさんとこに泊まったとか、そういう話があるんだよ。依田カズオさんとことかさ。そういうことを聞いてるけどね。それで8月15日かい、戦争が終わっちゃったよな。それで田中の駅にみんな集結してな、引き揚げたらしいんだけど、その時にもう馬なんていらないよね。払い下げしてもらって、一頭2、300円で、買った人がいっぱいいるんだよ。八重原にさ。それは農耕馬として買ったかどうだかは、俺は知らないけど、そういう話がある。そんなことでね、誰もそんな細かいことは知らないと思うから、俺が今、話をするんだけどね。

AK その時のさ、連隊長っていうか、隊長の人の名前は何と言ったかね。

荒井良勝 俺はよく知らないんだ、そんなことまでは。

AK 橋本中佐、って言わなかったかな。

荒井良勝 なんかそんなことを言ってる人はいるけどな。

KM 聞いたことあるな。

AK そのさ、家族が春日のさ、私の実家の上の家の蚕室に来ていただよ。それで上等兵か、鬼の軍曹がさ、みな来て、その蚕室をリフォームしてさ、住めるようにして。その橋本中佐がさ、馬に乗っちゃあ来るだに。

荒井良勝 だから馬が今、200頭って言ったけど、それがたまに逃げ出したりしてさ、そこらに作ってある豆でも何でも喰いに来るんだよな。俺が5歳か、そんな頃だな。俺たちの畑に来る訳だ。がんがん降りて来て、豆なんか喰ってる訳だ。それで俺たちのお袋、かんからなんか叩いて追い払ってたよ。そういうことがあったよ。俺は覚えているもの。一斗缶なんかガンガン叩いて、馬を追い出してた。

OT その橋本中佐か。望月高校の現在の校長先生が使っている机があるんだってね。

荒井良勝 あるだ、あるだ。ここに写真がちゃんと載っかってるよ。

AK そのさ、総領娘が橋本すみ子さんといって、私とうんと仲が良かったんだよ。春日の小学校で。

荒井良勝 そこに来てるのを合わせりゃ、何百人、って来てるんだよな。ここに残されてた写真に写ってたよ。荻原さんの言ってた机、校長が今でも使ってるらしいでよ。

OT そこの八重原用水のとこだけど、そこの保存会で、太鼓ね、この音を聴いて奮起せよ、ってね。書いてありますよね。

荒井良勝 士官学校の太鼓が残されている、ってごろうさんは知ってると思うけど。それに大砲の弾が残ってました。

OT 今もあるかい?

YM 諏訪神社にあるよ。

荒井良勝 どっかにあるよ。そこ(諏訪神社)にあるだ? そう、大砲の弾がある。だから戦争の終わった頃、そういう状態であった訳だ、現実に。陸軍士官学校がそこに来てな、そういう事実は、細かいことは誰も知らないんだけどさ,実際にそういうことがあった訳だ。

AK 一人さ、その、相当上の位の人が、望月の料亭の養子に入って、もう亡くなっちゃってるけど。実家の上の家だって、福島のさ、上等兵の人が養子に入ったよ、終戦後。

荒井良勝 へえ、そうなのか。で、えーと、それからこの本文に入りたいと思います。1ページの所のね,46番。公卿落人の祠、その運動場の傍にあるんです。そこに八重原グランド造ってもらったでしょ。この写真がそうだよ。ちょっと見て。その祠の写真だよ。ちょっとこの文章読んでいくけどね。

46、公卿落人の祠

北御牧村字下八重原高山に前藤原兼印魂(正面)元文四歳(一七三九)巳末正月五日(左側)と刻せる石碑がある。これには次のような話がある。むかし上八重原の尾山氏の家に寄食して、死んだという高貴の公卿があった。貴いお方であったから、最も高い山に祠を建て祭ったのだそうだ。そのとき公卿様の持参した笏の箱入りになったものがいま尾山氏宅にあって、むかしから、おこりのまじないに霊験があって、遠近の人人が借りてお守りにしたということだ。むかしから蓋を開けると眼がつぶれると言い伝えて、いまだ開けたことはないそうだ。(尾山範雄)

 この高山って所はグランドになるんだよね。兼印と書いてあるが、これは字を彫ってあるのを見たらさ、兼珠じゃないかと思うんだよね。正面にそういうふうに書いてあります。笏っていうのは、神主さんなんかが持ってる笏、長っ細いこんなふうな物。

AK (手で形をなぞってみせて)こういうふうな物かい?

荒井良勝 そう、そういうふうな物。(笑い)今、神主さんなんかが持ってるんじゃない?拝むときはこうやって。笏の入った箱が尾山の家にあったってわけだ。おこりのまじない、このおこりって何だっていうと、聞いてみるとマラリアかなんかの流行、マラリアって書いてあったよ。

一同 へーっ。

荒井良勝 たぶん、そうだと思ったがな。マラリアが流行った時にまじないをするんだな。ここに書いてあった。マラリアのこと。そういうことでした。お守りにした、って書いてある。今でも見たことはないけどさ。尾山さん家は、あの白倉さんの裏にお堂があるんだよね。場所、知ってるかね。丸窓の家の少し上の所にあって、それが尾山さんたちの。毎年お祭りをやってるらしいよ。そこにある、って俺は聞いてるけどね。なんでそんな人が、京都だよね、お公家さんだもの。京都の人がなんで八重原に来たか、ってことになるんだけど、尾山さんの先祖はお医者さんです。一番最後の何ページだかに資料を付けといたんだけどね。NO.10の所を出してみて下さい。これは古文書です。

(実際には縦書き)

  差上ヶ申一札之事

一 休閑と申仁八重原新田へ御出シ被下候

少も鳥乱成者ニテ無御座候自然六ヶ敷

義御座候共我等罷出急度埒明可申候

其上所ニテ構無御座候於い自今以後不

届成義申上候ハバ不寄何時御払被成共

少も御恨存間敷候 イ乃(これで一文字) 如件     

     大日向村庄や

承応元年辰壬拾月廿八日

        小須田新左エ門㊞

此両人ハ割印  黒沢長右エ門㊞

        海瀬与兵衛㊞

        小須田善右エ門㊞

        尾山休閑

両御代官様

 こういう古文書がね,八重原用水の物語という本を作った人からもらったものを俺、解読してパソコンで打ち直したものです。北御牧村誌を作るときは、大日向から来たって書いてあるから、あそこから来た人じゃないかと書いてある訳だ。こういうのを見ると、そうじゃないな、大日向に小須田とか、海瀬とか、って名字はないでしょう。これを見ると今、さかんに市立の小学校を建てるとか、やってるじゃない、載ってるじゃない、たまに。佐久穂町です。もう授業をやってるらしいね。

司会 ええ、この4月から。

荒井良勝 宗江寺の地蔵寺ってお寺がある、昔、そこに開拓に、満州に行って引き揚げて来た人達が、大日向村とか言ってるじゃない、そこに天皇陛下なんかが来て、どうのこうの、って。そこの、元の所だね。そこに小須田って名字がいっぱいあるんだけどさ。そこから来た、ってことが分かるんだよね、これを見ると。休閑というのが尾山さんの名前です。尾山休閑と申す仁について、何かあったら我等が埒を明けるとか書いてある。承応元年、って千六百年の、どのくらいになるかな。その頃に八重原に来たいと、申し出ている訳だ。小須田新左エ門、黒沢長右エ門、海瀬与兵衛、小須田善右エ門、最後に自分の名前。両代官様、ってどこの代官だか、おれはよく知らないけど。そこに出して一応許可をもらった、ってことだよな。それで八重原に来ているわけだ。南佐久の大日向から。これを見ると分かる訳だ。

OT 尾山休閑さん、って尾山一郎?さんのお宅ですか?

荒井良勝 そうそう。

OT あれ、今は新しい家だけれども、2、30年前まで茅葺きの家だったね。いつ壊れてもおかしくないような。

荒井良勝 建て直したよね。

OT そのまま残ってたのかな。

荒井良勝 あれが本家の家でしょう。

AK あの門のところ。

荒井良勝 あれは違う。あれは尾山ゆうがく、っていう、絵を描いた家の。尾山たかしさんのとこだ。

OT 蝦蟇(の彫刻)があったよな。

荒井良勝 それはまた違うよ。ああ、蝦蟇は尾山すけおさんのとこにあるんだよな。そんなことでね、話を続けると、さっきお医者様、って言ったけど、京都に行って医者の修行をした、ってことが分かるんだよね。それだからさっきのお公家さん。お公家さんとも何か繋がりがあった訳でしょう。尾山さんがこっちに来てるのを、訪ねて来たかなんかだと思うんだよな。先の藤原なんとか、って、どのくらいの人だか知らねえけど、位が高い人だからってことで高山に葬ったってことで、祠を建ててお祭りした、ってことだ。

AK それじゃあ、あれかい。黒沢嘉兵衛さんが用水引いたより、尾山さんの方が古いってことなのかい。

荒井良勝 だから、先に来てたかも知れない。滝澤つとむさんの前の沢になってるとこがあるじゃない。あそこら辺を、いくらか田んぼを作ったかなんかしたらしい。つけばらのげいすけ?、とかいう人が来て、やったってことがちょっと。話をしたことがあったっけか。

IM もともと尾山家は、上八重原と中八重原は尾山家の方が率いてたってことだよね。

荒井良勝 あそこに、いどまりって、下の方に大きい会社が出来ちゃったけどさ、みおた、って会社が出来ちゃったけど、あそこら辺、上いどまりと下いどまりってのがあるんだよ。あそこら辺を、さっき言ったように、佐久のつかばらの池田げいすけ、って人がある程度人足を連れて来て、開発をしたらしい。あそこにアカオさんたちのお墓があるでしょう。しいちゃんのとこを少し行った所にさ,あそこら辺に池田屋敷って、屋敷跡がある、って聞いたことがある。そういうことは誰も知らないだよ。荻原たろう?さんも知らん、って言ってた。池田げいすけ、って事業家らしいんだよね。アカオさんたちもつかばらから連れて来た、ってことだと思うんだよ。開発をし始めてた訳だけど,その後その黒沢さんが来て、蓼科から水を引いて来て、あちこち開発が始まったから、こっちは手つかずで、いくらか知られたくらいで、池田げいすけさんという人は帰っちゃった、ということだと思うけど。

SW 上八重原は、中里から来た人が多いだ。

一同 えーっ。

荒井良勝 それでね、こういう古文書があるんだよ。尾山さんたちの系図の古文書が。見りゃ分かるよね。小山って書いてあるが、最初は小山だったんだな。上八重原のお百姓の続き、って書いてある。これを見ると駿河大納言忠長公の家人と書いてあるんだよ。ということは、尾山休閑は駿河で生まれた、ってことを書いた資料もあるんだけどさ。駿河って静岡だよな。そこを領地に持ってた訳だ。駿河大納言忠長、ってのは、三代将軍家光の弟です。その人の領地はこの北佐久にもあって、6万石くらいあった。本部は駿河にあった訳だけど。分地がこっちにも、北佐久にもあった訳だ。それで、一時小諸藩の殿様になってた訳だけど、この駿河大納言忠長って人は三代将軍家光に疎まれて自殺しちゃってる。それで潰れちゃうんだよな。だから尾山さんの親父さんたちはたぶん、この駿河大納言の家来になってたんじゃないかと思う。だから、その系図はどこに行っちゃってるか分からないけど、そこで生まれた尾山休閑て人は、京都に医者の修行にでも行ったんじゃないかと、俺は思ってるんだけどさ。京都から来たって言ってる訳だ。尾山さんの先祖はな。昔はお医者様なんて、今みたいに免許がある訳じゃないんだからな。少し風邪でも治せればそれでいいわけだ。(笑い)公卿の話はこんなことで終わりますが、その次は何にしたらいいかな。石の話もあるんですが、大きい石の上に祠があるの。

AK 前に良勝さんに木を切ってもらったに。

荒井良勝 その上だよ。ずっと上、グランドのすぐ傍。では、その次に行きますが、この、駒形石をやりますかな。

2、駒形石

 武田信玄公が進軍して、今の北御牧村鍋蓋の北西端に来ると、大きな石があった。(周囲一丈・約三メートル、高さ尺五寸・約45センチメートル)。信玄公の乗った馬がこの石にどうしたか、つまずいて少しも馬は進まない。信玄公は不思議に思って、その石を見ると、馬の蹄の形がはっきりとついている。信玄公は行く先の吉凶を案じて、この地籍に陣屋を築いたのだという。以来この石を駒形石といい、依田一族が懇ろに七五三縄を張って祭っている。この石についてこんな話もある。

 ある時、この土地の石屋が、この駒形石のわきを通って、珍しい石だったから石質をためすといって、その片方を少し欠いたところが、その石屋はその晩から熱病にかかって非常に苦しんだという。今この石は道のわきに突き出しているから、道を修理するには、石屋の出来事からあとは、村中の者でその近くを修理して、晩には新しく七五三縄を張り、一同でその傍らで一杯やることになっているとのことだ。(依田三太郎59)

 2番目のね、これは武田信玄公が、八重原に来たことがあるんだよね。これを見るとね。(文を読みはじめる)一番最後の所にこんな地図があるよね。これは鍋蓋砦の回りと地形図、というか、今でもこういうふうになっているんだよ。道があって鍋蓋のようにね。

AK ヘリコプターでそこのグランドから乗せてもらっただよ。本当に鍋蓋のよう。空から見るとね。たまげた。

荒井良勝 こういうふうになってるんだよね。今のその祠っていうか、石のある所はね、ここに6725、って書いてあるよね、そのすぐ傍に小さい建物かなんかある、そこに鳥居があったりね,そこに武田信玄を祭った祠があります。依田一族が毎年、お祭りをしているらしいんだよ。まあ、そういう伝説が残っているということです。その次、8番。

8、大盗賊霊神

 それはいつの事であったか、そして当主より何代前の事であったか、時代の程は明らかでないが、立科町藤澤のある家に一夜盗賊が押し入った。そして金子や衣類を少なからず盗み去った。翌朝眼覚めて盗難を知った家人は、急を村人に告げ、大挙して賊の足どりを辿りながら捜索した。捜索の一隊が御牧が原へ登っていったところ、盗賊は昨夜盗み取った美しい衣物を纏い、酒に酔って踊り狂っていた。村びと達は一時に躍りかかって難なく捕らえた。そして、「俺は手下三十六人もっている大盗人だが、許してくれるなら手下の者共に言い含めて、今後藤沢の村へは足を踏み入れさせぬから、是非助命して欲しい」

とひたすら詫びる盗賊をせせら笑いながら、村びと達は無理に連れて村はずれまで来た。行く手を見れば先へ駈け下って坑を掘る人達の、焚火の煙が立ち昇っている。その煙を見てはっとして事情を悟った賊は、道の上に蹲って動こうともしなかった。村びと達は手をとり足を取りして彼を担ってきて穴埋めにした。その後大盗賊の怨念はついにある家の先代にたたった。たたりを怖れたその家の先代は、賊を穴埋めにした現場に碑を建てて、大盗人の霊を弔い、怨霊を退散させた。いま県道小諸芦田線が北御牧村と立科町との境界の六が沢を横ぎる所、一段高い路傍に道に面して建てられてある碑がそれである。碑面には「大盗賊霊神」と刻し、脇に手下三十六人霊祭と彫ってある。(小林善之助44)

荒井良勝 8番の大盗賊霊神というのがあるんだよね。それはさっきも小林さんと話してたんだが、大日堂?っていう、白倉さんたちがお祭りしている沢の一番下の方、あそこに前、大塚産業でベトをやってる会、隅の所にあります。後ろに絵がありますが。

AK 手下の三十六人も彫ってあるだもの。

荒井良勝 ちゃんとそういうふうに書いてあるよ。行って見てもらえば分かる。石塔は今でもちゃんとあるんだから。行って見て下さい。まあ、伝説だからなあ。それなりに聞いてもらえばいいんだけどさ。

 じゃあ、4番ののうぜんかづらの大株、のうぜんかづら、って木を知ってるかね。ぼつぼつ花咲く頃だ。蔓が伸びてる。黄色い花が咲くよね。ラッパみたいな、朝顔みたいな花が咲くんだよ。知ってるよね。

(文章を読みはじめる)

4、のうぜんかづらの大株

 承応(一六五二)の初年、今からおよそ三百二十四年前、先代黒沢加兵衛という人が、未だ用水路開削の前、北御牧村下八重原字大平の地に、芦田古町から転住した長百姓の田中久太郎というものがあった。八重原地籍の原野開墾に従事し、いっぽう蓼科山麓から用水を引こうとして、村人と共にいわゆる岳普請(八重原用水の普請)に着手した。むかしの事だから、その工事の難しさは非常なもので、苦労して、ついに失敗に失敗を重ねて、現在の用水路地点大岳という辺まで来たときは、もはや久太郎の汗を流して蓄えた金も終り、困ってしまった。そのうえ彼は同僚の百姓からも信頼をだんだんと失って、とうとう日々の暮らしにも困難を極めた。

 そこで田中久太郎のこの犠牲的な事業もついに失敗に終わったから、身を呪い、世を呪いながら、この土地に永住するのを断念して、一家一族を引き連れてよそに転住したそうだ。

 その折、彼の屋敷の庭先に一株ののうぜんかづらを植えつけて言うことに、「ここは永住して生計を立てるは困難の土地、俺の失敗から見ても殆んど絶望だから、いま自分が庭先に植えつけたこののうぜんかづらのある限り、誰でもこの場所に居住するな。」と言い残したということだ。それから今まで約三百二十年余年の間、その屋敷跡は日向きのよい理想的な屋敷地点でもあるけれども、ひとりとして家を建てる者がなく、今は畑になっている。そこには屋敷があった当時の庭石だという高さ四尺(約一、二メートル)周囲およそ五間(約9メートル)くらいの大石がある。その南側にのうぜんかづらの大株が茂って幹の太さ一尺(約三十センチ)余、二本に分れ側にある杏の大木にからみついて、7月の中旬頃には花が咲いて実に美しい。なおその大きな石の上に小さな祠があって、いま屋敷神としてその畑の所有者がねんごろに祭っている。(依田岩太郎)

 一六五二年だから、今からおよそ324年年前だね。これは当時の依田岩太郎さんが文章を寄せてくれたが、岩太郎さんて、知ってるよね。いわいちゃんのおじいちゃんだよ。この人が文章を寄せてくれたんです。ちょっと説明するとこの八重原用水は黒沢さんがやる前に、おがたひょうえもんというのが、同じ青山っていう殿様の家来でいた訳だけど、その殿様の命令によって開こうとした訳だ。八重原新田を開こうとする、新田隊長までやってた人なんだ、この久太郎って人は。それで、おがたさんが途中で、まだ八重原に水が来ないうちに亡くなっちゃった。だから困ってた訳でしょう。それで新田隊長までやって、ここに書いてある通り、金を使い果たしてしまったんではないかと思うけどね。だからこの人はどこへ行って、人を引き連れてどっか行っちゃったと書いてあるでしょう。そういうふうに書いてあるからさ。俺、資料を用意して来ました。

一番最後の方にね,No.9。

一〇五 万治二年二月 八重原新田長左衛門女房質置証文

 御請状之事

一拙者女坊(房)□(は)ると申女、中年拾年亥ノ二月十九日□(より)酉ノ二月十九日まてしち置二相定、金子四両壱分借用申所実正ニ而御座候、

右相定申通り年季明本金進上仕候者、無相違右之女御出し可被

下候、自然盗・欠落仕候者、急度尋出し進上可申候、尋出し不申

候者御望之人代進上仕、其上盗物まて急度御勘定可申候、宗旨

ハ代々禅ニ而御座候、此女ニ付而何万□何様ノ六ヶ敷申来候者(共)、

我々請人共罷出急度埒明可申候、てんかう(癲?狂)・三ひやう(病)出来申候

者、何時成共本金進上可申候、天下御一道何様之新御法度御座

候者(共)相定申通相違申間敷候、為後日如件、

万治弐年             人主八重原新田

                      長左衛門㊞

 亥二月十九日

                 同 所請人 

                      久太郎㊞

  おい□け町

    市左衛門様

   (『追分宿本陣問屋文書』 北佐久郡軽井沢町 軽井沢町資料館所蔵)

□は入力出来なかった文字

No.9を見て下さい。万治二年二月、って書いてある。

(文を読み始める)

中年拾年亥ノ二月十九日□(より)酉ノ二月十九日まてしち置二相定、金子四両壱分借用申所実正ニ而御座候

 10年だよね。亥の年から酉ノ年までで、ちょうど10年になるよね。その間この女房を質置きしちゃった訳です。それでお金を、金子を4両壱分借りた、って書いてある。年季が明けた時には女房を返してもらいたい、って言ってる訳だ。この女房が駆け落ちや、自然盗みした時にはきっと尋ね出して、代償はする。それで、宗旨のことまで書いてある訳だ。代々禅宗で御座候と。此の女については何方より難しき申し来たり候者(共)あらば、我々請人罷り出、埓明け申すと。ね、面白い事書いてあるでしょ。病気のことも書いてあるんだよ。癲癇、てんかう、って書いてあるのが、癲癇だよ。三ひょう、って書いてあるのは病気、今の癩病とかが入っているんだよ。そういうのになった時にはどうする、ってことが、ここに書いてある訳でしょう。そういうことまで保証してる訳だ。長左衛門、って人はたぶん、中に入った人だと思う。同請人でしょう、請人が久太郎だってさ。田中久太郎って人だよ、これ。さっき、のうぜんかづらの所で読んだようにさ、家人を引き連れてどこに行っちゃったか分らないけど、もともと芦田の古町の出身だから、今の光徳寺のあるとこだ。田中久太郎が、よだしょうえもんという人と、おがたひょうえもんさんが水を引くっていう時に来た訳だ。八重原に。そういうことが書いてあるからさ。この久太郎さんて人は新田隊長までやって、自分が苦労して金まで使っちゃった訳だ。内容はそういう事です。それで、場所は井出まさくにちゃんの所、知ってる?亡くなっちゃったけどさ。下八重原のさ、早武さんの少し裏の所だ。早武基好さんの所の少し裏。そこにあるんだよ。今でも家は誰も造ってない。ここに書いてある通り。杏の木は今でもあります。こんなデカ物になって。そこに屋敷神様の祠がちゃんと、小さいのがあるよ。行ってもらえば分るけどね。こういう伝説がある訳だ。いいですか、次に行きますよ。10番。

10、活計石(疣石)

 北御牧村字八重原活計沢の四つ家の丘陵の畑の中に、大きさが南北に長く約二間(約三、六メートル)・東西約六尺(一、八メートル)、象の寝たような形で、中央のへこみに水たまりがあり、石の肌は実に滑らかで、高さおよそ五、六尺くらい(約一、五~一、八メートル)周囲に小石がたくさん積み重ねてある奇石がある。

 承応(一六五二)のむかし約三百年前頃、八重原一帯はまだ開墾されないで、牧場であった頃にあるひとりの牧童がいた。この頃どんな干ばつでも、いつも清水をたたえている不思議な石があった。牧童は、どんな水のない時でも、この石の清水で渇きを忍んでいたということだ。それから後、この不思議な石を名付けて活計石というようになった。この石の南の方に、南東に傾斜した日当たりのよい、肥沃で住みよい沢があった。そこで生計を立てるに適しているので、この沢の名を活計沢と名付けたということだ。あるいはまた活計石があるからだともいい伝えている。八重原としては、最も早くから長百姓が居住してきた地籍だということだ。その頃この活計沢の四つ谷に長百姓依田某という者が住んでいて、早くから開墾に従事していた。あるとき依田某の家に小県の祢津から、女中を雇っていたが、手足に疣が沢山できて日々の仕事にも不自由を感じるほどであった。ある晩、依田某の妻が寝たところ誠に不思議なことに、神様のお告げが夢枕に立って、活計石の溜り水で五日の間足を浄めると、疣がきっと完全に治ると告げられた。妻女は翌朝その女中を連れて行ってみると、神のお告げ通り、滑らかな石の凹に清水が溜っていたので大喜び、その水で手足を浄めさせること五つ朝、ところが不思議なことに、今まで手足に一杯だった疣がいつかきれいに治り、肌には何等の跡形も無くなったということだ。

 依田某は驚いて不思議なこの神力のある活計石を、自分達の屋敷神にしようと神官に頼み、一族が集ってねんごろに石を祭った。それからあと活計石を改めて疣石と名付けたということである。このことがあってから里人は、この神の不思議な力を伝えて、参詣に来る者も多かった。それで不思議な力の効目の著しい者は、きっとお礼に小石を奉納したそうだ。

 明治の初年頃までは、この地方の民間信仰として信者も多く、お参りをしたそうだが、今は殆んど人影もなくてただ畑の中にどっかりとしている。(依田岩太郎58)

 この活計石ってのは、依田さん家の少し裏のところにあるんだよ。

YS 俺たちの子供のころには疣石って言われてたよ。

荒井良勝 疣良石、って書いてある。

YS 石の途中にさ、祠じゃなく、小さく凹があって水が溜ってるんだよ。赤くなるんだよ。そこの水をつければ疣が治る、疣石って言ってた。

荒井良勝 初めっから読んでみるよ。(文章を読み始める)活計沢って所があるけど、その名前の由来だよね。活計沢って集落があるんだよ。

(最後まで読んで)

 これは四つ谷の依田岩太郎さんて人が出してくれたんです。

AK 下八重原の依田さん家の。

荒井良勝 あの裏の方だ。だから、依田岩太郎さん、ってば、しろうのおじいさんみたいな人だ。

司会 この石はまだあるんですか。

荒井良勝 ある。すごいよね。

YS あそこ、畑の所、荒らしちゃって、竹があってどんどん侵入してきて。ちょっと見えづらいかな。

荒井良勝 説明板があるかな。

YS 説明板はあるよ。

荒井良勝 そういう石があるんだよ。

AK だから七つ石、って言えば、下八重原だけで七つの石、あるの?

荒井良勝 ある。だから、後ろの方に書いといたけどさ、これも七つ石の一つになってます。

司会 へーえ、民間信仰ってことは、お参りに来る人がいたってことですか。

荒井良勝 前はね。今はそんなこと、なくなっちゃってると思うけどさ。お参りに来ればこの石を奉納した、って書いてあるでしょう。この活計石の伝説は、こんなようなものです。今でもでかい石、あるからな。この次、物見石、やってみますかね。(文章を読み始める)

38、物見石

 北御牧村八重原鍋蓋区の西方半里(約二キロメートル)(小県郡丸子町塩川の地籍)に「すもりの沢」という沢がある。その沢の東端に物見石という石がある。これは信玄公が出陣のときに馬をここまで進めたが、信玄公の乗っていた馬がこの奇石にのり上がり、どうした成行きかそのときに馬が二尺(約六十センチ)ほど滑って前にのめった。信玄公はいち早く手綱を引き止めた。そのとき遥か西方の山麓、千曲川河畔に上田城を眼下に展望した。場内の様子さえはっきりと知ることができたという。このことがあってからこの奇石を名付けて物見石と呼んでいる。北東に斜めに傾いていて、細長い表面に馬の蹄が二つ、滑りふんばった形が今なおはっきりと印されている。この辺一帯は、上田小県地方を眼下に展望する見晴らしのよい場所だ。(依田三太郎59)

 「すもりの沢」って書いてあるけど、これ、「すもも沢」だと思う。この石は今のところ、これ、塩川、って書いてあるでしょう。ゴルフ場になっちゃってます。もともと北御牧の郡じゃなかった訳だ、石のあった所は。ゴルフ場の管理棟の傍に置いてあります。また行って見てください。藤原田?の入ったとこだよね。ゴルフ場の管理する所があるでしょう。あそこにあるんだって。

SW 立て看板もあるんだってね。

荒井良勝 行ってみなきゃ分らないけどね。そういうものが、いろいろ見ると、武田信玄にまつわるいろんなことがあるよね。だから、信玄がここまで来たってことがあるんじゃないかな、と思ってるんだけどね。

AK 石はいつまで経っても腐らないからな。(笑い)

荒井良勝 それじゃ、次に行きます。さっき、地図がこれに載ってるけど、鍋蓋。(読み始める)

149、鍋蓋

 天正年間に武田信玄が川中島出陣のとき、その土地の野武士を従えこの地方を進軍した。北御牧村八重原の今の鍋蓋地籍を通過してこの場所に陣屋を置いた。この地はちょうど八重原で一番平らな土地で、その真中にちょっと高い所があり、そこに陣屋を置いたから周囲の土地の様子からみて、鍋に蓋をきせたような具合だったから、名づけて鍋蓋と唱えたという。また一説には、陣屋に鍋蓋を置き去ったからだとも言い伝えている。(依田三太郎)

 さっきの地図を見ると、真中が鍋蓋みたいな形になるでしょう。だから、ここに書いてある通り、鍋に蓋をさせたような具合だから鍋蓋と言った、って書いてあるよね。そういう場所があるでしょう。これは依田三太郎さんがやってくれたものです。依田まさおちゃんのおじいさん。俺は三太さん、って言ってたけどね。三太郎さんがこの本を作る時に、こういう伝説があるよと教えてくれたでしょ。

それから次、150番の捉緒坂。

 羽毛山なんですが、木戸坂、って下って行く所にある、羽毛山に出る道、その途中にある坂のことを言ってる訳だけれども、捉緒、ってのは鷹の足についている紐のこと。鷹狩りに出す時にさ、紐を放してやる訳だよね。いつもその紐をつけて肩に乗っけたりしてる訳でしょ。その紐を捉緒、っていう訳でしょ。緒、っていう字は、糸偏に者?だから、紐っていう字だね。(読み始める)

150、捉緒坂

 北御牧村字羽毛山の西端部で、小県郡塩川村に通じる道に坂がある。この坂の字名を捉緒坂と言っている。むかし望月氏の一族に祢津の豪士で、弓術の名人の祢津甚平という侍が、このあたりに来て鷹狩りをしたそうだ。そのとき一羽の大きな雉が飛び立ったから、すぐ鷹を放ったところがその近くにある猿岩というところで鷹は雉を見失ってしまった。鷹は残念がって大石の上に停り足掻きをした。その跡が今でも細く刻まれて無数にある。そこで鷹は自分の無能を恥じて、足に結び付けてあった緒を切り落として、どこかへ飛び去った。その折、足の緒をこの坂に落したので、以後この坂を捉緒坂と呼び、字名になったのだ。(捉緒とは鷹の足に付けた緒のことだ)(竹重高一63)

 捉緒石ってのもあるんだよな。田中橋の少し上の所に猿岩って所があります。

こういうことがあったんだよね。この内容の話はね、尾山さんの所にあった文書の中に書いてありました。八重原古来とめ帖?、っていう、さっき言った尾山一郎さんの所にあった文書、その中に、ここには祢津甚平、ってあるけど、祢津じょうあん、って、祢津の殿様です。その殿様が鷹狩りに来られた、八重原に来たということだけど、そこにこんなことが書いてある訳です。それで八重原の地名になったようなことが書いてあってさ、今の八重原古来とめ帖?って中には、祢津じょうあん、って人が八重原に来て,鷹狩りをした時に八重羽の雉って、どういう雉だか知らないが、足が三本もあるような雉の話だと思うけど、それを捉えたんだけど、羽毛山に逃げられて、今は小諸になっちゃったけど、芝生田でやっと捉えたということが書いてある。尾山さんの古文書の中にそういうことが書いてありました。

司会 今でもこの字名はあるんですか?

荒井良勝 あそこに捉緒坂っていうから、あるんじゃないですか。

司会 字捉緒坂、っていうんですか。

荒井良勝 うん、あそこに羽毛山の集落の下の方に筆塚、って所があるよね。筆塚、って知ってる?知らないか。登りはねて登って行く細い道があるが、それは今、県道になっちゃってるんだよ。その坂を捉緒坂、って言ってる。今そこに「かさはら工業」?か何かになっちゃったよな。あの下の方だ。その向こうには発電所を造るでしょう。この間、議会で通ってるよね。バイオマスだかなんかでな。発電所を造る。その向こうに、トヨタの部品を売ってる、北御牧村の時に開発した工業団地だけど、全部売れちゃってるよね。あの傍です。あの傍に捉緒坂、っていう。捉緒石もあるんだよ。ちゃんとここに残っている。まあ、そんなことで。次は152番。こんな時間経っちゃっていいだかい?

司会 まあ、三時半くらいを目処に。

荒井良勝 いいだかい?八重原の謂れがここに書いてあります。(読み始める)

152、八重原

 北御牧村の八重原は、むかし、駿河大納言の領地であったとき、改革されて名称を付けられた土地で、原の入会地という意味だそうだ。

 小県丸子、長瀬、塩川、大谷(大屋)、岩下、海野、田中、常田、の八ヵ村、佐久の羽毛山、島川原、布下、下之城、大日向、藤沢、山辺(部)、塩沢の八ヵ村、八か村と八か村の入会の重なった原という意味であるということである。

(尾崎祐太郎)

 さっき言ったように、駿河大納言、って徳川忠長の領地であったことは事実なんです。殿様が徳川忠長の6万石の小諸の殿様でいたから。これは黒沢さんが開発する前。草刈り場だったから。下手八か村、山手八か村。こういうことを言ってる訳です。そこらへんから草刈りに来てた。入会の場ってことだね。

司会 駿河大納言の領地だったんですね。やっぱり重要な場所だったということですか。

荒井良勝 そうだね。さっき言ったように駿河って静岡に本部がある。その分地がこっちにあった訳だ。殿様の変遷書?を見れば、そういうふうに書いてあるからさ。徳川忠長という人がここの殿様やって、その後は宣長?っていう人がやって、その後はあおやま、っていう殿様が来てる訳でしょう。その後はさかい、っていう殿様がやってるわけだ。小諸藩はちょいちょい殿様が変わって、一番最後はまきのって殿様だけれどね。駿河は家光の弟です。家康の孫だから、相当領地、権力はあったんじゃないか。

司会 どういう理由でここはそんなに重要な場所だったんでしょうかね。

荒井良勝 重要な場所っていうか、草刈り場でしょう。昔はさ、山の草やそういうものが、田の肥やしになった訳だ。今は化学肥料がいっぱいあるからいいけど、昔はそんなものはない訳だ。馬に糞させた?か、自分のすった?糞かなんか撒いてやるようなことだからさ、こんな汚い話でいけないがな。そんなもんなんだよ。それか、ほしか?と言って、イワシの干したのを肥やしにするか。こんなものしかなかったから、

AK ブラタモリでやってたよ。

荒井良勝 やってたでしょ。一反歩、今十俵の米が穫れるけどさ、この頃はとれねえだ。五俵なんて穫れなかった。

AK 春日あたりで六俵、って言ってた。終戦後でな。八重原一って。

荒井良勝 今はどんなんでも、十俵は穫れるよな。だから江戸時代はそんなに穫れねえ訳だ。二石、二俵半ずつの、五俵って、そんなもんだ。だから山の草だとか、そんなものは必要なもんだよな。それが一番、田んぼの肥やしになる訳だ。馬に糞させて?畑に撒くとかさ。そんなものしかなかった訳だからさ。

OT 藤原と、八重原のちょうど境に蹴鞠久保って。

荒井良勝 そういう字名があるが、ありゃなんだい。

OT ありゃなんだ、だよ。(笑い)

荒井良勝 俺も分らないんだよ。蹴鞠久保なんて。

OT 話を聞いたから、もしなんか関係があるんならと。ただデタラメ付けたのかな、と思ってたんだけど。

荒井良勝 なんかあるから、付けたでしょ。蹴鞠ってば京都のお公家さんたちが、やってる遊びじゃねえだかい。だからそれは尾山さんたちと、何か関係があるんじゃないだかい。

OT それこそ尾山さん家の裏だよ。

荒井良勝 なんか、関係があると思うよ。さっき最初に話をしたお公家さんが来た訳だから。

OT 来たかどうかは分らないけれども。地名はある。

荒井良勝 そういう字名あるよ。

OT 台帳に載ってる?

荒井良勝 載ってるよ。なんか関係があるから付けたんじゃないかと思うよ。後は何だったけな。これで終りかい?

AK 大屋って、昔は谷だったよね。

荒井良勝 字が違うね。山手八か村と下手八か村、そういう人たちの草刈り場だったんだ。それで、この八を使って、八重に入り組んで草刈りに来てたでしょ、それだから八重原って。八重原の謂れってことだな。後は何だな、順を追ってやってくからね。

司会 あと十分くらいで。

荒井良勝 いいですか。えらい時間、話しちゃったな。(笑い)後、子育て地蔵なんか、これは場所は分ってるよね。

KM 分ります。君塚古墳も分ります。

荒井良勝 後この鍋蓋砦も分るよね。これも俺、文章を書いたんだけれどもね。

AK 鍋蓋も分るけど、新池さ、わしら、ばっちょ池って呼んでるけどどうして池の名に。

荒井良勝 どういう訳だよな。

AK 私は太郎さんとこに、訊いただよ。そしたらあそこの地名だっていうに。

荒井良勝 ばっちょ、って字名だよな。

AK 大工さんのことを方言でさ、ばっちょさん、ってさ。今は大工池って。あそこの地名だって。

(読まなかった資料) 

No.1 君塚古墳

 田楽区の東方上八重原字君塚に位置している。東御市内には、中曽根親王塚古墳をはじめ数多くの古墳が存在している。北御牧地区においては二基の古墳が確認されているが、その一つがこの君塚古墳である。

明治11年(1878)の長野県町村誌によれば、「上八重原組より未の方八町にありた字とす。蓋石方九尺、高一丈、周囲十間、古之某の墳墓ならん、今その伝を失う。」とあってこの時期すでに覆土はなく、約3mの蓋石と高さ3.

3m、周囲18mの古墳であったことがわかる。此の古墳の下方には鹿曲川、その支流の番屋川、塩沢沿いに農耕集落が順次開かれこれらの集落を統一し、その長になった豪族の古墳ではなかろうか。

所有者:山田 強 氏 所在地 東御市上八重原

No.3 子育て地蔵

 上八重原区の東端字六地蔵地籍に、住民の厚い信仰を受けている子育て地蔵尊が祭られている。この字名は、現在白水地区へ登る途中に観音堂があるが寺院に関係があると思われる。また、この地籍は、江戸時代、上八重原集落への入口の場所であった。一対の献灯には「文化13年丙子孟冬」とある。尊像はそれ以前に安置されたと思われる。したがって200年位前には尊像が祭られていたと推測される。現在ほど医療が進歩していなかった時代、子供が病気になれば神仏に祈る外ないので、子育て地蔵が建立されたのであろう。伝えとして群馬県からの参詣者があったといわれ、毎年4月上旬を祭日として、一対の幟を立て現在に至っている。 所在地:東御市上八重原

No.9 鍋蓋砦跡

 鍋蓋砦跡は下八重原字鍋蓋にあり、天文10年(1541)海野合戦の際、武田軍がここに陣営を張って戦役に備えたと伝えられている。また、天文19年(1550)砥石城攻めの時、武田信玄はこの地に陣を張ったと「高白斉記」には次のような記述がある。「運の入口千曲川を越えた『向かいの原』に御着陣」とあり、この地が想定される。また、天正13年(1585)の徳川軍、真田軍が戦った第一次神川合戦の時、徳川軍が敗走し、千曲川を渡り八重原に押しあがったと「真田通記」に記されている。砦跡中央の祠は信玄を祭ったものといわれ、また入口には駒石という信玄の乗馬の蹄跡が残っていると伝えられ、今も毎年4月関係者によって祭事が行われている。

所有者:依田 一茂 氏 所在地:東御市下八重原

荒井良勝 後さ、一番最後のとこにね、一ツ石、ってのがあるでしょう。No.8。 これは今、塩川です。勘六ってあるけど、少し下った所。裏久保の少し裏の方だよね。(読み始める)

No.8 上ノ平の一ツ石

 塩川の上ノ平にある。明治の初期、小県郡と北佐久郡との境界争いの石である。裁判の末、小県郡の主張が通り、この「一ツ石」は小県郡のものとなり、郡境は、はるか東方の八重原になった。

 昔、この石の根元で、一夜を過ごした娘がいたという。村の年寄が朝早く、馬の草刈りにいき、この娘をみつけ、どこの誰だと、とがめると、娘は「姫じゃ」と言う。どこから来たかと問うと、「加賀じゃ」と答えたという。

 参勤交代の折、あまりできのよくない娘を捨てに、連れてこられたのではないかという話が伝えられている。(北沢 泰 祖母談)

 上平ってとこにあるんだね。これまで北佐久郡にあったのが、裁判の末、小県郡の主張が通り、と書いてあるね。この娘は、加賀の前田様の娘だというんだね。北沢泰さんという人のおばあさんが書いたんだ、これね。

AK お姫さまでも出来の良くないのを、捨ててったんだね。

荒井良勝 それで、ここんとこにね、八重原の七ツ石、ってことで、載っけておきました。この鞍掛石、ってのは山崎にあります。

AK 大きい石かい?集会所の下の道の。

荒井良勝 あれは鳩石。鞍掛はね、昔の巡検道?、ってのがあるんだけどさ、藤沢に降りる道で、もう通らない道の中にあるんだよ。そこに鞍掛石、ってのがあります。二番目の鳩石、それも山崎です。これから駒形石、てのは鍋蓋砦の所にあるやつ。それから巾着石、てのは下八重原から御牧大橋に出る新しい道が開いてるよね。あの途中にあったんだけど、八光建設の倉庫ってのか、ガレージ、あの所から少し10メートルばかり下った所。ちょうど曲がり角の所にあったんです、石が。でかい石が。巾着石、って石が。ガキの頃はそこに登って遊んだりしたもんだ。その石が道路を造る時に駄目になっちゃった。おっかしちゃった。その石が今、あそこの所に使われているだ。ゲートボール場。豚屋の少し下の所に。あそこの階段に使ってるわい。おっかした石を。行ってみりゃ分るけどね。割っちゃった石をさ。ゲートボール場の下から、駐車場から登ってくとこに使ってある。それと活計石。さっき言った物見石。それからここに載ってる一ツ石。これが八重原の七ツ石と言われてるものです。

OT 亀石、ってのは……。

荒井良勝 そんなのはねえよ。

OT 亀石、ってさ、北御牧支所から、交番の近くの、上がって来る時に。

荒井良勝 あれは違う。あれは大日向の七ツ石です。さっき、荻原さんから注文があった登り窯。ここに載っけておいたから。覆いが掛かっているんだよね。こういうのがあります。これはさっき言ったようにさ、ビューラインが出来る時にちょうど道路の真中に出ちゃったんだよな。登り窯の跡が。俺が昔、親父から聞いてた話では、大昔の窯跡があるぞ、って。親父たちが言ってた訳だ。あの時早武さんが教育長をやってる時にさ、やたらとブルドーザーで壊したらいけないから、よく気をつけて掘ってもらいたい、って言ってな。それで今ちょうどぽんぽこ、っていうスナックがあるでしょ。あの少し上の所です。あそこにあったんです。これが、昔からそういうことを知ってたもんだから、よく調べてくれや、ってことで。それで早武さん、「出た出た、ちょっと来てみてくれ」って。俺、まだ会社にいる頃でさ。それで発掘したんだよ。今亡くなっちゃったけど、塩井って先生ね、塩田の人だけど、上田女短の先生をやってた人だけど、埋蔵文化財の方やってる人なもんだから、頼んで来て、発掘しました。その時のなんか、俺まだ持ってるけどさ。役場の方でもどうする、って。これだけのものが形になって残ってる訳だ。全部発掘したらね。登り窯になってる訳だ。傾斜を利用して。登り窯にすると高温になるんだよね。高くなると千三百度くらいになる。下で火を焚くと。そうすると硬い焼き物が出来る訳だよな。今の野焼きじゃなくて。そういう焼き物が出来るから。それは大陸の方から伝わった焼き方なんだよな。土器の焼き方。それが登り窯、ってわけだよね。

AK あれは今屋根を掛けてな。

荒井良勝 そう、掛けてるよな。それを役場じゃどうするか、って。樹脂で固める業者なんかがいるでしょう。壊さないようにクレーンかなんかで吊って持って来たんだよ。写真があったけどね。そこに移したんだ。

AK 去年かなんかに大隈さんの下の息子がさ、校長先生の退職した人たちがさ、調べたいって言って来てさ、誰か知ってる人はいないかな、なんてさ。

依田かずおさんを紹介してさ。ずーっと見て歩いたんだよ。まず喜んで。

荒井良勝 あの息子ね。

AK 背の大きい息子で。

荒井良勝 そんな訳であそこに移してある訳です。ここんところは俺、あちこちの文章を見ながら書いといたんだよ。北御牧中には幾つもあるんだよ。殆どは御牧原の方にあるんだけどね。登り窯、っていうのは。八重原では今24基が確認されているんだけど、北御牧全体では41、確認されている。それでこの発掘調査は、登り窯の調査が始まったのは、昭和4年です。佐久のしがの出身のこうずたけし、って人が、八重原にこんなものがある、っていう話を。こういう話がすでに戦前から始まっていたんだよね。その後はもうさっき言ったように、道路の真中に出ちゃったもんだから、勿体ないっていうんでこっちに移したんだ。700万くらい掛かったって言ってた。

OT 埋まってたってこと?

荒井良勝 そう、埋まってた。

OT 昔は表にあったんでしょ。

荒井良勝 表っていうか、坂を利用して。

OT 洞窟みたいに造った、ってこと?

荒井良勝 そうそう。それで、下で火を焚く。成型したものを並べて焼くわけでしょ。

OT 坑を掘って行けば安上がりに出来る、ってことか。上には出てないの。

荒井良勝 露出はしてないんだよ。みんな被ってる訳だからさ。

AK 道を開けるために移した、ってこと。

荒井良勝 そうだよ。

OT 地元の人達は知らなかった訳?

荒井良勝 誰も知らねえでしょう。山で、ポンポコの社長の土地だったから。荒井ひろしさんの土地だったから。

OT 何年前くらいだったのかね。

荒井良勝 道路出来た時は、え、登り窯のあった頃?平安時代の初めの頃だよ。千年の上、経ってるんじゃないですか。だから知らない人は知らないんだ。口元がいくらかね、赤い土が出てる、焼け土が出てるからね。それだから俺たちの親父は、昔お窯があったとこだって言ってるからさ。

司会 焼いたものは何に使ってたんですか。

KN 国分寺の屋根瓦じゃないですか。島河原まで下ろして、千曲川を、組んで流してで、国分寺の屋根に。

荒井良勝 そうだよな。国分寺にお寺が二つあるんだよね。男の和尚さんと女の和尚さん、僧寺、尼寺ってお寺があるんですが、発掘調査をやった時に、のがめ瓦、って瓦が出てるんです。それがあの和一ちゃんたちの場所、さいじょうの所にあったらしいよね。裏の所だよね。そこにその、のがめ瓦が残ってたのが、この国分寺の発掘したのと同じだってことが分った訳だよね。そういう訳でした。だからさっき柄沢さんが言ったようにさ、ここで焼いたものを、番屋川に落して、鹿曲川を下って島河原のところで千曲川に出て、船でずっと国分寺まで下げてったんじゃないかと。ただ、八重原だけで焼いた訳ではないんだよ。瓦はあちこちで焼いてます。上諏訪?あたりで焼いたり、上田に瓦柳、って所があるでしょう。あそこもそういう名前が付いているってことは、ここで瓦を焼いたじゃねえか、ってことで、瓦柳、って言ってる訳だ。国分寺の瓦をあちこちで焼いた。一カ所くらいじゃ間に合わない訳だから。ま、そんな訳で、八重原もその頃から、いくらか人間は住んでいたのかな、と。(笑い)

AK 八重原も歴史は古いに。なあ。何も、平成元年が北御牧村の百年祭だって言ってもさ。

荒井良勝 もう少し話しちゃっていいかな。八重原が牧場であったことも分ってるんだよ。ということは、この間、松尾先生に聞いてみると、あそこに家族亭って食堂があるじゃない。知ってるよね。あそこの左側の所に馬頭観音をお祭りしたお堂があるんだよ。あるよね、左側に。階段付いてて登ってく。あそこに塩川っていう、藤原氏系の豪族みたいなのがいてね、その人が牧場を経営したんじゃないかと言ってる訳だ。勅旨牧。直轄の牧場だね。あそこに藤原田っていう名前も自分達は藤原氏ってことだから、その系統があって、それで藤原田ってつけてあるんじゃないか、って。そのへんから八重原の今のゴルフ場になってるとこは勿論だけど、いくらかこっちも、かつて勅旨牧になってたんじゃないか、って。最初、信濃の国は16勅旨牧があったわけです。それで後になって、平安時代の中期頃にまた勅旨牧を増やした訳です。28牧増やした。28牧、天皇直轄の牧場があったんですよ。その時に塩川の牧って。そういう研究をしている人がいる訳だから、そっくり信用するのは、それは分らないけど、そういう馬頭観音を、馬の神様をお祭りしてる訳だから、牧場があったとしても。

AK 馬頭観音なんか、そこら中にあるよな。

荒井良勝 あるんだよ。もともと御牧原が16牧の中に、望月の牧があった時にも、あちこちに馬をお祭りしたお堂があるでしょう。

AK 馬だけがお祭りされてさ、働いた牛はどうして(笑い)。可哀相でしょう。

荒井良勝 だからそれはさ、馬っていうのはそれは時の朝廷が相当重きを持って飼育してたでしょう。そのころ牛がいたかどうかも分らないし。馬は大陸から来たもんだから。木曽馬だとか、日本古来の馬もいたと思うけど、今の大きい馬はさ、大陸から渡って来たもんだからさ。その馬と一緒に焼き物を焼く陶工ってのも渡って来てる訳だ。今の諸刃神社のふなしろさん、って人をお祭りしてるでしょ。たぶんね、モンゴルの方から来た人だと思うよ。あれは望月、滋野氏?のご本尊だから。そんなことで、お終いにします。(一同、笑い)

司会 この話は尽きないですね。いや、面白いです。ありがとうございました。

一同 ありがとうございました。

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