第3回知恵蔵の時間 水科勝吉さん

知恵蔵の時間 第3回  講話 水科勝吉さん

「オウム闘争と村民の団結」

2018年7月22日 14時~

於 まる屋  司会 小林恭介  撮影 橘正人

司会 2時になりましたので始めたいと思います。皆さんお集まり頂き有り難うございます。この知恵蔵の時間は、地域に詳しい方とか地域に関わりを持っている方々に、北御牧のお話しをお聞きしようというという趣旨で、そのお話しからまた、この地域を作っていくヒントがあるかも知れないなという思いで始めています。今回は三回目。ちょっと吃驚したんですけれども、このタイトルと打ち合わせが決まったのが、約一ヶ月半くらいでしたよね。今回そのオウム事件の話でということでこの企画をしようということになったんですが、その後みなさんご存知のように、社会的にもニュース、新聞等でも出ていますが、松本智寿夫死刑囚を含め、七名ですか、死刑が執行されたということで、それをどういうふうに捉えるのかはみなさんそれぞれ違うかも知れませんが、それに関係して北御牧地区でもオウムに絡む事件というんですか、それがあったということが、私はここに住んで3年目なので良く知らなかったんですが、そういうことが約20年前にあったということをお聞きして、こういうお話しはちゃんと地域で、そこに関わったみなさんからお話しを聞いておかないといけないんじゃないかなと思いまして。その時に中心で活動されていた水科さんにその時にどんなことがあったのか、どういうことを感じられたのか、なんでこの地域はそこまで団結できたのかとか、そんなお話しが聞きたいなと思っている所です。せっかく集まって頂いているので、簡単で良いのでお名前と、どんなことを聞きたいのかを一言ずつ頂きたいと思います。そうしますと水科さんもお話ししやすいですし。私もこういう質問が出ていますので、その辺はどうですか、とか訊きたいなと思います。

   私は小林恭介といいます。よろしくお願い致します。妻がこのまる屋というお店をやっていて、あまり手伝っていませんが、こういうふうに時々来ています。僕はここに住んで3年目なんですけれども、オウム事件があった時に、すごくみんなが団結して闘ったということを聞いて、どうしてそういう力が出せたのか、なぜそこまで出来たのかな、ということをお話しが聞けたらなと思っています。

TY TYと申します。水科さんはかなりこの村で大きな存在で、みなさんの尊敬を集めていらっしゃる方ですので、一大事件の時にどういうふうにお考えだったのか、どういうふうに決断されたのか、お話しを伺いたいと思って参りました。

TM TMと申します。オウムの時に私はちょうどこの村と関係が出来たばっかりでしたけれども、会社が銀座にありましたもので、丸ノ内線で通っていました。その時に地下鉄にサリンが撒かれたという事件がありました。もしかしたら私が被害者になっていたかも知れません。時間的に微妙なずれがあって元気でいられるということなんですが、その日は本当に、上空にヘリコプターがブンブン飛んで、本当にどうなったのかなと思いました。後になってこういうことがあったと分かりましたけれども。そんなこともありまして、是非こちらの北御牧村のオウム闘争には参加したいという気持ちがありました。特に、この村の人がもし三途の川を渡る時に、向こうで待っているお母さん達が「おまえ、いったいなんだい」と言わないようにと、そういうことを念じて、何か協力できるものがあればと、こういう気持ちで協力いたしました。それで水科さんと私とはずっと、戦友のような気持ちでおりましたので、よろしくお願いします。これは「テツの団結 182日間の闘い」で村のオウム闘争の記録集です。私も寄稿させていただきました。お廻しいたします。

OY OY本と申します。この近くで夫と二人で農園をやっております。二年くらい前に明神館のお風呂に入りにいった時に、たまたま私ともう一人の方しかいらっしゃらなくて、何の話からか「オウムが御牧原の方になにか行動を起こした時に阻止した」ということをお風呂の中で伺って、ずっと気にはなっていたんですけれども、他からはそういう話が入ってこなかったので、うーん、と思っていた所に今回こういうお話しがあるというので、気になっていたことでもあったので、今日はとても興味深く、お話しを伺いたいと思います。

NM 私は大日向に住んでおります、NMと申します。私もオウム阻止のほうに参加した人間で、その時はちょうど単身赴任をしておりまして。松本サリンがあった時にちょうど松本にもいましたし、2011年にも帰って来ればまた、ということで、全員ですね、そういう記憶がございます。あの時の北御牧、あれだけまとまったんですよね。近隣の立科町まで、合併する前ですから、それぞれにまとまってその阻止に協力してくれたと。あれだけまとまる力があるんだから、今少子高齢化でこの北御牧地区を活性化させようという、まあ、定年になりましたもので、言えるんですけれども、これだけの団結力があるんだったらこっちの方も団結できないのかなあと、かすかな期待を持っているんですけれども。なかなかこれは難しいなというのが実感ですけれども。いろいろ取り込んで、なんとか活性化を、人口を減らさないようにしていきたいなという気持ちで頑張ろうとしている所です。今回もそんな気持ちがあって水科さんのお話しを聞いて、自分にも活力を思い出させて頂きたいと思っています。よろしくお願いします。

NW   NW申します。北御牧の方には11年前から土地を借りて半々、こっちが多いですかね、少し野菜を作ったりしています。場所が、タクシーを呼んでもなかなか分かり難くて、でも、なんかオウムの何かがあった所のようです、と言うとすぐ来てくれる(笑い)老人ホームの所にオウムの何かがあって土地の人は大変だったんだよと、そういう話だけ聞いていますけれども、詳しいことは分からないので今日は楽しみにしています。よろしくお願いします。

NM    夫です。今年の8月で丸11年です。最初案内を受けた時に、空気はきれいだし、緑に囲まれて別荘地としては最高だと。一目惚れして11年経った訳ですけれども、しばらく生活しているうちに、あそこがオウム真理教のなんとかという一つの施設だったんだよ、と聞いたんですね。その後すぐ隣に温泉がありますから、そこに行って別にこっちから切り出すこともなく、いろいろ話を断片的に聞いて、地元の方もいろいろ苦労されたんだなあということをそれとなく感じ取ったんですが、この度こうしてお話しがあると言うことで、詳しいお話をぜひお聞きしたいと思ってお邪魔致しました。

UM UM申します。高円寺に住んでおりましたが、この二人がこちらにおりますので、東御に家を建てまして、来たばかりなんです。よろしくお願い致します。

UK UKと申します。北部です。東京なんですけども22年に北部に定住したので、今8年目です。オウムの件は土地探しをしている時に、こういうことがあったという話はお聞きしてたんですけれど、オウムがもともと分からないで拠点を建てたわけですよね。それが、どうしてオウムと分かったのか、追い出すってすごく大変だと思うんですけれども、そのあたりはどういうふうに進めていったのか、というのをお聞きしたいと思います。よろしくお願い致します。

UM 家内が言ったように東京からです。マンションを全部売っちゃってこちらに来ました。その残った金でこっちに来ちゃって家を建てたっていう感じなので、土地の購入から何から全部その場でやりくりしたものですから、借金して生活してますけれども。北部区で区長をされている水科さんのお話しを改めて聞き直したいなと。

水科勝吉 なんか身内ばかりだな(笑い)

UM いえいえ、なんでみんな来ないのかなと思いますよ。楽しみにしてますのでよろしくお願い致します。

OK OKと申します。ここから5分くらいのところにおります。11年前に家を建てて、ただ、定住じゃないんで、千葉の市川とここを行ったり来たり大体毎週帰っているという生活です。ちょうどオウムの事件のあった時は、まだバリバリのサラリーマンで、東京で仕事をしました。僕は仕事柄、地下鉄じゃなくて、JRという形だったもので、たまたま事件に遭遇しなかった。そういう事件がある時に、この場所も候補に挙がったということを聞いて、どういうことかなということを聞きたくて来ました。楽しみにしてます。

 司会 自己紹介が終わったので、どんなことが起きたのかということを、みなさん捉えたいんじゃないかと思うので、出来れば時系列的な感じでご説明頂ければ有り難いかなと。

水科勝吉 すいません。改めまして、向こうの御牧原台地に住んでおりまして、仕事は設備屋をやっております。今年は区長もやらさせていただいてます。小林さんも、みなさんも、応援隊にきてくれたのかなと思って。そんなに詳しくは出来るかどうか分かりませんが、またトーク方式でいろいろね、言ってもらえればいいかなと思います。

 まず、平成11年、いや平成10年の12月くらいに、今の施設があるんですけれども、そこにパネル、工事用のパネルをまず貼り出して、でもあそこの所に工事やるのにそんなパネルでこう、囲ってまでやるような所でないもので、近くにいる人たちが、上九一色のこともあったりして、そんなことじゃないかってことだったんですけど、それが初めなんです。まずここの地域っていうのはお互いに溶け合うっていうかね、農作業もそうですけど、一番は養蚕がうんと盛んだったんですね。で、養蚕というのは繭を作るのに早くやらないと繭を作っちゃうから、駄目になっちゃうんですね。それをみんなでやるから、すごく忙しい訳。殆どの家が蚕を飼ってたんですよ。八重原の所に天空の芸術祭の会場がありますよね、昭和39年、飼育所って書いてありますよね。あそこでうんと小さい蚕を全員で共同して飼ってちょっと大きくなったら、だんだんみんなでやっていったというね。39年って、ちょうど俺が高校を卒業する年だったけど。東京オリンピックの年だよね。

 そんな地域で全体がお互いが助け合っていったから、お金を貰ってってことではなくて、又自分の所も忙しくなるから、またその行った人たちが助けに来てくれるってことで、オレたちの昔の言葉で「ええっこ」って言うんですけどね、お互い様ってことで、お互いに助け合うってことで、そういう昔っからの習慣があるもので、今回もオウムにね、騒動のことも、ちょうど最終的には12月27日、その日から北部区で警戒を始めたんですね。その前の日に、あそこの施設にオウムの人たちが二人入って工事をやるって始めたんですけど、どうもおかしいってことで、村の方もあそこは鉄鋼会社の寮ってことで、まず一番先の建物をなんのために作ったかというと、あの地域にいる人が、民宿をやるってことであの建物を作ったんですよ。すごく大きい建物だから資金が足りなくなっちゃって、建物は建てたんだけど、内装とか出来なくて、ある鉄鋼会社が買い受けて、完成させてその会社の寮ということで作ったんですけど、このところに地図もあるんですけど、すごく個室がいっぱいあるんですよ。そんなことでそれを、なんかおかしいんじゃないのって話しがあって、村の方でもいろいろ調査したら、その鉄鋼会社が他の所に転売しちゃったということで、で、転売して、何社も転売して複雑になっちゃった。ぜんぜん追い付かなくなって最終はまあNという会社がそれを買ったということで、その人は、調べたら、オウムの顧問をやっていた人なんですよ。

 これはもう危ないってことで、それから二日くらい経ったらもう工事やるってことで、二人、入り込んで26日からずっと延々と5月の23日まで、解決するまでみんなで警戒をしたってことなんですけれども。最初のうちはみんなもやんなくちゃいけないっていう気持ちでいるんですけれども、2ヶ月3ヶ月になってくると24時間態勢ですから、で、3交代ですから、延べでいくと千人くらいですか、3カ所でやってたもんですから、だんだん地元の人も大変になって来ちゃって。まず北部区がその対策を始めてて、あと村のみなさんにお願いして各区で順番に出てもらったんだよね。オウム真理教というのはそれだけの凶悪なことをやっていたから、まず、こんな北御牧に入られたら大変だ、ってことですごくみんな団結力というんですか、それでずっと365日24時間て感じでやんなくちゃ駄目ってことで。村の中でも、あの時まだ7千人くらいいたかな。まだ小さなとこだから、あとは近隣のみなさんにお願いして。丸子、上田、東部、小諸、全部この近隣のとこに、全員でまた出てもらって乗り切ってってね。そこまでやったんですけど。今は震災だってみなさんボランティアで行ってもらったり、物資を提供してもらったりと、同じような形で、あそこをみんな献身的にして頂いて。

 まず一番大変なのは、夜の12時から8時まで、その警戒の時間の人たちが一番大変だったんです。焚き火をして全部警戒に当たってくれたんですけれども、もう寒いから、あそこの前にもうやってない工場があって、そこにストーブを置いて、仮眠してもらえるように作ったり、そんな施設も作ったんですけど、「俺たちは喧嘩に来てるんだからそんなとこで休めない」って全部焚き火の所でやって頂いて、ぜんぜん未知のことだから、橘さんもさっきおっしゃったように、周りを全部壕を掘ってやったなかで、橘さんが今井?

TM 今村さんです。防衛庁の、自衛隊のOBの方で、松本連隊という所で部下の方に陣地を構築する専門家がいて、その人に設計を頼むという話になったんですよ。設計図を北御牧にお送りしたら、この素晴らしい(当時の写真を提示)出来上がりでやってくださったものだから、「これじゃあ、どんな時でも来られない」というお墨付きを頂いた素晴らしい出来でした。

水科勝吉 実際はそういうことで、みなさんにいろいろなことを協力して頂いて、まず、ヘリコプターできたらどうしよう、ってことで、後ろの広い所を全部ロープを張ったり鉄のものを置いたり、ドラム缶を置いたりなんかして、緊急の対応もしていたんですけどもね。

TM ヘリコプターは若干の場所があれば降りられるんですけれども、あそこに降りろと操縦士に言ったとすれば、なんとか降りられるんで、それを放水を掛ければ問題ないということだったので、消防の放水訓練だ、ということでヘリコプターが飛んで来て着陸態勢になろうとしたら放水訓練ということでやれば、着陸できないというようなこともこちらの方もお考えだったですね。それから、ロープを張ればそこには着陸出来ませんので、そういう知恵も素晴らしいことだったなあと思っております。

水科勝吉 あれもねえ、今の放水するっていうのも、でもあれ、水圧がなくって届かないよね。実際はさ。でもね、何か準備してると気が休まるっていうか。ヘリコプターも降りてくればってことで柱を立てて、で、ずっとトラロープを張って、ワイヤを張ったりして、降りれないような形で。でも、ただ報道陣がすごくて、特に外国のBBCとかワシントン ポストとか、ルモンドとか、いっぱい取材に来て頂いて、

TM 水科さんが困った。

水科勝吉 ああ、俺、日本語しか話せないからさ、困っちゃうんだよね(笑い)でもちゃんと通訳を連れて来てくれたから。

TM なぜ入っている人を排除したんですかって、なんで入れないんですかって、非常に根源的な質問をこのBBCがしましたよね。それで水科さんは困って、どういうお答えをしたんですか。

水科勝吉  あ、それはね、12月の31日にね、Nっていう事務所、そのNさんと村で契約書を交わしたんですよ。オウムの方は、その人が1億2千て言ってたんですが、建物と土地と。ずっと売買をしていくなかでね、それを村の方に返還しましょうということで。実は、その前に策をとりまして、道路を通行止めにしちゃおうと、入って来れないように。あそこは小諸の水道なんですね。御牧原台地は小諸の水道組合に入っていて、私も水道屋だから、村長と話をして、まずそこを通行止めにしないと駄目だってことで、水道管が漏水しているから調査しなさいってことで、水道組合として契約して通行止めを建設事務所に出して、それが、工事する場合には最長で1ヶ月しかないんです。それで信者達が入ったってことでそれは危ないってことで、建物の前と後ろを水道の調査ってことで全部道路を掘っちゃったんですよ。漏水してなかったんだけど、ちょっと鋸で切って水が吹いているような写真を撮って、またあとでそれは復旧したんですけれども。そういう形で通行止めをとって、後一ヶ月のうちにまた通行止めをとる方策を村長の方で取ってもらわないと、と。一ヶ月間は俺の方で持つから、と。いろいろ手を打ちながら、どんなことでもいいから入って来れないように方策を取らなくちゃいけないということで、みなさんにも協力して頂いたんですけれども。

司会 オウムの方には建物の権利としては、オウムは持ってなかったという状態だったんですか?

水科勝吉 今のNがオウムの顧問だってことだったから、水も止められちゃってるし、排水も違う私有地の所に入っちゃってたから、その排水も切っちゃってキャップしちゃったから水も使えないし、買い取ったNという人がちょうど12月28日に現場を見に来て、俺たちが水道を掘っちゃってあるから行けなくて、それをちょうど村長がもう12月で休みになっちゃうよね、行政はね。で、そこに見に行ったら、ちょうどその人の車がそこにあって村長さんが後ろにパッと車を付けちゃって、そうするともう前も行けないし、後ろにも行けないし。で、見たらそのNという人だったんだよね。それでみんなで大騒ぎして、北部の公民館へ来て、そこで話し合いをして。そこはもう必要ないからもとの鉄鋼会社に返します、となって、それを村が買い取って管理しますという契約書を交わしたんですよ。それがあったから、本当は買った人のものだから入っちゃいけないけど、その契約書があったから、それはまだ効力があったので、それであれだけ阻止出来たんですよ。ルモンドの人なんかもどうして人の所なのにに入るのを阻止してるんですか、と質問されました。弱ったなと思っていたら、あの確約書っていうかね、それがあるから、それが一番効力を発揮しているから出来るんだと答えたの。向こうはあんまり納得してなかったようだけど。

司会 だけど信者さんは二人、入っていたわけですよね。

水科勝吉 28日には仮設トイレと、プレハブと、みんなもう持って来て置いてあったんですよ。それは1月の12日までに撤去して、その人たちも全部退去するっていうことで今の確約書になってたから、それに基づいてやってたの。だから一億二千万でNの会社に横取りされちゃ困るってことで、オウムの方でオウムの名前に移転登記をするってことで、5日の日かな、田中の法務局、今はないけど、そこに来て移転登記するってことで、村の職員も来て張り込んでたから、なんか怪しいのが来てるって連絡もらって、弁護団っていうのを作ってもらって、その弁護団のみなさんがそれを阻止することが出来たもので。

TM (資料を見せて)その時の法廷闘争の様子ですね。

水科勝吉 あ、そうですね。

KK 海外のメディアが来ていたということは、その報道なんかはどうだったんですか。

水科勝吉 その時の報道関係の、これ、貰ったんだけど。(百枚以上の名刺を提示)。

皆  すごい!

水科勝吉 永岡?さんという人もVXってかけられた人?オウム真理教の家族の会って、被害者の会ってなってるけど。この人も来て。頑張ってくださいって言ってくれて。これはオウムの広瀬っていって、対策の委員長かなんかやってる。あ、中国からも来てた。

KK すごく貴重な資料ですね。

NM 24時間態勢で見守りしてたのはどのくらいの期間ですか。

水科勝吉 5月の26日か、解決するまで。182日間。

NM(名刺を持って)これ、何枚くらいあるでしょうね。

水科勝吉 何枚くらいだろう。

司会 その時の水科さんの役割は委員長ですね。

水科勝吉 あのねえ、北部の対策委員長ってことで、議会の方も委員長ってなってたんだけど、まず地元で一番やらなくちゃ駄目だって言われて、家でそんな話をして、そんなVXを掛けられたりするんじゃ辞めた方がいいなんて言われたけど、その時、運悪く議員もやってたもんで、この一番困っている時にみなさんに協力してもらってるのに、一番嫌なことを蹴ることは出来ないから(笑い)一応対策委員長ということで。報道関係とかそういうことは一人が対応しなさいということで、何人もやると、いろいろなことを言っちゃうと困るってことで私が一人で。報道のみなさんは、これはどうですか、あれはどうですか、といっぱい訊かれるんだけど、みなさんが事細かに全部報道してくれるから、オウムの方はテレビを見てればこちらの事は全部分かる。で、向こうの事はこっちは全然分かんないじゃない。みなさん、こちらの情報もやるから、向こうの情報も持って来てくださいって言った事があったけど。これだけのみなさんが絶えず報道しちゃうでしょう。

壕を掘っても見せないようにって、だから報道陣はシャットアウトして、こっからこっちは入っちゃ行けないって言って。そんな事しても今度はヘリコプター飛ばしてみんな写真撮られちゃって。そうなればこっちはもう隠したって仕方ない。だから、報道のみなさん、あれだよね。オウムはこれだけ危険です、てことで、有田芳生さんに来てもらったんだけど、公民館で、入り切らなくって。江川紹子さんとか。いろいろな人が来て、激励してもらったり。一番はやっぱり、みんなで阻止していくことが出来たのと、最終的には法整備までしてもらったというのが強いね。野中広務さんがなんかやってたんだよね。うちの小山治村長がもう、最終的には全国の、ここからスタートしたから、まず近隣の町村から始まって全国のみなさんの長とやって、国会まで陳情して法整備が出来た。それが一番のことかなあ。まず、あれだけのみなさんが、大体一日、最初の頃は千人だったからね。警戒してもらうのが。だから焚き物も3カ所だから、あれを誰が持って来てくれたか知らないけど、いっぱい持って来てくれて。

KK すごかったですね。私達も行ってたけどね。女性軍で炊き出しをやって。美味しいものを作って。毎日カップラーメンじゃね。敵わないからって。お握りを作ってやった。そういうことをしましたね。ちょうどこの話を聞いた時に、水科さんに聞いた時に、オウムが死刑が始まってぴったり当たっちゃったって思って。

水科勝吉 それはさっきも言ったんだけどさ、一ヶ月半くらいの打ち合わせでね。

TM KKさんも焚き火をたいて、見張りをして、どのくらいされましたか。

KK 3回くらいやったかな。南部の区で分かれてやってたから。

水科勝吉 寒かったよね。

KK 寒かったね。

水科勝吉 豊田じゅん子さん、テレビ系のアナウンサーがいるよね。その人が来た時に、夜中に来たんだけど、今、何度ありますかって言って、寒暖計見た時に、マイナス17度だった。

KK みんな寒くて。

水科勝吉 焚き火ってやってるんだけど、後ろは霜が付く。みんな防寒着きてやってくれたけど、これはオウム専用の防寒着だって。焚き火してるから、みんな穴が開いちゃうんだよね。火の粉が飛んで。だから新しいのを着ていくと穴が開いちゃうから、もう穴の空いたのを着て来て、これならオウムの警戒用の防寒着だって。

司会 警戒に来た方は、北御牧だけではなくて、例えば近隣の方もいらしたんですか。

水科勝吉 そう、軽井沢からも、小諸もそうだし、御代田もそうだし。殆どこの北佐久郡、あと上田からも来てくれた。青木からも来てくれた。

司会 その辺のスケジュールとか、シフトとかはやっぱり委員長がやられたんですか。

水科勝吉 それはね、後は村の事務局がいて、その人が、やっぱり近隣とか、俺たちは駄目じゃないですか。だから、そういうなかで、助役さんがいろいろやってくれたの。

KK 岩下忠善さんでしたね、助役さんは。

水科勝吉 そう、村長が小山治さんで。

KK 消防も大変でしたよね。

水科勝吉 そうだなあ、サイレン付けたり、消防の半鐘を叩いて、あれは1月6日だったっけ。

KK 家の息子も行って、「とにかく村長を守れ」って言ってたって。オウムが入った時にね、消防の人たちが村長を、自分たちで守れって言って。(資料の「鐵の団結」を見て)1月6日って書いてありますよね。1月6日に信者が。

水科勝吉 そう、その時みんなが。

司会 その時みんな警戒していたんですよね。

水科勝吉 警戒はしていたんだけど、向こうが人数が多くって、みんなで阻止するのが、どんどん入られちゃって。で、半鐘を叩いて、サイレン鳴らして、有線放送で、あれは4時半頃か、真っ暗だったからね、で、緊急放送してやったら、ずーっと村中の人たちが来て、車を停めてバリケード作ってね。前も後ろも挟み撃ちで停められちゃったから。もうその人たちも建物の中に荷物を入れだしたんだけど、それを全部みんなが道路の方へ出しちゃって。すごい暴力的な事もやってたんだけど。警察がいないし、朝早いでしょ。公安もいないし、あれやると逆に俺たちが傷害で捕まるんじゃないかって。捕まっちゃったかも知れない。だって向こうはあれだけの人数が来ればもう、無抵抗だもの。寒ーい、とか痛ーい、とか叫んでたな。

TM 村民の方々が来たっていうのは、有線放送が一番効果が高かったんですか?

水科勝吉 有線。その時は各家に有線が入っていたから。緊急の奴はスピーカーでもう流れるから。緊急ですごいボリュームでやれば起きちゃうよ。

司会 結局その時は信者は入れなかったんですね。

水科勝吉 入っていたのを全部出しちゃったの。出されちゃって、出されちゃったけど車に乗っても帰れない訳だから。ワゴン車が3台だかで来てたけど。みんながバリケード作っちゃってるから動けないの。最終的には荷物を全部積んで、道を空けて。明るくなってくれば、通勤する人たちもいるから。で、荷物を積んだまま、中央公園かなんかにオウムの人たちは集合したらしいけど。

NN その後は入らないようにこういう壕を。

NN オウムの所有にはなっていたんですか?

水科 オウムの所有になってればさ、人のものを、勝手に入っちゃいけないじゃない。その時はまだ、登記が出来なかったんだよ。登記所に行っても、登記が出来なかったんだよ。弁護団を作ってもらって、登記を出来ないようになってたから。その前の12月31日かな、Nって人との誓約書、契約書じゃ駄目だから誓約書にしてくださいということになって。村に返す、というね。前の鉄鋼会社に返して、それを村が引き取って管理しますっていう誓約書を作ったんですよ。それが有効してるから、効力があるから、それで阻止出来たってことなんですよね。そうじゃなくちゃ、人のものを、入っちゃいけないでしょ。

NN 信者達は1月5日にはそこにいたんですよね。

水科勝吉 信者達は1月の5日に移転登記をするからってことで、幹部の方から言われていたから、もう出発しちゃって来たってことだね。だけど、ここが移転登記出来なくて、オウムのものにならなかったから。オウムの方は、移転登記してあるからって、堂々と、俺たちのものだって入って来たわけだ。その時警戒してたのは、北御牧の北部区の人たちと役員のみなさんで、5、6人だったから、向こうは十何人も来ちゃったから、どんどん荷物を運ばれて。「おい、駄目だ駄目だ!」なんて言ってたってね。それで今の、半鐘を叩いて、サイレン鳴らして緊急放送して、それでみんなが出動して来てね。

司会 それからまた入ってくる事を、阻止しようとしたってことですね。

水科勝吉 そうそう。

司会 それだけ大人数の方達がね、もちろん近隣からもですから。それだけ団結してたってことは、率いていた水科さんから見て、なんでこれだけ出来たのかなって思いますか?

水科勝吉 それはなんというか、オウムっていう教団が、すごく凶悪犯って感じじゃない。

司会 松本サリンも、地下鉄のサリン事件もあったという。

水科勝吉 そう、それから坂本弁護士、刈谷さんがあったでしょ。だからそういう教義がまかり通るようなとこだから、これがここに来れば困るってことは、村全体も思っていただろうし、それに他の市町村のみなさんも、「あ、ここにこんなのが来ちゃ困るよね」って。上九一色だってね、大変だったでしょ。だからみんなが協力してくれたんじゃないかな。だって、小諸にだってあったんだよね。

KK なんでここをオウムが見つけたのかしらね。

TM そしたらね、オウムのね、麻原の次女でアーチャリーっていうのがいるの。これが何かの時にふーっとやって来て、閃いたんですね。「ここだ!」って。浅間は見えるわ、八ヶ岳だわ、蓼科だって全部見える。あそこから信州の八割が見えるんです。「ここだ、ここにしよう」って。そういうことを何かで、どなたかから聞きました。

水科勝吉 上九一色もね、富士山が見えてね。

TM ああいう信者の人にとってみればパワースポットというか、修行のしやすい場所ってことなんじゃないですかね。

水科勝吉 ただ、あの鉄鋼会社もね、ただ寮ってほどのこともなくて、そんなに使っていなかったから。パネルをやりだして、工事やりますよって工事申請が出てたらしいんだけど、研修施設にするっていってパネルをやりだしたんだけど、結局それは申請も何もなくて、村では大規模の改築になっちゃうから許可を貰わなくちゃ駄目だって、今の買った所のNさんが設計士と一緒に訊きに来たけど、抵触するってことでそれは駄目だと。

司会 182日間ですか、終わった日は何が終わった日なんですか。

水科勝吉 裁判所で調停してもらって和解をしなさいってことで、裁判所の方で提案してくれたんですよね。弁護団もみんないてもらって、土地と建物、最初は1億2千万てことになったんだけど、一番先の要求は3億円だったの。

司会 村で3億円を。

水科勝吉 そう、オウムの方からね。自分たちがそれを移転登記するってことだったから。3億円を要求して来たんですよ。1億二千万で買ったものを3億円で要求して来たって事は、オウムにしてみれば資金稼ぎのようなものでね。行政っていうのはさ、普通の一般の家だったら「お金ないよ」って言えるけど、行政だったらそれに対して債務負担行為だか、お金なんか出てくるじゃないですか。だから一番儲けやすいってのが行政だったらしいんだけどね。後になって分かったんだけど。裁判所の方で和解条件ってことでね、土地と建物は今まで1億二千万だったけど、いろいろ掛かるから1億1千万にしなさいってことで、土地が4千万円で建物が7千万円ってことで、だから結局裁判で和解しなさいってことで、向こうが応じたってことで。

司会 向こうって、Nさんですか?

水科勝吉 そうです。まだオウムは出てきてないから。

司会 その時の所有者はNさんだったんですか?

水科勝吉 いや、それが、Nさんが鉄工所に返しちゃったから。

司会 鉄鋼会社から村が購入したということですね。

水科勝吉 そうです。

司会 この和解が成立したのが5月なんですか。

水科勝吉 そうです。5月の26日?かな。

司会 これは約半年間じゃないですか。いつ終わるか分からないというのは、すごく不安だったんじゃないかなと思いますが。

水科勝吉 あ、それがね、それが一番不安だし、あそこは今もそうだけど、農業じゃないですか。田植えもしなくちゃいけないし、ブロッコリーもやらなくちゃいけないし、スイートコーンもやらなくちゃいけない。みんなそういうふうになって来た時に、それをずっとやっていけなくなっちゃうよね。だけどこれ、解決出来たからいいけど、これからだってずっと、何年になるかも分からないんじゃ、先が全然見えないからね。すごく不安だったけど、ここまで来たら引き下がるわけにはいかない、っていう感じでさ。

司会 水科さんは、まとめ役として中心におられる立場じゃないですか。こういう雰囲気とか声とか、聞いてくる中で、いろんな事を判断したりとかみなさんに声かけしなくちゃいけなかったんじゃないかと思うんですが。

水科勝吉 まあ、実際はね、公安の人に自宅の方に来てもらって、盗聴されているかも知れないからと調べてもらったり、一番大変なのは、うちも仕事やってるから、女房が電話に出ると「そんなことやってると親父の命はないぞ」とか言われるとかね。そういう嫌がらせもいっぱいあったよ。でも、そうかって、みんなには、「だんだん良い方向になってるから、もう少し頑張ってやるしかないから」ってさ、言ってはいたんだけどさ、自分でもすごく不安でさ、でも「何時になるか分かんないけど、やるわい」なんて言ったって、がっかりしちゃうんじゃないかと思ってさ。「あと少し頑張ればなんとかなるし、裁判も良い方向になるから、なんとかみんなで頑張ろうよ」って言ってくしかないよね。

TM そして、その時にですね、水科さんは具体的な、みなさんをまとめて対応していくというお立場だったと思いますけれども、北御牧村のトップにいた村長さんというのは、みなさんの心を一つにまとめる大きな力があったと思います。その村長さんの力っていうんでしょうか、水科さんのお立場から見てどんな感じだったんでしょうか。

水科勝吉 まずね、なんて言うの。俺たちは現場だけしかその頭がないけど、すごい、これは助役さんに任せておいて、と思ったのか知れないけど、司法を動かしたりさ、そういう会を作ってさ、みんなで各市町村の、なんかがそこら中にいっぱいあるじゃないですか、その人たちにも賛同してもらって、どんどんやって国を動かす、あそこまで行くというのがさ、村長のああいう力っていうのはすごいよ。あと俺たちは目先のこれしか分からないけどさ、これは助役さんに任せておく、これは、とか、だから助役さんをすごく頼りにしてたよね。村長の対応っていうのはすごいな、とその時はそこまで思いつかなかったけど、後になってね。

TM 警察の立場が結構微妙な時があって。

水科勝吉 公安でしょう?

TM そうです。そしたら村長さんが「捕まえるんだったら、俺をまず捕まえろ」って言ったというようなことを聞いています。その時は水科さんは現場にはいらっしゃらなかったんでしょうか。

水科勝吉 それはね、今の、1月6日の日なんですよ。いろいろやっていたら、後から警察が来た。なんでこんな、あれをするんだ、って言って、そしたら村長が、「俺が指示してやった。捕まえるなら俺を捕まえればいい」と言ったと。「俺がここの長なんだから」と。

TM そう言ってくださったら、あの人たちはみんな付いて行きますよね。

水科勝吉 まあ、そうだよね。ただ、それは後になってのね、みんなの前で聞こえるように言ったわけじゃなかったからね。それは後でみんな聞いて、それは大したもんだなあと。まず、村長がNのとこに行ったのも、自分が休みなのにそこに来て、なんか違う車だって、秦野かなんかの、で、おかしな車だってことで、ガッと後ろに付けた。俺たちが全部掘っちゃってあるから、動けないし。俺もちょっと訴えられた。交通法からするとね。でもちゃんと許可をとってやってるからって。

司会 今のお話しを聞くとそれぞれのお立場の方が、それぞれの役割を果たされたという気がしますよね。行政は行政でやるべき事をやり、何ができるのかを考える。現場は現場でやるべき事をやられてた。役割分担が出来ていたのかなと。

水科勝吉 ただ、それを考えて指示したのはやっぱり村長じゃないかな。俺たちが建物の前と後ろを全部掘っちゃって、一ヶ月の間に何とかしなくちゃ駄目だよって言ったら、臨時議会を開いて住宅の前から迂回路を、今そこに家が建ってるでしょ、小林さんちからずっと下って行った所に家がね、あそこの所まで、全部田んぼだからずっと仮設道路を造っちゃった。こっちへ迂回してくださいってことでやってるから、あの人たちも通行止めじゃなくて、通れるようにはなってるわけだ。それでこちらは、ほっと息をついた。あっちは言えなくなっちゃう。そう言う所があれだよね。掘るのだって一日で穴掘っちゃったんだよ。二台で。竹内工業もすごく協力してくれて。

TM それで、その壕を掘ったというのは北御牧独特の「馬よけ」の考え方があったと。

一同  そうだよね(笑い)

水科勝吉 そうそう、御料牧場で、京都に献上してたから。で、馬が逃げないようにずーっと壕を掘って。今だったら柵にするよね。昔だったら手で掘るんだから、すごい距離だよね。そういう名残があったかも知れない。

TM 絶対そうですよ。(笑い)地元の人の知恵っていうのは、そういう所に出てくるんです。

水科勝吉 あれは、誰が言い出したんだろうなあ。

TM 知恵者がいますよね。

水科勝吉 ほら、掘っただけじゃ駄目だから、橘さんに今村先生を紹介してもらって、その先にまた有刺鉄線をあれだけ張って。

KK すごかったね。こうやって写真を見ると、若かりし頃の村長さんね、今見るとよぼよぼになってるけど、本当にこの時はすごかったよ。迫力があった。

水科勝吉 今その施設がもう取り壊しになっちゃって。

KK 更地になっちゃった。

水科勝吉 すごくシロアリが入っちゃって。上はすごくしっかりしてるけど、下はもうシロアリが入っちゃって。で取り壊しにするってことになった。思いでの奴で、淋しいなと。

司会 オウムの立て籠った建物は取り壊されるんですか?

水科勝吉 もう、なくなっちゃった。

司会 外部の知恵者もいろいろ入られて協力されたんですね。

水科勝吉 本当。有り難いよね。でもさ、みんなそれぞれのさ、こうしたらどう、ああしたら、って、ぜんぜん思いつかないような事をやってくれたりね。

司会 例えば壕っていう、この地域にある一つの知恵が現れたかも知れないと思うんですけど、橘さんのようなお立場の方が、外のああいう人も知っているし、こういう人も知っている。そういう人が仲介に入ることによって、こういう人に入ってもらったらこういう所が上手くいくんじゃないかっていうような、そういう方も多かったんじゃないですかね。

TM 基本は地元の方々の団結心です。それから、例えば上田のガソリンスタンドなんかをやっている方が、タンクローリー一杯分の灯油をプレゼントしたとかですね。そういう様々な支援があったみたいなんです。

水科勝吉 塩沢さんて人が砕石を全部敷いてくれたりさ。あれだけの焚き物をね、どこから持って来てくれるのか、でも、最終は足りなくなっちゃって、俺たちも家の段ボールを持ってったりして。松食い虫の木が、燻蒸してあるじゃないですか。あれ、道路の近くの奴、それを運びに行って、そういうふうにやってるとまた何処からか大きい奴を持って来てくれたりして。あれだけのものをずっと燃やしてるだけ欠かせなく出来たってことは、すごいね。工場の中で積む時の、パレットっていうのがあるよね、あれも木の奴で壊れちゃうじゃない、そういうのも持って来てくれたりね。でもあれ、釘があったから大変だったけど。

TM あの、火っていうのはですね人の心を一つにまとめる力があるような気がするんですよね。焚き火を焚いている時はみんな一生懸命だけど、なんか焚き火が熱いねっていう頃になってくると、周りに寄ってくるんじゃなくて、バラバラになっちゃったという話を聞きましたけど。火の持つ力も団結のために、大きな効果があったと聞いてます。

司会 江戸時代の巻き絵なんかを見ると、一揆とかやる時は必ず火が燃えているようなイメージがありますけれども。

TM 私はオリンピックで聖火リレーを担当したものですから、聖火リレーの持つ力というのがあって、特に自分たちの県内に入ってくると、自分たちの聖火だということで団結が高まったという経験がありますので、オウムの時の焚き火の力っていうのはかなり高かったんじゃないかなと思います。こちら(淑子)は焚き火に当たりながら夜の当番をした経験がありますので、ちょっとお話しを。

TY この村は寒さが厳しいので、火の有り難さがすごく、普通以上に感じられるっていう所はあったでしょうね。こっちに向かってると本当に人の温かさっていうか、よくわかって、でも、背中は本当に冷たいんですよね。

水科勝吉 そう、ここは暖かいんだけど、こっちは霜焼けができるくらいね。

TY 冷たい世界の中で暖かい輪っていうのが、象徴的ですよね。

NM その通りです。私も夜の見張りに参加しました。寒くてみんな集まりますからね。団結心が高まりますね。単身赴任で来て、とにかく一つになってやらなきゃって思いました。やっぱり火の暖かみと人の輪が噛合ってできる団結ですね。すべての団結はそういうことでしょう。何か新しいことをやって、良くしようという団結ですよ。

司会 これは、闘うべき焦点がはっきりしている団結ですよね。

NM 目的がはっきりしてますよね。こちらは今、これもしよう、あれもしようという雑駁な楽しみを目的とするから、それで団結ができない。あれほどの団結心があるのに、なぜここでは団結できないんだろう、と思いますが。

KK ああいう所でね、男の人たちはすごい前面に出てて、女性たちには女性たちの役割があったよね。お握りなんか握ってっても、でも、おかしいことに、あ、ここん家の梅はおいしい、とかね。(笑い)そういう話になっちゃう。漬け物持ってくれば、こっちのはおいしいってね。そういう、和気藹々と、そういう中で、村中の中に女性部があって、まとまって活動して、食というものに対して当たったということはあります。寒かったんだけど、でも、あの家の漬け物はおいしいよ、とか(笑い)があって、今がある。

水科勝吉 でも、ずっとそこを囲んでいるとさ、いろいろ話すもんね。どちらですか、とか。軽井沢からです、とかね。軽井沢はここより寒いからこんなこと出来ないよ、なんてね。

KK 小さな村に起こった大きな事件だったんだけど、多分それがあったためにいろんな形で北御牧っていうのがひとつにまとまってここまで生存して来て、東部と合併してもまだまだ北御牧っていうのが生きててすごく強くて、意識が違うっていうのをすごく感じますよ。東部の人と北御牧の人は違うっていうの。それはありますよ。味研でもその時は角煮とかお焼きとかを持ってったりしました。

水科勝吉 東部町でも花火大会やったんだけど、あれ、続かなくなっちゃったじゃない。ここは、ずーっと続いているんだよね。こういう地形だから小さい花火でも音も大きいしさ、低いのはちょっと見えないけど、おれも向こうの商工会のでやったんだけど、向こうは800万くらいでないと上がらないんですよ。東部町なんかでは。こっちは300万くらいで、ずーっと。でも商工会のみなさんが一ヶ月半くらい、5千円だとか1万円だとか、そこら中の会社を300幾つくらい歩くんだよね。それをやってずっと継続してて、市から花火に使っちゃいけないってことで、チラシ作ったり、スタッフのお弁当を出したりということはいいというから交通整理やってんだけど、北御牧地区だけそういう補助金出しているけれども、だんだん見直していかなくちゃいけないと。何言ってるの。地域のお祭りだっていうのに、そんなセコい事言うな、って思ったけどさ。でも、ずーっと続けているって、すごいよね。でも、東北の震災があったでしょ。あの年だけは止めた。あとはまた、ずっとやってますけど。

司会 そういう闘争のなかで、この地域のアイデンティティというものを北御牧に住んでいて新たにした面もあるんですかね。そんな感じもしたんですけれども。

水科勝吉 だから自分たちで守んなくちゃいけないと思うし。それをね、もう近隣のみなさんが応援してくださったりして。北御牧に対して自分としてもね、これを、生まれて73年経つけれども、ここにずっと住んでるからね。だからすごい愛着っていうかね、あるからね。

司会 自分の郷土を守るっていう気持ちですかね。

KK 郷土愛っていうのはすごいかも知れない。

司会 そこに住んでいる人が感じるものですね。

NN みなさんはこの地域を愛しているから、それはすごく感じますね。それでいて外から入ってくる人を受け入れるっていうか。比較しちゃいけないんですけれども、東部町側に比べるとこっち側の方が地元の人の受け入れがいいっていうのは感じます。

TM 一番始めに講演をされました栁澤幹夫さんが、私達に言った言葉っていうのが、幹夫さんの立場からいって、「儂らは土だ」っていうんですね。で「他所から来た人は風だ」って。土があって、風があるから作物もよく育つ。だから土と風との関係をよく言い表していますけれども、他所から来た人を受け入れる土壌が非常に強い所だ、とおっしゃってました。やっぱり受け入れる気持ちも、地元に対する自分たちの思いというのも非常にはっきりとしているんだなと、私は感じました。

NN 特に御牧原の方は、開拓精神というのか、そういうものがベースにあると聞いたことがある。どうなんでしょうね。だから受け入れがいいんじゃないか、もともとがそういう開拓の。東部の方が歴史が長いから。

水科勝吉 家も私で3代目なんですけれども、4代っていえば古いですよね。台地では小諸市が一番大きいんですよ。次が北御牧で、あと望月と。浅科が入っていて。あの台地に4つの行政区があるっていうのもね。すごく今のように開拓だから、昔はお米を作らなくちゃ駄目だったから、台地だから溜池をいっぱい掘って、

NN 飛行場を作るって話もありましたね。

水科勝吉 それは小諸の事。直線の道があるでしょ、あれを離陸してもいいようにって、だから、だーっと直線になってるでしょ。

司会 最後にこれを訊いておきたいとか、もしあれば。これはとても大きな事件だったと思うんですけれども、いろんな方が関わったんだなということがよく分かりました。そのなかで北御牧に対する思いが高まっていったのかなとも思うし、まあ、今は合併していますけれども、やっぱり、私も外から来た者ですけれども、北御牧の方と話すと北御牧はすごい、と。東御とは言わないんですよ。(笑い)これで自分の小さな謎が解けたかなと。最後に、簡単に一言ずつ、お礼を込めて感想を言って頂けると。

OK 分からない事がいろいろありましたね、伺って。結局公安とか警察があんまり参加しなかったと。村の方がみんなでやった、と。基本的にはそういうレベルなんで。じゃあ、警察とか公安は何を、まあ、出来る出来ないは分かりませんが。そこら辺が僕はちょっと矛盾を感じましたね。何かがおかしいかなと。

水科勝吉 警察と公安はね、ああいうとこで、表に出てやらないんですよ。出ちゃうと、まあ、我々の方はいろいろ手出しをしたりするから、悪くなっちゃうんですよ。だから、見て見ぬふりをしてる。

OK 何かあったらってことですか。

水科勝吉 そういうこと。6日の日に我々がいろいろやってる時に公安と警察が来て、そうなるとやってる方が加害者になっちゃうから、それで村長が、「捕まえるなら自分を」って言っちゃうから、ってことだったのね。だからオウムの所に査察に入ったってなんか手ぬるいっていうか、でも今の立法が出来たから、査察出来るようになったけどね。今までそれ、出来なかったから。俺たちにしてみても手ぬるいと思うけど、向こうから見れば逆にみなさんを捕まえなくちゃならなくなっちゃうから。

OK 何か傷害を起こされたら大変だものね。

水科勝吉 だから、起きそうな事を警戒してくれてるんならいいんだけど、そういう時は遠くで見てて何もしてくれなくてさ。何か起きたらどっちがいいか、なんて。心情からすればこっちが悪いったって良いふうにしてくれなきゃと思うんだけどさ。でも、そこら辺のとこだと思うんだよね。

UM 昔の事を、いろいろ運動されて、お疲れ様でした。本当に有り難いと思っています。建物に入った事があるんですが、使いやすそうでしたね。彼らにとって。

水科勝吉 個室が多かったですね。

UM 民宿とは違う作りなんですね。

水科勝吉 でも最初のあれは民宿で作っちゃってあったから。間仕切りなんか、建てるまでは。

UM 改築されちゃったんですね。本当に勉強になりました。

UK 御牧原テラスの小池さんなんかといろいろ北御牧で楽しい事とか、面白い事とかさせて頂いているのも、みなさん方のご苦労とか、ご協力とか、そういうものの上に成り立っている今の平和な、穏やかな、のびのびとした御牧原が保たれているんだなということがわかりました。お疲れ様でした。

NM オウム真理教に絡んだ事件を聞いてはいましたが、実際の体験談を聞いたのは始めてで、非常に身近に感じました。本当に有り難うございました。

OY 他所から来た私達が知りたいなあと思ってた事を知ることができて、嬉しかったです。でも相当時間が経っているので、子供たちには、その後に生まれた子供たちにもここではこんなことがあったよ、って事を語り継いで欲しいなあと思います。

KK ご苦労様でした。顔を合わせてね、分かってるんだけど、やっぱり北御牧にいて、ここに住むようになって、ここに住む以上、自分たちのことだから、やってこうよって。そんな思いでね、特別な事じゃない。たぶんいろんな事に重なると思う。楽しい事はやっぱり楽しくやっていこうよ。これを伝えるのは結構きついかも知れないよ。薄らいじゃってるし、ただやっぱり、忘れちゃいけないな、と思う。

水科勝吉 ちょうど今月はね、麻原の死刑が執行されるっていう事があったからね。目新しくなった気がする。

KK 思い出したみたいにね、ちょうどぶつかったからね。水科さん、やっぱり使命があるんだよ。

NM 私はいっぱい喋りましたけど、やっぱり最初の通り、まとまることが大切なんですけど、危機感だとまとまるんですけど、それ以外だとなかなか……

OY そのオウムの話はお風呂で聞いたんだけど、それ以外はどこからも聞いた事がなかったの。こんなに大きなことだったんだって。

TM いつもメイクワンの向こうを通る時に、ああ、水科さん、良かったね、って。武井由光さん、良かったね。そう、いつも思いながら、あそこを(車で)走るんです。だからああ、良かった、って本当にそう思ってます。

水科勝吉 ちょうどカーブのメイクワンの前に出て、最終は焚き火してね。

TY 何もなくて良かったというのが、何かに似てるなと思ってたら、保険なんかは何事もなくて良かった、掛けてるけど、今、何もなくて、たまたま住んでいて幸せだっていうことがありますけど、保険と全く違うのは、そこで踏み止まって闘ってくださった方がいて、初めてあるこの平和ということで。保険でいえば、掛けるべきは、あの、小林敬子さんのお話しも素晴らしかったんですけれども、ご本人たちの郷土とか、そこにいる人を守りたいとか、それが他の近隣の方からも助けてもらえる理由だと思うんですけど、その、人を思う力が、ここはすごいんじゃないかと思いました。私も、ここにいさせて頂く事が幸せです。有り難うございました。

KM 有難うございました。私達は移住して来て3年目になるんですけれども、みまきテラスの畑のところで、小宮山さんて方の田んぼがあって、最初に来た時にお手伝いしたその時に、その小宮山さんが「村誌」と、この「テツの団結」と、もう一冊、「郷土史」の三冊を持って、すぐにお見えになったんですね。で、この話は来た時からちょっとは知ってたんですけれども、小宮山さんにしてもそうですが、北御牧の方っていうのは、こういうふうにして来たんだというのを教えてくれる、すぐにそういうふうにして心を開いてくれるっていうか、そんな方に最初に出会えて有り難いなと思ったのと、それから橘さんのお話しにあった風の人土の人っていう詩の話も、こちらに来てすぐに滋野の方に紹介して頂いて、風と土といった捉え方も聞いてて、本当にここの土地で生活して来たんですけれども、3年なんですけれども30年間よりもこの3年の方がどれだけ濃いかということをすごく思います。多分ここに来なければ知らなかった人、出会わなかったものがたくさんあって、そこから頂いているものはすごく多いし、田んぼを見、山を見、空を見、有り難いなあと思いながら暮らしているんですけれども、ここにはそこを守ってくださった方々がいて、久美子さんもおっしゃったけど、私達は出来た良い所にぽっと来て、でも日々それを有り難いって感じながらこの北御牧を、私も東御市って言わない、御牧原とも言いますが、でも東御とは言わない、こういう集まりがあっていろいろやっていけるなあっていうか、これからさらにまた、やっていけるんじゃないかなって思ってます。有り難うございました。

司会 では最後に拍手を。有り難うございました。

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