知恵蔵の時間 第4回 講話 角りわ子さん
「八重原の粘土で焼く器で私が表現したいこと」
2018年8月19日 14:00
於 まる屋 司会 小林恭介 撮影 橘正人
司会 今日は語り手さんとして、角りわ子さん。皆さんご存知だと思いますが、こちらの八重原の方にお住まいになりながら陶芸のお仕事をされている方です。この知恵蔵の時間と言うのは、北御牧の地域に暮らしている方、北御牧に関わりを持っている方、そういう方からこの地域についての話とか、どんな思いを持って暮らしているのとか、そうしたお話しを聞きながら、ここで暮らすヒントみたいなものがあるかも知れない。またはこれからこの地域がどんな地域になっていくのかなということを、みんなで共有出来るとか、語り手さんのお話しを通じて考えられるといいなと、そんなふうに思っています。
皆さん折角お越し頂いているので、どんな方がお集りになっているのか、一言ずつ、お 名前とお住まいと、角さんから聞きたいこととかを、短くていいので聞かせて頂きたいで す。そうすると角さんもお話しし易いじゃないかと思うんです。こんなお話しを聞きたい と言うことも言って頂くと、あんな話をしようとか、そんな時間を持ちたいと思いますが、 よろしいですか。まず、こちらの方から、お願いします。
MY MY と申します。住まいは八重原の所で住んでおります。今日参加した理由は、八 重原プロジェクトというのをやってて、角さんとも一緒にやらせて頂いてますが、それ以 外にも個人的に精進料理を最近習い始めまして、ふと気がつくと水上先生が本を 出されていて、しかもこの本は北御牧の食材を使って、角さんが作ったお皿に乗せていて、 すごく親しみを持って見られるようになったので、料理を引き立てるお皿を作られること に関しても、お話しを伺いたくて来ました。
司会 ありがとうございました。
AH AH と申します。千葉県の市川から参りました。今日初めてここの場所に来て、美術 館に見に来ようと思って来て、さっきそこでランチを頂いてたらば、お隣にとてもいっぱ い人が居て、今日ここで2時から何かトークがあるらしいと。(笑い)それで勝手に私は 2時からだったら間に合うから、どんな感じなのか見てみようと。とても素敵な所だった ので、どんなことをやってるんだろうと思って、何も分からずお邪魔してしまいました。 よろしくお願いいたします。
TY TY と申します。東御市の新家に住んでます。なぜ今日ここに来たかですけれども、 実は水上先生がご存命の時に、パソコンを教えに来たことがありまして、そこで角さんと 1回か2回ほどお会いしたことが多分あるんですよ。それから、ひょんなことからフェイ スブックで繋がって今こうやってお会い出来ていて、その間がまったく知らないので、ど うして水上先生とお会いになったのかとか、その辺が、今までのことが聞けたら良いなと 思って今日は参加しました。よろしくお願いいたします。
OY O 農園と申します。そこでランチをご一緒して、同じ市川だということで、それも びっくりで、角さんについて、知らない所がいっぱいあります。興味津々でお話しを伺い たくて参りました。
OK 家内です。すぐそこから来ました。O 農園の OK です。今日は角さんの声を久しぶりに聞きたいなと思って来ました。可愛らしい声を。よろしくお願いします。
KY KY と申します。八重原に住んでいます。私は角さんの器が好きで、どんな思いで作 っていらっしゃるのかを、ちょっと伺いたいと思いまして来ました。
YY YY です。東御市の地域おこしをやってまして、角さんとは一回取材をさせてもらっ て、すごく楽しい方で、すごく好きなんです。今日伺ったのは前に市民会議が東御市の市 庁舎であって、その時に元東部町の人は北御牧村に行かないし、北御牧村の人は東部町に 行かないし、興味を持たない印象があったので、この知恵蔵のお話しに来ればいろんなこ とが、こっちのことが分かるんじゃないかと。東部町の人にこういう席に来てもらえるよ うにならないかなと思って、今日は仕事じゃなくて、ただ、ご飯を食べに来たんですけど、 そんな感じで来ました。よろしくお願いします。
KK 味の研究会の KK と申します。今日はどうしてもお話しを聞きたいなと思って。実 は今日ケアポートで売ってたんですよ。イベントやってて、お祭りで。2時までに間に合 うかなと思って、慌てて飛んで来ました。いつもお世話になってます。私達の地域の食材 を使って大事にずっと、と思ってるんで、やっぱりここに来て、角さんの器が北御牧でど んなお声を出したいのかなと思って。粘土というのはどこでもやっぱり違うと思うんです よ。それで作る器ってやっぱり角さんなりのお声があると思うし、ちょっと聞きたいなと。 興味がありました。
KY KY と申します。住まいは坂城町という所で、たまたま角さんの器を使っている料理 教室に行っています。私は、料理はすごく下手なんですけれども、すごく美味しそうに見 えるんです。茅野市にある千の壷という所です。それで楽しい話が聞きたくて、フェイス ブックで調べて、昨日見つけて、もうこれは行くしかないと思って来ました。よろしくお 願いします。
TM TM と申します。私はあそこにあります梅野記念絵画館で創館以来、広報を担当し ていまして、写真等を撮影しております。その関係で角さんとも非常に親しくさせて頂き まして、今日は特にタイで研修というんでしょうか、そういう経験がおありと聞きました ので、そうしたことも伺えたらなと思います。それから、東京から参りました。
TY TY と申します。角さんはずっと憧れの的で、いつでも素敵だなと思っていて、お話 が聞けたらいいなと思って参りました。よろしくお願いいたします。
角りわ子 プレッシャー!(笑い)
司会 今日のタイトルは「八重原の粘土で焼く器で私が表現したいこと」になっています。 今のお話しを聞いていると、角さん自身の歴史のことも聞きたいというのがあるのかなと 思います。時間軸を含めてね、どこでお生まれかも知らないので。
角りわ子 わかりました。では皆さん、こんないい日曜日に来てくださってありがとうございます。私は角りわ子と申します。焼き物を八重原で1992年からですから25、6年になるのかな。93年かな、こっちに移住して来たのが。今で25年目ということになります。
簡単に私の来歴を申しますと、1961年鳥取県境港市という所で生まれました。境港って港町なんですが、最近は水木しげるさんの妖怪ロードですごく有名になっちゃって、妖怪とともに育ったような(笑い)子供です。境港って水木先生みたいなおじいさんがいっぱいいるんですよ。あの人が言ってた河童の川とか、近所にあって、私が子供の頃まではまだ不思議な感じが残っている場所だったんですけれども、そこで生まれました。
私は蟹屋の娘で、父が蟹を商っておりまして、まったく美術とも芸術とも関係のない生まれ育ちなんですね。境港なんて港町で荒くれな所ですし、なんでこうなっちゃったのかなと時々考えるんですけれども。
祖母がもともと九州のお嬢さんで、母方の祖母がですね、昔っから芸術が大好きで、音 楽も大好きで、その祖母からすごく影響を受けて、たぶん子供の頃から祖母がいろんなも のを見せてくれて、それでそういうふうな志向性が生まれたんじゃないかと思うんですね。 ただ中学生の頃はバレーボールをやってたり、普通の田舎の子でした。芸術に対する憧れはずっ と持ってましたし、本も読んでましたけれども、自分に才能がないということくらいは、 いたく感じていましたので、ピカソなんて3歳で絵を描き出しているじゃないですか。そ ういうものもないし、でも当時、やっぱり一番興味があるのは美術とか工芸だったので、 こういうことを勉強したいなと思って、たまたま同志社大学という所に美学芸術学という のがあると聞いて、そうすれば美術に関係する仕事に就けるんじゃないかなと思ってまず、 入学しました。父も同志社だったので、あと、私は数学が壊滅的に出来なくて、高校時代 に模試とかで0点とかばっかりとってたので、必然的に私立文系まっしぐらという感じで。 無事に合格して京都に、1980年ですね、出てって学校に通い出したんですが、美学っ ていうのは実は哲学の中の一つのセクションで、カントの純粋美術批判とか、3行読んだら眠 くなっちゃうような本ばかり出て来まして、こんなつまらない事だったとは。たぶん私が 馬鹿だったからついて行けなかったんですけれども、その時にどうしたらいいかなと思っ て。
私は美術に関わる仕事はしたいなと思ってたのに、まったく歯が立たないし、向いていないと感じた時、京都にいたおかげで伝統工芸の職人さんをいっぱい見る機会があったんです。京都の陶芸の職人さんたちって小学校くらいしか出てなくて、小学校もろくに出てなくって、そのまま丁稚奉公しながらという感じで轆轤師になっちゃったりした方が多かったので、新聞の字もろくに読めなくって、でも知らないうちに美しいものを作っておられるわけですよね。だけど、大学で哲学とか美学とか言っている人は、すごく難しい言葉を駆使しても、美しいっていうことを、なぜ人が感じるかっていう勉強を、難しい言葉でやってるんだけど、もう、一つとしてきれいなものが作れないっていう。そう思った時に、職人のおじいさんの方がなんか素晴らしいんじゃないかなって思ってしまったんですね。若かったので。それで大学を出た時に、芸術家にはなれないけど、努力をすれば職人にならなれるかなと思って、陶芸の世界に入りました。その時にまた愚かだったのが京都はちょっと特殊な場所で、陶工職業訓練校が あるんですが、その陶工職業訓練校に何も考えずに、職業訓練校だからすぐに入れるだろ うと思って受けに行ったんです。そしたら「あんた、コネないと入られへんで」と言われ 、「え!」で、見事に落選。20人、男性が轆轤コースで、女性が絵付コースという、その絵付コースという所に入ろうと思ったら、コネクションがな いと絶対に入れないって。それで職業訓練校浪人をしまして、でも何としても陶芸が、そ の時は定年のない仕事がしたかったこともあって、手に職があれば死ぬまで身体が動くう ちは働けるだろうと思ったことがすごく大きな動機になっていて、それで自分が好きな芸術の世界 の感性というのも生かせるし、ということを考えて訓練校に行ったんですけれども、落選 しまして、見事。どうしよう、って。
でも諦めきれない。その時に運が良く、京都って二つあるんですよね。陶工訓練校と、京都市工業試験場陶磁器研修って市でやってる、行政がやってる二つのコースがあるんです。その試験場で講師をやっておられる先生の陶芸教室にたまたま入ることが出来たんです。それも私はぜんぜん知り合いがいないから、至る所に行って「私、陶芸やりたいんやけど」と聞い て回って、それでも「知らんわ」「知らんわ」って言われて。それである人が「そういえ ば私の妹が陶芸教室に行ってるよ」って。「じゃ、そこに行く」って言って、話しを聞い て。求めよ、さらば与えられん、ていうんじゃないですけれども、飛び込みで話を聞いて。 殆どの男性の陶芸家の方には「もうそんなん止めて、同志社出てるんやったら。ちゃんと お勤めした方がいいよ」ってみんなに言われましたけど。その時どうしても私は諦めきれ なくて、その試験場の先生の所に行くことになったんです。
とにかくお金を貯めないといけないから、その時一番お給料の良かったのが予備校の事 務だったので、堅気の仕事で、その予備校の事務に通って、お金を貯めながら試験 場の先生の所に通って、とにかくやる気だけです。一生懸命やりました。また試 験を受ける段になったら、大学受験よりも一生懸命やったんです、化学があったから、も っとも苦手とする。でも、なんとしても陶器をやりたかったので。で、試験は一番だった んですけれども、やっぱりコネの得点がなくって落ちる所だったんです。そしたら通っていた陶芸教室の試験場の先生が、「この子はコネないけど、ものすごい頑張るから、入れ てやりませんか」って、その当時一番偉かった先生に頼んでくださったんです。結局成績 は一番良かったので、入れて頂けて、そこで2年陶芸の勉強をすることが出来るようにな ったんです。
一年目は轆轤から色付けからすべてを勉強する本コースがあって、2年目、それは行きたい人たちが行くんですけど、釉薬だけ専攻するコースなんですね。そこに行って、釉薬も何万ピースも作り、勉強しました。技術の仕事なので絶対に修行しないと駄目だと、私は当時思っていたんですね。その頃には轆轤もそこそこ引けるようになってるし、いろんなことも多少分かるんだけど、技術の仕事って絶対に修練がないと人を納得させるものを
作ることはできないと、やはりいろんな方を見ていて思っていたので、試験場を出てから今度は東林町という所で、そこって日赤病院、泉湧寺とかも近くにあって、五条坂のもうちょっと南の方なんですけど、石を投げれば焼屋さんに当たるっていうとこがあって、普通のお家ばっかりなんですけど、ちょっと覗くと全部焼屋さんなんですね。そこで4年間修行しました。それもやるんだったらどんな嫌な所でも石の上にも3年っ ていう言葉があるくらいだから、3年やるって重要なことなんじゃないかなと思って、3 年は何があっても頑張ろうと。そこも家族経営の小さな窯元だったので、毎日通いました。世の中はバブルで踊り狂っている時期でしたけど、私はもう最低賃金で。皆さんが2 万円で売ってた器が全然売れなくって、それで30万てつけたら飛ぶように売れたってい う時代だったんです。で、そうか、焼屋っていいなって思いながらやってたら、辞める頃 にちょうどバブルがはじけて、何の恩恵もない。(笑い)終わりました。
ちょうどその窯元での修業が終わった頃に、また試験場のお世話になった先生の所に遊びに行っ てて、もう4年経ったし、そろそろ違うことをしたいんだけれども、何するにも金が ないと言ったら、ちょうどタイのチェンマイに行く仕事の話が来ているよと。何でかというと、 海外協力隊の人たちはタイとか割と行ってるんですね。ただ、海外協力隊というの は、今は違うんですけど、当時は焼き物をやるってことだけで送ってたんですね。だから 釉薬の専門家が欲しいのに、芸大を出て造形しか出来ない人が行ってたり、造形の専門家 が欲しいのに出来ない人が行ってたり。その上二年間、絶対に帰れないんです。だから現地 でそういう齟齬が起きてて、私が行ってたサイアムセラドンという会社の社長さんはそれ が非常に不合理だと思われて、直接日本の試験場に1年間教えに来れる人誰かいないかと言って問い合わせて来られたのです。それで私はこういうことが出来ますという資料を送ったら、じゃあ来てください、とい うことで、アホみたいに1年間行っちゃったんです。私は英語も殆どその時喋れないし、 タイ語もこんにちわ、しか知らないで行っちゃったんです。だから、かなりめちゃくちゃ なんですね。何の参考にもならないんですよ、私のやり方。でもその時に海外で1年一人で頑張れたら、きっとものすごく自分の自信になるな、という感じはしたので、だから思いきって行っちゃいました。
当時世界中でホテルブームで、しかも日本食ブームだったの で、新しく出来るホテルには、必ずと言っていいほど日本料理店が出来てたんです。 だけど日本料理店の食器を日本から入れると大変お高い。だからタイの安い人件費で和食器を作ればマーケットがあるとそこの陶器会社の社長は考えたわけです。そのために和食器の技法を教えて欲しいってことで、私 は呼ばれたんです。でも、すごく可笑しくって、タイの人たちってすごく、きれいなもの が好きだし、呑気だし、朗らかだし、1日8時間労働のうち、4時間は食って喋ってるし。 すごく楽しかったんです、仲のいい人ばっかりで。
だけどまったく仕事は進まなくって、私自身はいつも半ノイローゼになっちゃうんです。 難しいことは出来ないけど、備前焼とか、そういう赤い土のざっくりした器だったら彼ら にもさっと出来るかなと思って、瓦みたいな備前のお皿だったら作れるなと思って教える と、「汚い」と。「こんなの、器として汚いからやだ」と。で、困っちゃって、本とかいっ ぱい見せて、「これが和食器の侘び、さび、ってこうだよ」って言うんだけど、まったく理 解されなくって、すごく大変でした。それで落ち込んでると、ワーカーの人が踊りながら 入って来て、「どうした、元気がないね、どうしたの、お腹が痛いの?」って訊くから 「違うの」と答えると「じゃあ、ご飯食べてないんだろう。これ食べなさい」って。「え、 お腹も空いてない? お腹も痛くなくて、お腹も空いてなくて、一体何が、そんな暗い顔 をする必要があるんだ」って。「いや、仕事が全然進んでないし」と言うと、「あー、ダメダメ、日本人はワーカーホリックだ。これでも食べなさい」とかってお菓子くれたりして。
そんな感じでものすごく呑気で。タイっていうのは南方で米が年に3回穫れる。冬がない。越冬するというシリアスさがないうえ、仏教国なので、今は貧乏だけど一生懸命拝んでたら、来世はいい所に生まれる、だから、来世。
食べるものはある。そこらに寝てても一年中平気。ものすごい能天気なの。そんな中で私もいろんな刺激を受け、彼らの影響も受けながら、なんとか何種類かは彼らでも出来る技法を伝えられたと思うんですが。1年間やって帰って来て、本当に何も考えずに京都にぽろっと帰って来て、さあ、これ からどうしよう、と。私は試験場時代に、食べれないから、学校が終わってから夕 方に木屋町の八文字屋さんという居酒屋さんでアルバイトをしていたんです。ほんとにお 皿を洗ったりして時給が750円のアルバイトですから、木屋町っていうとすごいアルバ イトしてたのかなって思うかも知れないけど、ぜんぜんそんなのじゃなくって。ただ、そ この八文字屋さんというのが甲斐さんというカメラマンの人が始めたお店で、甲斐さんっ て人は、岡林信康って知ってます? フォーク歌手の。その人たちと一緒にほんやら洞っ ていう、京都で喫茶店を作った方で、その後で自分のお店を作ったんです。だから不思議な文化 人の人が集まる店だったんです。特に京都は東映の太秦村があったので、映画関係者の方 も、あと大学関係の先生とか、美術をやってる人とか、いろんな人が来てて、 その中にたまたま水上先生がいらしたんです。私がバイトしてる時は存じ上げなかったん ですけれども。私は甲斐さんの奥さんのあっちゃんという人と仲が良くって、タイから帰 って来て、小汚いままあっちゃんの所に転がりこんでて、祇園のうなぎの寝床みたいなとこに いたんです。これからどうしよう、って。境港に帰ろうかな、でも、どうしようかな、とか。それで 「山に窯でも持ってて、好きに使っていい、っていうおじいさんでも現れたらいいのに」 と私が言ったんです。そしたら「そんな上手い話、あるわけないやん」と言われて、「そ うやんなあ」と。そうしたら電話が鳴って、甲斐さんから「今ねえ、水上先生がお店に来 ててね、陶芸やっててタイから帰って来た人が家に居るって言ったら、会いたい言うては るけど、今から来いひん?」って言われたの。
その時私は水上勉という人は、もちろん作家としては知ってました。お名前は有名な 方なので。だけど私はファンじゃなかったので、残念ながら。だって越前の作家で、地方の貧しい村で生まれて貧乏して女郎になって京都に来て、それで結核で死ぬみたい な女の人の小説ばっかりというイメージだったので。(笑い)私は山陰、同じ日本海側の境港出身だったので、だからそういう暗い話はもうええ わ、という感じで全然読んでなかったんです。水上先生は京都ではすごく有名な人でした し、ただ私としては面倒くさいなあということしか思わなかったんですね。「何の話が聞 きたいの」と訊くと「タイ語の話が聞きたいって言ってはるで」で、「わかった」って言 って、「悪いけど、来てくれへん?」「はーい」という感じで。
でもその時にはっと気がついて、私はタイから帰って来て3日か4日、風呂に入ってな かったんです。だから臭いかもしれない、で、そのまま自転車でゆっくり祇園のお風呂屋さんに行って。祇園のお風呂屋 さんて面白くって、ちょっと不思議な人たちが入ってるんですね。女の人でも墨が入って たり、男の人もヤクザみたいな。ちょっとわくわく動物ランドという番組がありますけれ ども、そんな様子の祇園のお風呂屋さんて大好きだったんです。それからゆっくり自転車で木屋町に 向かって、もう帰ってるといいな、いいなってゆっくり1時間も遅れて行ったんで す。ちょうど八文字屋さんの扉をパッと開けたら水上先生がコートを着て立ち上がった所 だったんです。「あー、りわちゃんが来た来た」と言って、わー、どうしよう、しょうがな いな、とお喋りしたら、ものすごく面白くて。水上先生は、1989年に訪中団で北京を訪れたとき、北京飯店に泊まってらして、天安 門事件に遭遇して、命からがら帰って来られて、その疲れで心筋梗塞を起こしてしまい、3ヶ月集中治療室にいて、九死に一生を得られた ということがあったのです。それまでずっと軽井沢の別荘で執筆なさっておられたのですけど、軽井沢の湿気が心臓に良くないっていうんで、村長さんに連れて来られて、「ここだ!」って言って、勘六山にお家を作っ たとこだったんです。
MY ちょっと質問なんですけれども、タイに行かれたのは何年から何年なんですか?
角りわ子 91年から92年だと思います。いや、92年から93年の初めかな。
MY 4年間修行されて清水焼みたいな。
角りわ子 あ、ごめんなさい、私の行ってた窯元のは朝鮮出といって赤土なの。今やってることにちょっと繋がる雰囲気ですね。いわゆる清水焼は、磁器で白くて豪華な柄が描いてあるっていう。私が行ってたのは朝鮮出っていう土を似たような感じの赤土を使ってざっくりした白化粧のものであったり、そういうものを作ってたんです。
MY 文学部を出られた20代の女性が4年、学校に行っている間はいいんですけれども、 4年修行されるって、20代のお嬢さんじゃないですか。すごく大変なことだと思うんで すけど全然、辛いとかいうことはなかったんですか。
角りわ子 仕事は楽しかったです。でも行くと職場は窓も閉まっているし、風が来ると器が片側だけ風が当たるから、割れちゃったりするから。真っ暗い洞窟の中で仕事してたので、ちょっと根性ないと保たなかったかも知れない。たまたま、とってもいいご家族で、普通もっと大きい所に行くと、ずーっと釉薬かけだけとか、ずーっと絵付けだけになるんですけど、そこは家族経営だったので、轆轤はやっぱり触らせてもらえないんですけど、それは家で勉強してて、後のことは全部やらしてくられたんです。それがものすごく今となっては良かった。最初はもっときれいな所に行きたかったんですけど。まあ、ええか、ここで頑張ろう、みたいな。
MY タイのチェンマイでされた時には角さんが指導をされる?
角りわ子 指導と、だからタイにある原料で和食器を作るということがまず最初だったん です。彼らが使っている土、釉薬もすごい不思議で、「この土、どこで採って来るの?」 と言ったら、「社長が持ってる山の、社長しか知らない場所から採って来る」って。「じゃ、 この釉薬は?」と訊くと同じく、社長だけが知ってる、社長の持ってる山のここ の場所の土を50%と、社長の持ってる山のカシューナッツの木を焼いた灰を50%で、 みたいな、意外にプリミティブなの。さっき話すの忘れちゃったんだけど、私がこっちにポンと来ちゃったのも、京都っていうのはものすごく技術は高いんですが、原料は殆ど採れないんです、今。だからいろんな所から原料を入れて、難しい仕事をして高く売る土地だったんですね。だから、タイに行った時に、それだけ自然のものを上手に使って均一な製品をあげてるって、ちょっと感動だったんです。足下のものや自分の身の回りのものを使うってことはすごいなって思って。
それがあったので京都から帰って来て水上先生の話があった時に、さっきの話になりま すけど、あ、ちょっと面白い、と。その時に水上先生が、「実は勘六山、長野県に北御牧 村という所があるんやが、そこの山に別荘を作って窯場を 作って、その窯場を長靴を履いて歩いてたらな、雨の日の翌日だったか、長靴の下にカス テラみたいに、こびり付く土があるんや。あれを焼いたらきっといい陶器になるで」って おっしゃったんです。その時に私は、でも素人のおじいさんが言うことだしな、って思っ て。それで「あんた、一度来て焼いてみなさい」と言われて。「原料代ただやで」と 言われて、俄然興味が出てきました。
その時、私は「分かりました。一回行きます」と答えたんです。先生がお帰りになる時に、先生のお家の百万遍の先の妹の所に泊まってたんで、タクシーで乗っけてってあげるよ、と言ってくださって、先生の家の方に向かうと、「ちょっとお茶でも飲んでいきますか」と。「初めて会ったのに、有名作家の所に、初対面で行くのもなあ」と思ったけど、私は田舎のエセ文学少女だったから、初めて出会った小説家という人の暮らしぶりがのぞいてみたくて、「どんな家に住んでるのかな、どんな本を持ってるのかな」と思って「じゃ、お茶を一杯だけ」と。図々しくも上がり込んで、そしたら先生のお宅でお茶を入れる準備し てたら、食器棚の中に、私が修業時代に、私の作品じゃないけれども、私の窯元で作った器が本当にあ ったんですよ。私の作ったものが。「先生、これ、私が作ったんですよ」と言ったら先生 も喜んじゃって。私もなんだかすごくご縁を感じて。その日はそのままお茶頂いて帰った んですけど、一回、また来ませんか、とお誘い下さったので、それでまあ、いいか、って。 それで来ちゃったら子犬を与えられて、何だか、ここにいることになっちゃったんです。 土をやり出したら、この八重原の土の面白さに私が嵌ってしまって。ちょうどラッキーだ ったというのは、水上先生は苦労して苦労して貧しい村に生まれて42歳で直木賞を取っ てやっとの思いで作家になられた方なので、私のように何もなくて、やる気だけある 人は何が必要かってよく解ってらして、先生の会社の社員にしてくれて、昼間は先生の 仕事を手伝って、夜、制作して独立しろって。「分かりました」って。それから八重原の 土をああでもない、こうでもない、と試行錯誤しながら使って今に至っているんですけれ ども。
MY 声を掛けられてこちらに見にいらっしゃいって言われて、リュックで来て、そのま まいたんですか?それとも。
角りわ子 そのままかな。(笑い)当時はもっと気楽にちょっとしばらく先生のもとでアルバイトをしてみようかな、くらいのつもりで。まさかこんなことになるとは思いもしてなかったです。当時あの、今の夫が東京にいたので、まあ、ボーイフレンドだったので。こんな筈じゃなかったんですけれども。ただ、私がタイで感じた、足下のものを使って制作するってことが、ここでは確実に出来たんですね。自分の薪ストーブの灰を使って釉を作ったり、八重原の土を自分で掘って水簸して。焼成窯は電気だったんですけれども、登り窯もやってみたかったけれども、それは絶対一人じゃできない。私は全部一人で仕事をしたくって、それで、焼成は電気窯で作ったんです。でも土は絶対にこだわろうと思って、掘り出したらその面白さっていうのかな、たぶん私の器がいいって言ってくださっている方は、その土の独特の感じが不思議にいいなと思ってくださっているのではないかと。それは私の力というよりも、ここの土の力だと思うのです。それから、えらい長いこと、そのうち先生の老人介護の世界に巻き込まれ、お手伝いをしながら結局12年間いました。
ちょうど何年か経った時に、私は先生の家の離れに居候しながら、お手伝いしながら、 自分の独立に向かって仕事していました。その時、元朝日新聞のカメラマン の槇野尚一さんという方が軽井沢で離山房という喫茶店をやってらして、その方が水上先 生の親友でいらして、お隣に土地を先生と同じ時に買ってもってらっっしゃったのですね。だけど、息子さんが癌 になられたりして、大変なことになって、もう土地を手放したいと。「先生、誰かいらな いかな」と言ったら、先生はパッと私の方を見て、「お前、お金、貯まったんやろう」 おっしゃったんです。「えっ」って、本当に私はちょうど独立資金のために、先生のお給 料をこつこつ貯めてたんですけど、ちょうど半分買えるだけ貯まった時に、「槇野の土地を買えるくらい貯まったんやないか」と。「え、なんで分かるんだろう」と。 だけど、私にしたら水上先生の土地でその土を掘ってたんですけれども、水上先生のご家 族にしたらここはあまり意味がない。奥様は東京にいらしたし、先生が死んだらすぐ売り 飛ばしちゃうと、当時思ってたんです。だから山の土を確保するためにも土地が欲しいっ ていうのは思っていたので、ちょうど渡りに船で、買っちゃったんです。ほんとにめちゃ くちゃな、何の参考にもならないですよ、私の生き方って。
司会 暮らしている所にある粘土を使うわけでしょう。
角りわ子 ただ、ここの土も全部同じタイプの土だと思います。基本的に同じだと思います。
司会 違う場所だと多少、粘土の質が違う訳でしょう。
角りわ子 もちろん、あると思います。上にある植物のせいで変わっちゃう。多分まあ基本の組成はここの台地の上はあんまり変らないと思いますけど。ずっと松が生えてた所と、ずっとクヌギが生えてた所では、葉っぱが落ちたり、成分が微妙には違う。ここって平安時代に渡来人の方たちが、いっぱい窯を作って、信濃国分寺の瓦も焼いてたという説があるくらい、実は千年前にいっぱい窯があった場所なんですね。須恵器とか。それがいつからかふっといなくなってしまったんですけれども、そういうこともロマンを感じていて、私が修行したのは朝鮮出という李朝の茶碗とか白化粧ものとか、全部、朝鮮出なので。日本の陶芸って豊臣秀吉が、李参平っていう人や、朝鮮の陶工を大量に連れて来て、そこでいろいろ原料を探させて、技術を改革したことで画期的に技術力がアップするんです。だから日本の陶芸っていうのも朝鮮から、中国で昇華して朝鮮から入って来たという歴史があって、その朝鮮の陶工の人たちが、もっと古くですけれども、ここに来て、みんながこの土を作っていたんだなと思うと、私はすごい素敵なことに感じてしまうんです。それもこっちに来てから分かったことなんですけど、この八重原の土っていうのはそういう歴史が実はあると。ただその後、桃山以降は多分1200度以上のすごい高火度焼成の世界に入っていくので、そうすると、ここの土って耐火度が弱いんです。それで私は廃れたと想像しています。陶工の人たちはもっと強い土を求めて移動して行ったと思います。
司会 水上先生のことが出て来ましたけれども、多分いろんな方が先生を訪ねていらっしゃったと、いろんな交流があったんじゃないかと思うんですが、そういう方と角さんが関わられたこともあったのではないかと思うんです。それはどういうふうなものだったのでしょうか。
角りわ子 そうですね。私はなんで水上先生の所に来たかなと思うと、窯をただで、山に 窯を持ってて、ただで使っていいって言うおじいさんだったことは確かなんですけれども、 (笑い)ただそれだけじゃなくって、私が京都で修行している時に、いろんな有名な先生 にもいろんな相談しに行ったりしたんだけど、皆さん世渡りのことばかりおっしゃるんで す。女性で陶芸をやりたいって言えば、「こういうふうにすればいいよ、焼き屋さんのお 嫁さんになりなさい」皆そういうことばっかり言うんです。ただ水上先生は初めて会った時に、芸術っていうものは、ものを作るっていうのは、こう いうことだっていうのを最初に教えてくれたんです。一番、水上先生が 著名な人だったけれども、ものを作る人がどういうふうに思って、どんな心がけで作るべ きかってことをちゃんと教えてくださったのは水上先生なんです。焼き物の人たちは生き 方、暮らし方ばっかり、それはもちろん大事です。だけど、ものをこれから作っ ていきたい私が、どんな心がけでどんな気持ちで作っていくのか、ということを、ちゃん と教えてくださったのは水上先生だけだったんです。で、水上先生の所にいって、秘書というか、そう いうことをしてたお陰で、ここに来る一流の人たちの仕事ぶりを沢山見られて、そういう 人たちに可愛がって頂けて、やっぱりすごい仕事をしている人たちはその根本に自分がど ういう仕事をしているかっていう、哲学があるんですね。そのことをきちんと考えなさい、 ということを、すごく教えられた。例えば、一番よくいらしてたのは植田いつ子先生っていって、あんまりマスコミにはお出にならないんだけど、美智子妃の洋服を40年間お作りになり続けられた方です。大変に著名なデザイナーで、当時70歳くらいの、とても素晴らしい方で、例えば美智子妃のこういうローブデコルテのこれのためだけに、新幹線に乗って京都の西陣織の方にこういうふうにやって欲しい、とか。また、タイに美智子妃が行かれるとなると、タイの籠の文化があるから、対して日本の竹籠のこういう上手な作家さんから仕入れて、日本にこういうのがありますよってあちらで伝えるという、考えられないくらいの心遣いをして、美智子様のお洋服を作ってらっしゃった。何かをやる時には全部自分で行かれるんです。そういうとても細やかな、一流の仕事をしている人たちは皆、水面下ですごい努力をしていられるのが、良く良く分かった。彼女は以前は向田邦子さんと仲良しだったから、一緒に盆暮れ正月を過ごしていらしてたんですけど、向田さんが飛行機事故でなくなってからは水上先生の方へ来られるようになった。だからとても可愛がって頂きました。アトリエでもいつも私の器を使ってくださって。畏れ多いことですが。 作家の方とかもいっぱいいらっしゃったし。歌手だと、皆さんよく知ってらっしゃる石川さゆりさんもよくいらっしゃってました。水上先生の小説のことを歌った歌、飢餓海峡とか、なんかそういう歌を何本も歌っていて。彼女は演歌の人だったから、文学の人とおつき合いするのはすごい楽しかったみたいですね。お子さんやマネージャーさんや、みんな連れて遊びに来てました。
MY 私も芸術の知人や友人を見てて思うんですけど、職人とアーティストは違うと思っ ていて、職人は100枚お皿を作りなさいと言われたら同じものを100枚、仕事として やってるので出来る。でも、アーティストは100枚お皿を作りなさいといったら、出来れば100通りのものを作りたい、なんかそんな違いがあるんじゃないかと思って、ただ、 アーティストだけでは生きていくことは出来ないから、職人とアーティストのバランスが やはりちゃんとお金も得て、やってくのが。角さんとかはおつき合いさせて頂く中でも、 職人としての修行がそこにあるじゃないですか。だからすごくしっかりしている。
角りわ子 なんか結局、何もなくアーティスト的に出た人って、逆に言えば技術が必要なんですね。釉薬もやっぱり科学的な知識がいるし、こういうふうな形のものを焼いたらうまく焼けないとか、基本的な技術が絶対にいる世界なのね。焼成っていうことも理論で分かってないと。一つことが出来るようになって早く独立しちゃった人って、その先がないんです。お料理でもそうだけど、一個は作れるようになるけど、その後で、いろんなレシピを展開していくためには、食材の知識がなきゃだめでしょう。同じで、釉薬も陶芸もそうで、学校を出た後、ぱっと作家として出て行った人って、周りでそれをやってる人たちを見てると、やっぱり伸びがないというか、作品がいいと思えなかった。これは何があっても技術の仕事だから、基本は絶対身に付けないと駄目だ、と。
だから料理人の修行と同じですよ。そういうのは古くさいですけど、やらないと多分、線が甘くなるし、アーティストになりたければ、その先の話。とにかく修行しなければ焼き物は駄目だ、と。陶芸と言われるものは特にそうかな、と。だってアーティストの人ってへたをすると自分の技術がないことが、100個出来ないことの言い訳になっちゃうので、それにはなりたくないな、と。絶対に技術を身に付けたいという思いがありました。
KK 今までどうやって作ってるんだろうって、不思議に思ってたの。今回お話しを伺っ て、思った通りだな、と。
角りわ子 とんでもないです。ありがとうございます。なんか、たまたまなんですけど、水上先生が精進料理を作られた時に、ここの山の土で採れたお野菜を、この山の土で作った器に盛り付けたら普通のほうれん草の煮浸しでも、じゃがいもの煮っころがしでも、こんな贅沢な料理はないでしょう、と。なるへそなあ、と。京都のすごい手のかかった料理よりも、地元のもので全部作ったものでやるっていうのは素晴らしいなあ、って、思っちゃったんです。
MY 元々精進料理は地産地消で、さらに器まで地産地消なんてすごい。
角りわ子 そうです。
KK 大豆でも、ここは御牧産のものが味噌でも醤油でも豆腐でも、同じようなものが流 れて行く中で、こだわって来たのは間違ってなかったなと思います。
角りわ子 皆さん、そういう方が多いんじゃないですか。たまたま前の村長さんが、定住者用の白樺団地とか、芸術むら区を作ってくれたっていうのは、すごいことだったと思うんですね。今となって思えば。あの時はすごくえーって感じしかなかったですけども。
KK あの当時はケアポートを作るにしても、反対とかがありましたけどね。
KY 私なんかも移住者なので、そのお陰で入れたんですけど。
MY 川上村の村長っていうのも有名ですけど、お話しした時に、「どうして北御牧にばっかり移住者が集まってるの」って言われることがあるんです。それってやっぱり一定の移住者ゾーンていうのを作ってくれたからで、いきなりない所に入るというのは、やっぱり出て行っちゃったとか。やっぱり小山村長が、反対を押し切ってやるんだと言って、勘六山周辺や芸術むらを作っていったから、今、コロニーというんですか、助かっている部分もあって。
角りわ子 そうですね。良かったですね。私も25年前か、来た時に、こんなに外からいろんな人が来るとは夢にも思わなかった感じですよね。
MY 東部町も玉村豊男さんが軽井沢から移住してきて、苗を植えて、ワイナリーを作っ たら、東御市内にも男の人が、ワイナリーが出来て、苗を植えるというか。
角りわ子 最初に来られた方が地盤を作っているというか。
司会 角さんは、もう26年目ですか。26年もここで作品を作られていて、その間の思いって変わって来たんでしょうか。その作品を作る時に、どんな思いで作られてきたんでしょう。
角りわ子 器に関しては、主人公は絶対的に食べ物であったり、花であったり、中に入る ものなので、私の意志とか、そういうものが邪魔せずに食べるものを、料理を引立た せることが出来るってことを、まず一番に考えています。それから、ここの土の良さを何 とか良く見せれるように、良い部分を引き出せるようにっていう、その2点を考えます。 ですから私自身のこういうものがやりたいっていうことも、もちろんあるんだけど、でも、 それよりもまず、主人公は中の料理だったり、花だったりということを主眼に置いてます。
必死でここの土を掘って作ってますが、まだそういう人っていないでしょう。八重原の土を使っているのは世界で一人、と いうか。嬉しいですよね。本当に、私がソウルでやったり、パリで展覧会をやったりして も、皆さん土の表情を良いって言ってくださるので、こんなの見たことないって。大体産地の 土、瀬戸とか、信楽とか、皆すごく沢山土が採れるんですね。粘りの強い良い土が。不純 物が取り除かれたきれいな土になっちゃうんですけれども、私はここで土を掘って水簸しているので、ご ちゃごちゃしたものもいっぱい入るんですけど、それがすごい渋みになったり、という、 これ、ちょっと見たことない、って言われるのはそのせいだと思ってます。だから唯一無二、大袈 裟だけど、東京でやっても、見たことない、って。だから良いって言ってくださるのは土 のお陰だと思います。だから、私はそれを引き出すっていう仕事をしているだけだと思う。 ここの土は薄くても、強く焼き締まるので、思っているより強い器ができます。陶器ってどうして も磁器より弱いのですが、普通より強いのが出来ていると思います。今は信楽の強い土も混ぜて、基本 は八重原の土の良さを引き立てるということをやってます。本当は八重原の土は7で、信 楽の土3でもいいんですが、私は数学が2で、3:7の計算が常に間違えるんです。だか ら分かりやすく50:50で調合しています。まあ、そんなような所もあります。あ、時間が来たらお帰りにならない といけないんですね。
AH はい、美術館のバスで帰ります。月に一回の送迎のバスがあるんです。
角りわ子 やっぱり産地によって信楽みたいに、産地でしか出来ない益子焼とか、昔からある所って土が採れる場所です。しかも、関東以北って陶磁器ってそこまでいい土が採れる所が少ないんじゃないかな。もしくは、長野に来て気がついたのは、今でこそ断熱とか出来るんですけど、昔は一年のうち半分は凍り付いてこれだけ寒いと仕事にならなかったんじゃないかと思うんです。だから九州とか四国とか、関西とか、零下にならない地域が圧倒的に多いですよね。北海道とか、少ないじゃない。多分仕事にならない。今なら出来るけど。なんだか文献とか読んでると、ええと、これは八重原通信っていうのを借りて読
んだりしたんですけど、御牧ケ原にもあったんだけど、こっちの方が、窯場は多かったらしいですね。四十何基もあったらしいです。不思議と思いません?ここに煙が上がってたって素敵じゃない?それを聞いた時はもう、わーって。昔は多分材料が採れた場所でやってたと思うんですね。流通は良くないので。
司会 これでちょうど1時間です。ありがとうございました。今日はせっかくお話しを聞いたので、皆さん感想があるんじゃないんですか。感想を頂きながら、角さんにお話しを
加えて頂くというふうにしたいと思います。じゃあ、逆回りで。
TY 水上先生なんかは本当に作家でいらっしゃって、芸術の本質的な在り方については 相当共感出来る、尊敬出来る所がおありだったんですよね。それがお話しの中でも相当強 く感じました。実際には、どういったやり取りがあったんでしょうか。
角りわ子 それはボコボコに怒られて(笑い)、死んだ方がましみたいに思うことが、いっぱ いございましたけど、ああいう方、やっぱり戦中戦後の混乱期を生き抜いて小説家になっ た方なので、今はああいう方はいないのかなと思いますけど、やっぱりただ者でなくって。会 ったことある?
TM 一度絵画館で、かなり最初の頃でしたけれども、お出で頂いて、皆さんと歓談の場 がありましたね。
角りわ子 やっぱりあの時代の人ってただ者じゃない人が多くって、その最後の世代の人 じゃないかなと思います。その後作家さんて、だんだんとこうネットでやり取りしたり、 FAX をしたりするようになりましたけど、水上先生のすること、谷崎潤一郎に見出され、 小林秀雄の薫陶を受けて直木賞を取って、でもあの頃はもう直木賞作家ってスーパースタ ーだったから、それも私が生まれた頃の話だから、だけど、人格的には本当、神様も仏様 も悪魔も意地悪爺さんも、全部同居していて、こんな人あったことないっていうくらい、凄まじい 人格の多面体で、だから叱られる時はもうボコボコに叱られましたし、でもすごくおちゃ めで可愛い所とかもあって、何とも不思議で魅力的な面白い人でした。私なんか、さっきも言いましたが、田舎の似非文学少女だったので、なんかご飯作って 食べてる時に文壇の裏話とか聞くのがすごい楽しくって。小林秀雄さんと講演に行った時 の話とか、柴田錬三郎さんと女を買いに行った話とか。そんなのいろいろ聞いてたら面白 くって。私が会った時はもうおじいさんでしたけど、もう若かりし頃は大もてだったと思 います。なんか人を、人たらしっていうか、占い師のおじいさんみたいに、編集者の若い お嬢さんが来ても、ぱっと「あんた、バツイチやろう」って見抜いちゃうんです。それで、 たらしちゃうんです。でも、先生のことが大好きな人が沢山いて、本当に私は世代がちょ っと若すぎて、もう村上春樹とかの世界ですから、そんなに思わなかったから、ただ、や っぱり人としてはただものじゃなかったです。大変面白かったですけれども、ボコボコに も叱られてたから。
ただやっぱり芸術家としてはすごい人ですね。死ぬほど水面下で努 力しておられた。朝、「おはようございます」って行くと、必ずここ(枕元?)に、いつ もいつも夏目漱石や太宰治の文庫本が転がってました。だから夜中にまた自分の原点であ る太宰治や夏目漱石の本を読んでるわけです。幸田露伴とか。ああ、すごいなあ、と思っ て。もう「私は才能がない」ってずっと言ってて。先生はしょっちゅうしょっちゅう言っ てた。「そんなことないです」と、いつも励ましてました。(笑い)娘さんがたまにしか来ないし、奥様も全然来なかったので。
TM 人たらしという所で、先生が竹紙のですね、小山久美子さんが竹紙を作られてまし たね、そういう地元にも大きなきっかけを作られた
角りわ子 ここでも竹の紙を、高橋さんが習いにいらして、当時竹って邪魔だったじゃないですか。竹炭は作ってたけど、あれを紙にまですれば、いろいろ使えるというので。
KY タイのお話しと、この八重原の自然のエネルギー、角さんのパワーも入っていると 思いますが、自然のエネルギーがすごく感じられました。改めてこの八重原の自然に感謝 して、これからも大事にしたいと思います。今日はなんか、基本がすごく大切だというの が心に残ってて、きちんとした技術がないと形も作れないし、釉薬も科学的な知識もない ときれいな色も出なかったりとか、ちょっとだけ分かったような気がして、すごい良かっ たです。ありがとうございました。
角りわ子 どうしても分からないことがあった時に知識がないと改変できないんです。その技術的な知識が絶対必要なんです。なんでっていうと、最後に焼成っていうのがあるんで、焼き物って、上手くいってたら窯の神様のお陰で、失敗したら自分のせいで、なんかとても謙虚になる。釜に入れたら自分の手を離れて、あの感じが私はすごく焼き物の好きな所なんです。最後まで自分で作ったって思わなくっていい。自分自分じゃなくていい。手が離れるから。だから失敗するとああ、失敗した、となるけど、上手くいくと、ああ、神様ありがとうございます、って。私は信仰は全然ないんですけれども、いつもそういうふうに感じるのです。常に謙虚な気持ちに自分がやってる作業でなれるっていうのが、多分、野菜を育てたりするのと同じことだと思うんです。それが出来る所がすごくいい。うただ、そういうことに立ち向かうためにも、基本が分かってないと絶対に改善出来ない。だからそこはいつも大事にしたいなと。
KK 私もこの間話した時に、縁というのを話したんだけど、人の出会いとかね、それを 生かすか生かさないかは自分次第だし、それをすごく感じたし、私もこの土地にお嫁に来 てね、千葉からお嫁に来て、市原なんです。本当に巡り会いってね、すごくそう思うし、 生かす生かさないは自分次第だし、動かす自分が動かされてるなっていうのがやっぱり角 さんからも感じているし、すごいなあって。いいなあって。
角りわ子 人間ってそういう所があるなあっていうのは思います。私はラッキーだ ったなあとは思います。ただ、誠実に何かを求めて行くと、何かが来るような気がします。 本当に信心はないんですけど、そんな気がします。後ろを見たら「え!」っていうような 綱渡り人生なんですけど、結局こうやっていいものに出会って。でも基本に自分がこれで 絶対にぶれないってものがあるからかな、とは思います。
YY すごく努力して来られたんですよね。
KY 私は月に一回、角さんに陶芸を習いに行ってるんですけれども、だめだめ生徒で、 ここはちょっと厚いから削り、と言われたらいつまでもずっと削ってて、穴が開きそうに なって。そんなのを直して頂いたり、いつまでもやってると今度は乾いてしまってひびが 入っても、「大丈夫、大丈夫」って直して頂いたり、何を訊いても、私くらいの知識のな いものに対しても、すごく詳しく教えてくださるんですよ。いろんなことを越えて来られ てのことなんだなあって思って、良い方に出会ったなあと感謝してます。
角りわ子 水上先生は、植田いつ子先生の関係もあって天皇陛下にも竹の紙を献上にいっ たり、美智子様が皇居で摘んだ竹の皮を自分で紙にして持って行ったり、そういうことを しているかと思えば、共産党の不破書記長とも友達だったり、それは心筋梗塞繋がりで、 政治的な繋がりじゃなくて、あの方は奥様がファンで、よく遊びにいらしてて。かと思う と、先生がある時「角くん、今日九州から宮下って男が来るんや。その男は『この橋まで』 っていう小説のモデルになった男で、二人殺しで死刑囚だった。それが恩赦になって出て 来て今、四国にいる。その人が監獄の中で自分のことを先生が取材して書いてくれたって ことで模範囚になって出て来て、新聞の配達員をやってて、その男が訪ねて来るからもて なしてやってくれ」って。だから、なんていうのかな。先生って、天皇から死刑囚まで、 そういう言い方は悪いけど、みんな均等にちゃんとお付き合いなさるんです。私それは素 晴らしいなと思って。その宮下って人は先生のことを支えにして、自分のようなものに光 を当ててくれた、と。彼は大変貧しい出で、村ですごく差別を受けて、そのせいで心が歪 んで人を殺してしまったと。もちろん、人を殺したということは駄目だけれども、そうい う悲しい出来事があってということを小説にしてくれたと。『その橋まで』です。そうい う水上先生の姿勢っていう、どんな人にも同じように接する所。それは素晴らしいなあと 思って、私もそうあるように心掛けたいなと。出来てないけど。思っております。
OK 私の方では角さんの器を3枚、常日頃使わせて頂いてます。和洋併用出来る器なん で、やっぱりいいんじゃないかと思いますね。それでどっちかというと肉じゃが用とスパ ゲッティ、両方いけるんですよ、本当。そういう職の楽しみを内輪で楽しみながら食べる というのは、とてもいいと思います。
OY 本当に3枚しかないんです。
角りわ子 充分です。(笑い)
OY それもアートフェスティバルで買ったんですが、本当に毎日のように、夫が言った ように、何でも入れます。
角りわ子 なんでも盛れて、重なりがいいとか、しまい易い、それに出来れば若い人にも 使ってもらいたいと、地元の人にも使ってもらいたい、それでアートフェスティバルの時 は叩き売りしちゃう。(笑い)地元の人からしたら自分の所の土を使っているものがすご く大事だと思うので、それが大事だということを知って欲しいし、一つでもいいから使っ て頂いて、自分の野菜を育てて、それと同じにやって欲しいというのを常に思ってるので そこだけは毎年出してるんですけれども。
TY アートフェスティバルに是非来たいです。先生にパソコンをお教えしている時に、 「ここのメールは開かなくてもいいんですか?」と聞くと、「男のメールは開きません」 とお答えになりました。(笑い)
司会 鋭い。
TY そういう所がすごくおちゃめだし、とても素晴らしい方だと思いました。だけどや っぱり別世界だなと思ってました。お皿はまだ持っていないので、そういう意味でまた楽 しみたいと思います。本当にありがとうございました。
AH 突然こんな所にお邪魔して、申し訳なかった気持ちです。先週の日曜日に NHK のテレビを見て、それでここの美術館のことを知って、ああこれは是非見たいと思って、その日にバスの予約をして、一週間後に送迎のバスがあると聞いて、それで来てみたらもちろん、絵も素敵なんだけど、この手入れの良さと緑の美しさはなんだ、と思って。フラフラ歩いてここに来たら、隣にいらして。
OY さっき知り合ったんです。
TY そうです。そこで。千葉の市川って聞いて、私も市川って、そこでお話しが出て、 それで、そこで2時からあると小耳に挟んで。私は陶器が好きで、どこかに出掛けると必 ず記念になる何か、花瓶だったり買うんです。今日もそこの美術館で可愛い一輪挿しがあ ったので、それが先生の作品だったら嬉しいなと思いつつ、でも、この土地のお土産だか らと思って。でもまたこんなお話を聞けて、先生のお人柄も今日いろいろお話し伺えて、 やっぱりそういう繋がりのある器が一つ保てたら本当に財産だなと思って、買える楽しみ があるんでしょうね。10年後であってもすぐそこの土地のことだったり、空気のことだ ったり、そこに繋がって来るので、縁があったら私も仲間に入りたいなと思いました。 今日は本当にありがとうございました。
角りわ子 あの美術館は皆で応援してるので、知る人ぞ知るすごい渋い、一般の人には分 からないかも知れないけど、もう美術に造詣の深い人だったら、「え、こんなコレクショ ンがこんな所にあるの」と思うくらい、渋い、素晴らしいコレクションなので、それをも っともっと知って頂けたら嬉しいです。
司会 ご縁ですね。
角りわ子 これぞ、ご縁ですよね。ありがとうございました。
MY 私も2000年の5月に移住する先を探して、ここを通りかかって、「ここに住もう」 と思って土地を買って家を建てたんですけれども、実は千葉県の浦安市で、受け狙いで、 結婚した時は浦安のマンションで、結婚した時に本籍地を自分たちで決めま。す浦安市舞 浜1の1っていう、ディズニーランドに本籍地を持っている気違い家族です。戸籍って統 合してないので、皇居に置いてもいいんです。戸籍があるからってそこにただで入れる訳 ではないです。ただの受け狙いです。本籍地、ディズニーランドですって。こちらに引っ 越して来て16年になるんですけれども、本籍はまだ移してなくて、パスポート取るとき だけちょっと郵送して戸籍謄本を取ったりするんですけど。角さんの、家はお茶碗を七客 家族分ですね、義理の両親も京阪にいるので。私はこの3月まで紅茶の輸入のネット通販 の会社を経営してて、3月に譲渡したので、今はフリーなんですけれども、その時のご縁 があって角さんに八重原の土で八重原カップを作ってもらって。家の子供が高校生の頃は 同級生を連れて8人くらい来るんですね、全部八重原のカップで、ミルクティーを出して、 「これはここで作った陶器で、土から作った陶器で、八重原の水で紅茶を入れると美味し いので」ってお客さんをもてなして。何よりも茶碗ですよね。八重原米を頂いているので、 八重原米をやっぱり八重原の水で研いで炊かないと美味しくないんですよね。都会の水で 炊いても美味しくないんですよ。それで、八重原の茶碗で食べる。それが、たぶん水上先 生が標榜しているであろう、人間としての最高の幸せ。私はちょっと専門が経営学なので。
角りわ子 ありがとうございます。MY さんがいろいろ言ってくださったので、助かりま した。ちゃんとした話が出来なくてごめんなさい。
司会 でもお話しがとても良かったと思いました。水上先生は他界されてますけど、角さんを通じてなにか見えるじゃないですか。こんな方だったんだっていうか。その方の息遣いがわかるというか。そういう人の繋がりとか、ご縁でみんな生きているんだなとか、そういう所を感じたと思って。
角りわ子 水上先生って勘がすごくいいんですよ。ああいう方なんで。最初に車でいろん なとこに連れて来られて、ここの八重原を見て、「ここだ!」と思われたらしいんですよ。 だからここの土地を巡っているいい気配みたいなものを感じられたんじゃないかなぁと。 それと水上先生は竹林が欲しかったの。竹の紙、漉きたかったんで。それもあったみたい。 水上先生はどっちかというと竹の紙の方が本業なんです。必ず別荘を作ると、竹の紙の工 房後と陶芸を、陶芸は趣味だったけど、竹の紙はライフワークでやってらして。私よりも 先に小山っていう先輩が先に入っていて。「私には陶芸の先生になってください」って言 ってたくせに、こっちでは小山さんに「一人、京都から奴隷を連れて来ます」(笑い)と 言ってたそうです。根性ありそうな子を連れて行く、と。私は当時やる気満々でしたから。制作し たくて。中国の兄弟の陶芸書があるんです。古い。そこに竹の紙を漉くっていう、ここで はいろいろ漉かれているけれども、台湾では、一年であれだけ伸びるから、原料としてい いって言って、竹を使おうということで紙を作ってたんだけど、それに防虫性も強くって 昔は仏教の教典とかに使われたんですって。竹の紙って。保存が良くって。だけど、柔ら かくして紙が漉けるまでにするのに、ものすごいコストもかかるってことで廃れちゃった みたいだけど、水上先生としてはその竹の紙に惹かれ、それはなぜかっていうと、水上先 生が生まれ育った場所が竹やぶの横で、その竹というのが自分の原点にある植物なんで、 それで自分の原稿用紙も竹紙にしたいっていう、いろんな野望が昔からあったみたいで。
MY 北御牧小学校は卒業証書で、全学年じゃないんですけど、ある学年は自分で竹紙を 漉いて、それを印刷してくれる所が特別に上田にあって、卒業証書が竹紙だった学年もあ ったらしいです。A4のサイズだと名刺にも出来るので。
司会 こういうふうに角さんが話されることってあるんですか?
角りわ子 一回だけ話したことがありますけど。東御市の公民館の横のサロンで、一回お 喋りしたことがあります。死ぬかと思いました。(笑い)五、六十人いました。こんなふ うにフレンドリーに皆さんとって訳にいかないから、一人でずっと喋ってた。
MY 反応がないと哀しいんですよね。
角りわ子 そう、そうすると途中から、関西で長く過ごしてたので、笑いを取る方に(笑
い)気合いが入っちゃって。だんだん別の話になっちゃって。
司会 やっぱりなんですか、水上さんは天才、ですか。
角りわ子 天才。だから、本当の意味での天才ではないんじゃないかと、文藝の評論の方 とかはおっしゃるけど、まあ大衆小説作家ですから。でも私が直接出会える限りでは最も優れた人だと思います。あと本当に口だけじゃなくて、すごく努力してらしたので、暇さ えあればそういうことをしてらしたし、ああいう所のすごさっていうか、すっごく勉強し てらしたし、たった1行の小説の、その明代の女性の描写のために、かけずり回って、京 都から何から資料をいっぱい探して、たった1行のために、「もう、どうでもいいじゃん」 って思っちゃうけど、先生は絶対にここを曲げたりしない。だいたい怒られる時は〆切前にきりきりしてる時で、普段はわりと好々爺でしたけれども。ここに、朝、「おはようご ざいます」って行くと、タイトル、水上勉。あと真っ白、という(笑い)「ああ、やだな」 と思うと「ああ、私は才能がない」と言ってらして、「そんなことないですよ」と言うと、 「これはなんですか」ってやられて。そんなのしょっちゅうやられてました。
司会 障子の桟とかに埃がついてるとか、怒られたりとかは?
角りわ子 そんなのしょっちゅうですよ。だからあんたは嫁に行けない、とか。
TY きれい好きでいらした?
角りわ子 子供時代、9歳でお寺にやられている方ですから。
MY 精進料理とかもやられている方は、精進料理は料理する前に全部きれいにして、材 料が下に落ちても絶対それが汚くないように、だから全部きれいじゃないと。私は出来ま せんよ。それが精進料理を作る心得なので。
角りわ子 それで、裸足で歩くわけ。ざらざらしてる。って。(笑い)たとえば家政婦さんを頼んでも、保たないんです。恐いっていうか、先生も保たなくて、神経質なんで。なんか他所の人が家の中をうろうろしてるのが。それに保ちこたえたのが小山さんと私だけだった。ボコボコに言われても。夜中に、先生が人が寝てから仕事をしろっていうから、 夜中にやってたら、母屋の電気が3時ころに点いてて、「あ、まだ起きてるわ」と思って なんかあったのかなと思って。心筋梗塞を起こされてたから。玄関で「先生、大丈夫です か」って言ったら、「こんな時間まで仕事をして、お前は守銭奴か!」とか言ってすっご く怒られて、「いや、先生が人が寝てから仕事しろと言ったから」(笑い)「そんなこと、 言ってるんじゃありません」とか、それから延々と説教ですよ。やはり作家で人を見る目 がすごいから、私がこれを言われたら傷付くということもよく知っていて、玄関で土下座 して、「すいません」ってずっと謝ってた。で、「すぐ出てってください」「すぐ出て行き ますが、今夜中の4時です。これではすぐには出て行けませんから、明日の朝まで待って、 片付けて出て行くので、それでいいでしょうか」って。「それでいいんです」で、ばーっ と入って行って。その前の日から、タイトルのままの原稿用紙があるのが分かってたから、 注意はしてたんですけど、やられちゃって。それで朝になって、どうしようかな、出て行 かなきゃならないかな、と思って、お昼頃になったら先生が台所をなさって「りわちゃん、 おうどん食べない?」「えーっ」て。恐る恐る台所に行ったら「りわちゃん、おうどん作ったから 食べましょう」って。「原稿、書いたよ」って言って。(笑い)たまらんわ。最初はすごい 傷付いたんですけど、だんだん、締め切り前にこうなることがわかってきて。病気もなさってたし、きつかったと思うんです ね。そういうふうにすごく厳しく、たった1行でも何時間でもかけて書いてらしたから。 もう、すごかったです。そういうのが耐えられない人はね続かなかったみたいです。私はわりと辛抱強かったんで す。
MY 先ほどもお話しに出たんですけど、先生は食事を作って角さんたちにも食べさせて くれたんですか。
角りわ子 そういう時もあります。忙しい時は私や小山さんが作ったり。
MY それでも精進料理をされてるんで、先生の作る料理は美味しかったですか。
角りわ子 美味しい。ていうか、煮物もぼんと置いて火にかけただけとか、なんか、いら ないことをしないんです。だけど、その後で先生が美味しそうに、にこにこ笑って盛り付 けて、ぼんと出して、「庭で穫れたじゃがいもやで」というだけで美味しくなっちゃうん です。だから料理っていうのは内容だけじゃなくて、器も然りだけれども食べる時の匂い だとか、出す人のもてなしたい気持ち、だからそういうのを自然にやってらしたんだと思 う、たぶん。一回、誰かお客さんが来ると必ず、小豆を炊いてお迎えするっていうのを先 生はやってらしたんですけど、だんだん年取って来て、ある時、間違えて、大量に塩を入 れて、(笑い)編集者の人が来て、いざ出そうと思って味見したら、「しょっぱい!」それ をまたゆすいで砂糖をいっぱい入れたりとか、そんなアホなことをしてましたけど。いつ もそうして小豆を炊いて迎えてあげるんだという、そういう心配りはすごいと思いました。
MY 私はずっとミナカミツトムって読んでたんですけど、ミズカミって読むんですか?
角りわ子 関東では大体、水上って書いて、ミナカミって読むんですね。でも本来は福井 ではミズカミっていうらしいです。でも東京に出て成功して、勝手にミナカミっていう、 奥様も銀行通帳は全部ミナカミって。それであるときから先生が、「私は本当はミズカミ って言うんです。だからルビもミズカミにしてください」と。ってことになって、奥様は 怒ってました。「全部ミナカミになってるのに、ミズカミって言われると面倒くさいのよ」 って。
司会 今日も、いい時間になりました。角さん、本当に貴重なお話しを聞かせて頂きまして、ありがとうございました。皆さんでいい時間が作れたなって思います。ちょっとね、拍手でお礼を。(拍手)