第2回 知恵蔵の時間 小林敬子さん

知恵蔵の時間 第2回  講話 小林敬子さん 

「この地で生きる 酪農と味研と」

2018年6月24日 14時~

於 まる屋  司会 小林恭介

司会 小林恭介 今日は知恵蔵の時間にお集まりくださって有り難うございます。この知恵蔵の時間は今日で第2回目です。この知恵蔵の時間はなぜやっているのかというと、やはり前回の栁澤幹夫さんのお話しを聞いて思ったんですけれども、ここで暮らしている方のお話しを聞くと、この八重原という所がどういうふうに出来てきた所で、例えばその方がどんな関わり方をしてきたのかということが良く見えてきて、自分たちもどんなことが出来るのかなって、すごく考えさせられた時間だったなと思いました。今日はまたスペシャルな方にお越しいただいております。小林敬子さんです。敬子さんのお話しは、みんな是非聞きたいなと思っていて、お願いを快く受けてくださって、有り難うございました。最初に皆さんのお名前を、人数が少ないから雑談形式になってくると思うので、お名前と住んでいる所、この知恵蔵の時間に参加した理由、それから敬子さんにこんな話が聞きたいなということがあったら言ってください。こちらの方からお願いします。

小林麻美 小林麻美です。芸術むらに住んでいます。今このまる屋を経営している立場です。味研でみまき豆腐を平日二日間、製造しています。そういうご縁で敬子さんとは毎日のように会っています。敬子さんとはちょっと時間があるとお話しを聞くんですけれども、本当に学ぶことが沢山ある方で、いつも悩んだり、迷うと相談したりしているんですけれども、本当に勇気と知恵をもらって元気にやってこられたということがあります。聞きたい話は、皆さんが聞きたいことを語って頂ければと思います。

KC  KCといいます。この息子(司会者、まる屋を経営する麻美さんの夫)の母です。ここに住むようになって、こうしたカフェを立ち上げることになり、こうして動いてきましたけれども、大勢の、ここに住んでいる皆さんの応援をいただいて、そのバックアップがあって、なんとか地域に根ざした形をつくっているのかなと、地元の皆さんにはいつも感謝しております。住まいは佐久市です。ちょうど家からここまで40分くらいで来ますけれども、またちょっと別世界に来たような感じで、うちの方も田舎で、同じ田舎なんですけれども、やはり緑が多くて、自然の豊かな所でほっとした気持ちになるなということもありますし、カフェもこうして知り合いも来てくださったり皆さん頑張ってますので、時々皆さんのお顔を見ながら伺っています。小林さんのことは麻美を通していろいろ、味研での活躍ですとか、いろんなことをリーダーとしてお仕事されているということで今まで聞いておりましたし、そのバイタリティはどこから来るのかなっていつもすごく思っています。私は小林さんはたまたま同じ小林であったりして、地元の方だとずっと思っていたんですね。そうしましたら、いろんなご縁があって、ここに住むようになったということで、そのタフさは長野県の人とは何か違う、感性とか何かあるのかなといつも思っているんですけれども、教えて頂きたいこと、学びたいことがあります。それでいろんなことがあって、こうして今があると思うんですが、そういう部分もお聞きできればと思っております。よろしくお願い致します。

MT 名前はMTです。住まいは芸術むら公園で、麻美さんの家の3軒隣です。ご近所ですね。そして知恵蔵の時間、小林敬子さん。以前小林さんの、なぜ北御牧に来たのかという話をちょっと伺ったことがあって、今日もお話しがあると思うんですけれども、それを聞いて、非常に感動しました。最初にみまき豆腐、あれを食べた時に、私は中国に時々行っていたんですけれども、中国の街頭で食べた豆腐とまったく同じ味だったんです。大豆の味がしっかり出ていて、皆さんご存知だと思いますが、型くずれしないし、こんな美味しい豆腐がここで、失礼ですが、ここで食べられるなんて素晴らしいなと思って、味研に非常に興味を持ちました。その代表を長くやってらっしゃるから、本当に地元の方だと思ってました、私も。根っからの北御牧っ子だと思っていたら、そうじゃないと。ご苦労もいろいろあったと思いますけれども、それがすべて力になっている。それを若い人たち、特にお母さん、子供を育てている若いお母さん達の力になっているという所が、本当に素晴らしいなと思います。その辺りも含めて今日はいろいろ学ばせてもらいたいと思います。よろしくお願いします。

TH THと申します。住まいは芸術むらの、バーベキュー場のちょっと向こうです。歩いてすぐここに来られる所です。小林さんとの出会いは本当に偶然で、3月に息子の所に3日間程お手伝いして帰りの新幹線の中で、先に小林さんが座っていられて、あ、この方ならちょっと安心だわと。しばらくは何もなかったんですけれども、小林さんの方から、どちらまでいかれるんですかと聞かれまして、私、上田ですと答えました。小林さんは佐久平でしたよね。佐久平のどこです、と訊きましたら御牧が原に住んでると言われて、えー、私は芸術むらに住んでいるんですよという話からとんとん話が進んでいって、それで、ここに来た理由からいろいろなことをおっしゃって、それだけでもすごく感心したんですけれども、じゃあ、ここに来られる前はどこにいらっしゃったんですかと尋ねたら東京の杉並区にいたと。私も杉並区に13年いたんですよと。じゃあ杉並区のどこですかといったら宮前だっておっしゃって。宮前郵便局に勤めていたって。私、宮前郵便局にはいつも手紙を出しに行ってた、と言いました。家から歩いてすぐの所だったんです。その偶然もすごいなと、こんなことがあるのかって思いました。話を聞いてみると、まあ苦労はなさったけど、その苦労なんか跳ね飛ばすくらいのすごいパワフルな生き方をされていて、もう最後には「師匠!」なんて言って、もう心酔しちゃって。ここに来るからって言われたけど、私は何やるのでもとろとろやる性格だから、今日も畑と草抜きと、1時までやってました。それと子供が、孫が上田にいますので、週一回ご飯作って持って行ったりで、もたもたしながらやってるから、なかなかここに来られなかったんです。ここでお話しされるというのを広報で見て、それじゃあぜひお話しを聞いてパワーをいただきたいと思って参りました。

YM YMです。今日は敬子さんが来て、いろいろ話をするっていうから、私も一人でも多く行って話を聞いてくるようにって。主人(栁澤幹夫さん)も「いろいろあるから、行ってきてくれや」って言われて、敬子さんならいい話を聞けるだろうからと思って来ました。それから味研では最初から、独立する時からいて、私はもう年だから辞めようと思ってるけど、ぜひ入っていなさいとみんなに勧められて、ただ長いだけの味研でいますけど、活発にやっている様子を聞きたいと思って参加してみました。

司会 有難うございました。小林さんにはここに来るまでのお話しをまず、聞きたいですよね。何処で生まれたのか、とかね。そのへんの所からお話しを。

小林敬子 はい。みなさん、こんにちは。どんな話になるか、知恵蔵の会って不思議に思ったの。でも、そうだよな、って。生きる知恵って、それぞれ持ってるし、そういうことか、まあいいよって。簡単に引き受けちゃったんだけど、私は千葉の生まれなんですよ。

千葉の、家は酪農やってて。それで郵便局に、杉並区の荻窪とか、宮前とか、高井戸とか、そういう所にいて。郵便局に勤務があって。最終的には上高井戸に行ったんだけど。勤めていながらね。

 私は若いときから酪農ってとても興味があって。やっぱり実家が酪農をやってるからなんだけど、でも父は酪農の世界には入れたくないと。逆に。365日休みもなく、この仕事の何がいいだ、と。まだ自分の気持ちがそこまで固まってなかったから。公務員試験を受けて、普通の市役所とかいうのではなくて、郵便局に入るかな、と思って。郵政でやったのが宮前、初めに入ったのが宮前だったの。宮前3丁目の金澤さんって方だったの。運命の局長さんは。そこに入って4年くらいした時だったかな。なんか自分が毎日お金を数えて、1円の違いも考えながら本当に窓口で、人の通帳を見て、貯金を勧めたり保険を勧めたり、自分がいいかどうかわかんなくなって迷い始めた時があったの。本当にこれを自分がやりたいのかって思った時にどうしても酪農っていうのが頭にあって、北海道に一人で、単身で行ったの。一週間から十日休みとって。一人でプロペラ機に乗って。釧路に行って。あの当時、40年前はプロペラ機だったのよ。下が見えるんですよ。恐いのよ。釧路に行ってね。酪農の若い人たちに会って、あちこち転々と歩いて。話をしている時にものすごいバイタリティを感じたの。すごく生きているっていう気持ちがして。都会にこういう男はいないなって思った。これだけ夢を持って、確かに大変な仕事なの、私も実家がそうだから分かってるけど、だけどものすごい夢を持って事業とかそういうものに挑戦していく、それ、すごく惹かれた。それで帰って来て、いいなあと思って帰って来たけど、たんたんと都会で郵便局の仕事をしてたの。

 たまたま郵便局の知ってる人が御牧ヶ原にいて、とてもきれいな所だから、とにかく遊びに来なって言ってくれたわけ。忘れもしない1月20日、寒い時に郵便局が終わって土曜日に、だから仕事の格好だよね、スカート穿いてさ、ロングブーツ履いてコート着て、チャカチャカ来たわけよ。小諸の駅に降りた。その時は特急しかなかった。新幹線ないから。5時半くらいだったかな。それで最終のバスに乗ったの。そしたらね、真っ暗で何も見えない。いいとこも悪いとこも何も見えないの。それでバスで上がって来て御牧原についた時に、ポツンポツンしか電気が点いてないの。ほんとに。何十メートルも先なの、一軒先が。そこで降りたらさ、なんとバス停を間違えて降りちゃったの。ひとつ違うとこに降りちゃって。ほんとはそこの家に行くのに、行けなくなっちゃって。今みたいにケータイもなければ、電話をする家もないわけ。それで困ってたら、トラクターで来た男性がいたの。その人に訊いたら「送ってってあげるよ」ってさっと送ってってくれたの。それで名前も訊かないで別れたんだけど、その近くまで送ってってもらって。次の日になったら、ものすごい天気だったの。きれいに北アルプスが見えて、御牧原ってところはまたすごいの。360度のパノラマなんだよ。そこで見た景色っていったら、カメラ片手にただシャッター切ってるだけだった。牧場が見えたからそこへ行ったら、なんと昨日送ってくれた男性とまたばったり出会って。それが縁で、だからホントにねえ、ロマンチックっていったらロマンチック。絵になるっていったら絵になるかも知れない。だけど失敗だよ、それは。そんな具合で1年半くらい東京と長野を行ったり来たりしてから、こっちに来ちゃったんだけど。親の反対を押し切って。勘当されて。

司会 そうだったんだ。

小林敬子 そうなの。酪農、まして長野に行くなんて。とんでもないっていうんで。結婚式には出ないなんて言ってた、父は。まあ、分かってくれて出てくれたんだけど。長野に行って、朝日、夕陽、すごく素敵だったね。なんとも言えない。何よりの自分の中で癒しだったけれども。

 結婚して10年だったんだけれども、10年で、主人が蜘蛛膜下で亡くなっちゃったわけ。残ったものは7歳と4歳と9歳の子と、後、おばあちゃんがいて。どうしようもないよね。それから自分の人生が本当に逆転したと言うか。360度本当にね。ひっくり返ったようになっちゃったよ。だけどその時にね、やるしかなかったから。子供をおいて勤めに出ることも出来なければ、年寄りをおいて勤めることも出来ないし。実家では帰って来いといったけど、やっぱり私は自分が選んでここに来たし、絶対に引き下がるわけにはいかないと思ったから。

 でも私は母が偉いなと思ったのは、自分で選んだことなんだから、自分が本当に身体を壊しちゃいけないけれども、そうでなかったら自分でやれって言った。父は帰って来いと言ったけど。自分でやってご覧って。できなかったら無理しちゃいけないって。だけどそれは多分子供が見てるから、分かるよって。それで踏ん張ったんだけれどもさ。でも何が大変だっていうと、仕事するってことが大変でもない。子供を見ながらやってくことでもない。一番大変なのは介護だった。子供はどんどん大きくなっていく。年々。だけど介護っていうのは年々悪くなってくの。結局はじめはこうやって動いてたけど、そのうち動けなくなり、寝たきりになり、ほんとにおむつ替えながら引っくり返しているような状況で、自分の気持ちの持ってき方がコントロールできなくなっちゃう。

 で、その時にね、なんでこんなに自分にね、次から次へと降り掛かってくるんだろうってことが一杯あった。だけどちょうどその時にね、今日持って来たんだけど、私この人が好きで、あいだみつお。これがすごく好きで、この中にね、書いてあることがすごく好きで、幸せって自分にしか分からないんだよって。あとで一節ちょっと読んでみたいと思ってるんだけど。隣の芝生は青いって良く言うでしょ。自分の今置かれてる環境をベストだとするならば、もう恨みもぐちも、それは全部受け止めて生きなさいってことなんだよね。それを自分が幸せと取るのか、不幸と取るのか、それで自分の人生が決まって行くだろうということが書いてあった時にね、なんか眼からウロコっていうのかな。なんで自分とこばっかり来るんだろう、なんでこんな思いばっかりしなくちゃならないんだろうと思ってたことが、逆に取れるようになったね。それも取り方だけだって。

 その受け止め方。だからこの間たまたま女神湖の方にね、ケイタ君と一緒に行った時にね、車の中で話したことがあってね、なんで努力をしなけりゃいけないんだ、何でみんな学校に行かなくちゃならないんだっていった時にね、ちょっと言ったことがあったの。ケイタ君がマラソンやってきて、喉渇いて死にそうだと思った時に、一杯の水があったとする。コップに半分ね。それを飲む時にね、ああ半分しかないと思うのか、この半分の水があって良かったと思うのか、それだけで多分自分のやってることは変るよって言ったら、「そうなんだ、僕はもっと飲みたいなと思う」って言ったの。「でも物事はたぶんそういうものだと思うよ」って車の中で12、3歳の男の子と二人で話してるんだからね。それって自分ですごく新鮮だったの。改めて自分が今この年になっていろんなものが一杯あるじゃない、一杯溢れているものに対して、この中学生の男の子に言うことが、60過ぎて70近くなって来てね、自分が与えられた環境をどう受け止めるかって考えるじゃないですか。そうすると新鮮だった。私はケイタ君と行って。いろんな話をした。

 でもそれと同じように、自分がどんなにどん底であっても、その受け止め方一つで、すごく自分が幸せになれるっていうのを実感するし、私は自分の人生を、主人は早くに亡くなって失敗ばっかりの連続で、痛い授業料は山ほど払ったけど、でもそれを痛いだけで終わらせちゃうのかな、逆にそうじゃなくて失敗があったから、自分が物事を切り替えて取って行ける。今までやってた経験というのは確かに人と比べたらちょっと多いかも知れない。いろんな面で。切ない涙も辛い涙も山ほど流したかも知れない。でも決してそれは無駄じゃないな、と思える、そういう自分がいる。だからどんな所に遭遇しても平気。それはすごくラッキーだなって自分で思うの。 

 だから味研のこともそうです。味研の組合をやってますけど、運営を見てくれって言われたんですよ。経営を見てくれって。今まで味研の中でおばさん達がやってきたんだけど、これ以上どう進んでいいか分からないと。法人化したいけれども分からない。それから経営をどういうふうに持っていったらいいのかも分からない。その時に私は一人で酪農をやって10年、経営分析を自分でやってたから。息子も家に入って、今9歳だった長男が入って牛飼いをやるようになったんで、少し時間を取って、今まで自分がいろんな人たちに、いろんな思いをしてくれてたから、ちょっと恩返しくらいの気持ちで、軽い気持ちでやったら、それが15年も続いちゃって、こうなっちゃったんだけど。

 でもその時に経営を見てくれって、それじゃまあいいよ、私で役に立つんだったらって。牛舎の仕事ばっかりやってて他のことは出来なかったからって経営をやったんだけど、入ってみたら、あ、だめだ、これは違うって思い始めちゃったら、それが止まんなくなっちゃった。やっぱり原材料、売り先から、そういうことをちゃんとやってるときからね、どうしても引っかかるものがいっぱいあって。それで始めたんですよ。

 その時、まず一番大事なのは原材料。それをきちっと確保して、保管をして、品質の良いものを、絶対に裏切らないものを作って行くのが第一条件。それは牛舎だってそう。味の研究会で女性たちが30年なんですよ、お豆腐を作り始めて。30年経って尚かつ続いてくって、続かせて行くにはね、決して大量生産もできないし、こう、何て言うんだろう、自分たちに出来る枠があるから。その枠をちゃんと知りながら、やっぱり物を作って行くっていうのはね、一番基本だし、それをちゃんと守りさえすればまあ何とかついていくのかなって思って、味の研究会は引っ張っているんだけれども。

 今、悩みっていうか、若い後継者のところにね、ちゃんと持って行くってことが、一番難しいことなのね。品物はある、販路もある。経済もある。ある程度のベースはもう出来ているんだけれども、それを次の世代に渡していくっていうことが、一番難しいこと。で、それでとったのが、今働き方改革って言っているけれども、まずこの地域に浸透させるにはどうしたらいいかってこと。一番難しい問題なの。   

 なんていうか、固まっているのね、考え方が。昔はこうやった。こうやった。そういう考えの中に新しい人たちの考え方を入れて行くには、ある程度、時間が掛かるんだわ。私は正直2年半前、骨折をして、ちょっと大けがをしてね、浅間の病院に入院したんですよ。手術してベッドの上でね。その時にたまたま、麻美さんが味研に入って来たんだよね。彼女をどうやって使おうかと思ったんですよ。考えたのが、「麻美さん、週二日間、味研で豆腐を作れ」って。「二日間は加工場で全部パンを焼け」って。パンを好きだっていうのは知ってたし、新島でね、パン屋やってたのも知ってたから、どうやってこの子を活かしてあげたらいいんだろうと思ってたのが一番のきっかけだったの。それから今度はみんなを説得して行くのが大変だわ。なんでその工房を貸すんですか、とか、どう言う意味があるんですか、と

か。本当にそういうことがありました。だけどこれからそうなっていく。必ずそうなる。そんな感じで、全面的に後押しするから、いいからやってごらんって形でお手伝いが始まったのが、彼女とのきっかけ。

 やっぱり縁とか、出会いとか、というのは不思議なもので、本当に私がバス停を間違えて降りて、そのご縁でこっちに来て、酪農をやって、一人になって、またそれで酪農を続けて、味研と出会って、そのなかでいろんな人と出会って、また小林麻美さんとも出会って、こんなふうにね、なんだろう、少し田舎に開けた場所が、彼女によって出来たってことは、やっぱりすごく大きなことだし、大事なことだと思うしね。良かったかなと思うしね。私も今まで自分がやってきていることを活かしながら、67、もう70に近くなって、正直言ってブランド物が欲しいわけじゃないし、何が贅沢したいわけじゃないし、本物をもうちょっと食べてね、

司会 ちょっと訊きたいと思ったんですけれども、本当に千葉からこちらに来られてね、まあ縁ていうか、バス停を間違えて来て、旦那さんと出会われて、やっぱりこの地域にね、入ってこられる中で、ご自身でいろいろ、もしかしたら苦労されたこともあったかも知れないし、自分なりに工夫をされたこともあったかも知れない、そういう所をもう少し教えてもらえたらと思います。

小林敬子  私が一番、ここで思ったのは、こういう地域って、割と出る釘を打つっていう感じを受けた。だから人とドングリの背比べをやってれば、さほど叩かれもしないし、まあみんなつき合ってくれるけど、一つ出てしまうと、叩かれるっていう部分はあるなってふうに思ってたから、ほんとに出るんだったら思いっきり出ちゃわないと駄目だって、(笑い)逆に私はそう思った。一気に出るぞって。

司会 すごい、本当にそう思ったんですか。

小林敬子 うん、思った。だから一緒に巻かれて、あるかないかの生活はしない。だったら徹底してやっちゃおう。そんなふうに思いましたね。そうでないとね、潰されちゃう。そういう思いがすごくあった。だから、徹底して麻美さんやれ、って言ったのも、そこにあるんですよ。だから打たれないくらいに出ちゃえ、って。逆にいうと。

司会 それは酪農を通じてということですか。

小林敬子 そう、酪農を通じて。酪農で経営診断を全部やって県知事賞を取ったりとか、あと文章を書いて、全国の読売新聞の投稿をして、優秀賞を取ったりとか、それがテレビドラマ化されて、NHKの朝ドラのすぐ後に30分間の、とか、ハッパイッキさんのモーニングショーだとか、ドラマ化されて。

司会 ドラマになったんですか。

小林敬子  朝と晩、次の日もやったか。再放送されたくらい。

小林麻美  なんという題名ですか?

小林敬子  酪農母ちゃん頑張る、かな。(笑い)私は郵便局に勤めていたから、結構経営的なものをやったりしてたから、数字的な物は割と強い方だったんで、全部自分の経営診断なんかもやったりとか、それを発表して、それは県で知事賞になって、そんなことをしてたんで、それ以外に味研でも経営と法人化した時のそういうことをやって、やっぱり知事賞取ってたのね。だから、あれに言われました。農政課に、小林さんは何回知事賞を取るんだい、って。でも、なんとなく、そんなのがきっかけになって味研なんかをやったりしているんだけど、絶対に引っ込まない、っていう、そんな感じです。

司会 でも、もともと、持ってたものですよね。

小林敬子 そう、プラス思考なんです。逆にいうとね、さっきもちょっと言ったけど、コップの水をどうとるかって。簡単にいえば都合の良い方にとるってことね。(笑い)

あんまり陰に考えない。これがあるから大丈夫、とか。これをやってしまえばいいんだ、とか。失敗しても、これも肥やしにすればいい、って。だから失敗することを全然、苦痛に思わない。楽しんじゃう。そういう性格かな。どっちかというと。だから、おめでたい、と言われる。でもそれが自分を救う道なんだと思う。ほんとに辛いと思ったり、嫌だと思ったり、お嫁に来てね、こっちきてお姑さんがいたりさ、それから農業が大変だったり、それは栁澤さんだって、みんなそれを肥やしにして、ねえ、だからやめるなっていうのは、こっちは先輩だし。美恵子さんなんかね、動けなくなったらいいけど、動けるうちは駄目だって言ってる。みんなそうだね。

 従業員だってそう。動けなくなったら、これはしょうがないけれども、少しでも動けるんであれば、味研でやって頂戴って。従業員を出来ないんなら、役員をやって頂戴って。役員が駄目だったらイベントの時だけでもいいからって。何かの形で関わってて頂戴って。いつもそんなふうにして、どうやって使えるかっていう意味じゃなくてね、どこにどういう人が適材適所にいるかっていうのは、こんな小さな所なんで、やっぱりいて欲しいなって思う。そんな形でやってるから。なんでも肥やしになっちゃうの、私の所に来ると。(笑い)

司会 旦那さんとね、出会ったじゃないですか。確かに酪農をやりたいって夢があったじゃないですか。旦那さんは魅力的だったと聞いていたんだけど。

小林敬子 ま、それは否定しないわ。自慢になっちゃいけないから言わないけど。体格は私と同じくらいかな。そんなに大きな感じじゃなかった。アメリカのウィスコンシンの方に、牧場に行ってて、向こうでやってて、結構オーナーにも気に入られて。技術もあったし。帰って来た時にカウボーイハットにね、長いロングブーツなんだよね。格好良かったよ、その時。(笑い)ジョイントギアのカッターなんかぶんぶん乗り回して、あのころトラクターなんてなかったの、そんなに。それはでかいトラクターに、身体は私くらいしかないのに大きな車のついたトラクターに乗って、よくよく聞いたらトラクターに乗るのが趣味だったんだって。たまたまそのトラクターに乗ってる時に見つかったってことね。でもすごくやる気があった。外国でずっと酪農を勉強してきた人なんで、だから北海道で会った素朴な、純朴な青年とほとんど同じに映ったよね。だから惹かれちゃったのかも知れないし。 

 主人が亡くなって一人で酪農をやって、50頭くらいずっとやってきたから、ほんとにね、帰ろうかって思うこともいっぱいあったけど、でもね、何故かっていうとね、御牧原から見るとね、夕陽とかね、朝日とか、いつも独り占めなんだ。私のためにあるようなもんだって。景色が。それに癒されたとか、そういうんじゃなくて、エネルギーを貰ったの。これって分かるかな。エネルギーを貰えるって。夕陽がこーんなに大きいんだよね。それで真っ赤でしょう。山の所に落ちて行くのが、こうやって。ああ、今日も生きていたって。朝起きた時に日が昇って行くでしょう。ああ、今日も生きてる、って思うの、いつも。それを何年も繰り返した。今、それを当たり前って思うけど、それ、当たり前じゃいけないかも知れない、逆に。でもそういう気持ちはいつもあるから、この土地が好きだね。この土地が好きだからいたのかな。好きになっちゃったのかな、この土地をね。だから自分が出来ることであれば、この土地で出来ることがあれば、残しておきたいし、足跡として作って、猫の足くらいしかないかも知れないけど、いいのかなって。そんなふうに思いますね。

司会 でもご主人を亡くされて、お子さん三人いて、不安を感じたりしなかったのかなと。

小林敬子  いや、不安というよりも、倒れるわけにはいかないよ、って。倒れたら誰も子供を見る人はいないし、牛も見る人いないし、やっぱりそういうのって15年間たった一人で牛飼いをやったけれど、50頭の牛をね、病気ひとつしたことがないの。けがはしたけど。それは親からもらった体力っていうのは、これはすごいなって思ってね。あと楽観的に物事を、行っちゃえばいいってくらいにね、石橋は跨いで渡るくらいね、落ちたら落ちたで這い上がればいいっていう気持ちしかないしね。

 石橋を叩いて渡らないなんてもんじゃないよね。落ちたら落ちたで構わないじゃないかって。それも縁だわってくらいな。逆に。そのくらいの気持ちでいつもいるから。今もそうかも知れない。だからその時その時をね、一生懸命に生きて、一生懸命に人と触れて、一生懸命出会って、それで終わればいいかな。その繰り返し、毎日が。そんな気がする。それで自分が完全燃焼、出来ればいいかな。これで頭が馬鹿になってね、自分のことが分かんなくなったら、娘に言ったの。施設にちゃんと入れてね、って。「でもお母さん、金がなきゃ入れないよ」って言うから、「そりゃそうだけど」って言ったけどね。「そこに行くまではお母さん、突っ走ると思うから」って。だから子供たちも当てにしないし、自分は自分でやっていくから。「でもそうなっちゃったら、悪いけど頼むね」で、終わり。

司会 そういう人だということをお子さんたちも見て来たんでしょうね。

小林敬子  だから、心配してるんだかしてないんだか、さっぱり分からないよ。家の子供たち。

司会 お母さん一人で50頭の牛を世話して、休みもなくて朝から晩まで、朝何時くらいから

小林敬子  やってる時には5時には牛舎に入ってたし、6時に帰って来て、子供たちにご飯やって、おばあちゃんにご飯食べさせて子供たちを学校にやってからまた、牛舎に入ってそれから仕事して、だいたい一日に15時間くらいかな、働く時間は。毎日。それやってきたけどね。全然どうこうないな。

司会 面白さがあったんですか。どういう思い出やってたんですか。

小林敬子  なんというか、おっぱいがバーンと張ってさ、酪農って。きれいな牛乳絞って、やっぱり美味しいって言ってもらって。でも一番は経済だよね。経済が採れる。今は結構高いっていうけれど、生まれた子牛を売っても10万になってくし、あと牛乳で売って。だから子供3人育てるために、やっぱり酪農で毎日大体800キロは絞んなきゃいけないって、自分の中で。それじゃないと採算がとれないって思ってたんで。だからまず目標が800キロ。これを消化していくっていうのがまずね。生き物がいるから絶対動けないっていう、そういう思いかな。逆算していつも考えて。時間も、介護も。一日のローテーションの中に。牛飼いと。介護と。それから子供のための時間と。いつもそこにメリハリがあったし、だから、沈んでる時間がなかったのよ。

 逆に言うと。それどころじゃなかったの。自分は立ってご飯を食べているようなもんだからね。北海道にいる二番目の子が獣医になって、開業して自分でやってるけど、学校に行く時に「お母さん、獣医学部に受かっちゃったけど、お金ある?」って訊いたの。「有ったって無くたって、やるしかないんだからいいんだ」って言ったんだけど。だから子供たちはそういうのしか見てないね。だから親はいつだって元気だと思っているみたい。今、一ヶ月怪我して入院して帰って来て、牛舎は一切引退して入らないでしょ。口を出さない。手を出さない。顔も出さない。でも店に行くと誰か訊くんだって。「敬子さん、元気?」って。「おふくろ、車がないから毎日どっか行ってる」って言うんだって。「味研かどっか行って、毎日いないからいいんじゃないか」って。そのくらいなもんだよ、子供たちって。でも私はそれでいいと思ってる。子供たちだって40近くなってきてる。もういいおっさんとおばさんになってるんだからね。私息子に言ったことがあるの。「お母さんは33年、一人でやってきたんだから、出来ないわけないから」って、だから一切手を出さないの。「でも、困ったら言いな」って。「どうでも、手のいることがあれば、言えばいいよ。それ以外はやらないから」って。そしたら見事に、なんにも頼ってこない。それも淋しいものよ。(笑い)でもお嫁さんと二人で頑張っているんだから、いいんじゃない?

 でもそんなふうにして、そんな時間。いいかな、と思ってる。だからいつも新鮮かな。あれこれ陰にとってる時間がないのよ。もったいないんだわ。ホントにこの間ケイタ君と行かしてもらったのは、こっちがお礼を言いたいくらいだわ。自分をもう一度リセットできたよね。「来年、マラソンに出ろ」って言ったの。「おばさんここで売ってるから、マラソン出てこい」って。「でも出るんだったら練習しないと。芸術村を走って回ってなよ」って。だから人の出会いなんて、どこにどんな出会いがあるか、分かんないじゃないですか。新幹線のなかでばったり会って、こんな所でこうして会うこともまずないしさ。

TH 小林さんがここにいらっしゃると伺っていても、なかなか来られなくて。今日は広報に出ていて、ああ、確かこの方だと。それじゃ今日はどうしても聞かせて頂かなくてはと、ここに来たんです。お話に感動して、こんなパワフルな人がこの世におられるんだと思いました。

小林敬子 パワフルかも知れないね、人から見たら。

司会 先ほど豆腐の味の話をされてましたけど。

MT 東京で、身体にいいからってことで毎日摂るようにはしてたんですけどもあんまり美味しくない。味もしなければ、でも豆腐だからと思って食べてました。それが豆腐だと思ってたんだけれども、中国の街角で朝そこで作ったものを、湯気が出るものを切り売りするんです。端っこの方がくるくるっと巻いて、それはちょっと安いから、そういうものだけを求めにくる人もいるんです。私は珍しいからじっと見てたんです。そしたら中国語で話しかけられるんだけど、「分かんない、分かんない」って言ってたら、「じゃあ、食べてみろ」とか言ってそれをちょっとくれた。本当に大豆の味。へえ、これ、大豆?みたいな。で、そういう豆腐が食べたかった。でも、東京にはない。川越なんかに行くと手作り豆腐の有名なお店があって、それを買ってたんです。それはそれで美味しかったんですけれども。でも、中国の味ではなかったんですよね。でもここに来て、スーパーに行って「御牧豆腐ってなんだろう、この変った奴」って、買って食べたら、「えっ」って感じで。それが後からこの北御牧の味の研究会でやってるっていうのを聞いて。でも、スーパーに行っても、売り切れていることが多い。似たようなパッケージで青いのがあるでしょう、あれを間違えて、急いでパッパッと買って、食べたら「え、何」って。よく見たらパッケージが違ってて。これからは確実に豆腐が欲しいと思って注文して。

TH 私は信州人になって30年経つんですけれども、最初は上田の社宅に11年。退職してからどこに家を建てようかと。栃木の方にも土地があったんですけれども、全然知らない所に行くよりはこっちの方にと、今は20年近くなるんです。私も最初にその豆腐を食べて、感動して。東京の方からお客さんが来て、出すとみんな大喜びして。私はそこの明神館で。

小林敬子 北御牧の人は皆パワフルなんで。私だけじゃなくて。夫人がみんなタフなんで。

MT 味研が出来た経緯も、豆腐を作り始めた経緯も素晴らしいですよね。

小林敬子 ここの食生活が、どうしてもタンパク質が足りないから豆腐を、って。今日そこにも豆腐を作っている人が来たよ。知ってる人。チズちゃん、お豆腐作っている人が来たよ。作る人がいて、良い大豆が採れて、作り方もにがりにこだわって、一定量しか作らない。自分たちの枠っていうのをきちっと知って作っているから、品質的にそんなに狂わない。

MT 小林敬子さんの経営の上手さっていうか、広げない、無理しない、で、その部分と、あと、さっきの麻美さんをどう活かそうかというのがありますけれでも、それは一人一人にそうですよね。小さな子供がいるお母さんをどう活かそうか、とか。それが素晴らしいです。

小林敬子 それはね。時間をね、8時半でいいよ、とかね。年配の人は朝早く出てきたり、で、そのカバーをして頂戴、とか。残りは若いお母さんが保育園の迎えができるまで、とか。それで自分たちが働いて利益が出たら、みんなに平等に分配する。誰が高いんじゃなくて。他の経営者が学んで欲しいな、と。働きかけたいな。

MT 本当に女性の力とか、働く人の気持ちを汲んで、やっぱりそういう条件が良ければ、みんな一生懸命働くし、ちょっとずつ良くなりますよね。

小林敬子 モチベーションが上がるんじゃない?私はそういうことだと思うんだ。だから、長野県で味研が一番古いんですよ。30年。それに、女性の企業でやってる所はないんです。それだけに先輩達が積み重ねて来たものの上に今、あるんであって。これから次の世代に行く時にね、やっぱり伝えて行かなくちゃならないこともあるし。ただね、思う。これからどう言う時代になってくるか分からないけれども、今、私達の感覚にはないITの時代になったり、ここがどうなっていくのか分からないけれども、味としてはちゃんと残しておきたいし、やっぱり今出来る精一杯のことを私達の年代がやっていって、それを若者がどう判断してやっていくかっていうことだけですよね。長野県だってそうだと思うんですよ。みんな少子化になっていけば、そういう時代が来るんだし。だから彼女の世代の人を大事にしておかないと、ちょうどこれから子供が育っていくし。

司会 これだけ素晴らしいことを、ずっと続けていらっしゃるんですものね。大豆は八重原で作られているんですか?

小林敬子 八重原、御牧原。ほとんどそれね。年間22トンくらい。それで豆腐と味噌と醤油、その三つを作ってる。だから、大と中は豆腐と味噌になるの。小粒の豆は規格外になっちゃうから、それを全部、醤油に作っちゃう。

TH お醤油はどこで売ってるんですか?

小林敬子  それはね、味研で売ってるのと、それから道の駅。御牧の湯にもあります。それから雷電にも置いてあるし。手作りの醤油としてね。

TH 私は丸子のダイショウ(?)に、そこは息子と同級生で、その縁でそこのお味噌と醤油を使っているんですけれども。

小林敬子 だから大豆を、採ったものをすべて使い切る。天候とかがあるし、地元産の大豆っていうのはすごく使い難いんだわ。同じ気象条件だから。雨が多すぎて、とか。気象条件が同じになっちゃうじゃない。だんだん温暖化になって、これからどうなっていくか分かんないけどね。野菜にしたってそうよね。ここは標高があるから、それでも品質にはね、割と良いものが穫れるんだけど。

司会 大豆は品種は何を?

小林敬子 ナカセンナリという品種を使っているんですよ。昔っから。それは一番採るのに良いの、収穫時期が、お米の時期からちょっとずれて。収量も穫れるのと。栄養的にも、やっぱりナカセンナリが一番多いかな。長野県では。

司会 ここの気候、土壌にも合ってるんですかね。

小林敬子 地元のものをフル活用して、行く場所が一カ所あるっていうだけのことかも知れないけど、でも、それだって大事なことだと思う。

司会 そういう意味では敬子さんの眼から見るとね、この地域にたくさん宝があると。

小林敬子 そう、あるんですよ。私は思うけど、もう少し横が繋がってね、農業資源と観光資源と、それから人間の資源と。もうちょっと上手く使えて。まあ、一つの夢だけどね、

やっぱりグリーンツーリズムみたいなね、この前幹夫さんが言ってた。例えばそこの憩いの家が拠点になって、どこどこの家の手伝いとか、収穫を手伝うとか、全部データがあってさ、例えばこういう所にカフェだってあるし、パンだってあるし、味研のものを使って食堂も出来るわけだから、ここにはここの出来ることがあり、向こうに向こうの出来ることがあり、泊まる所だってある、温泉だってあるんだから。コテージもあるし、全部を引っ括めた公的な開発が出来ればもっともっと人も使えるし、と思うんですよ。でもそれにはITがいると思うの。やっぱりちゃんとパソコンを使ってね、インターネットを使った発信とか、そういうことのきちっと出来る人がいて、その人が事務やったり、経理もやったり、グリーンツーリズムも受け付けたり、そこを拠点にしてやっていければ、もっとここが開けるんじゃないかと。建物が増えるとかじゃなくて、交流が開けると思うんです。いろんな意味で。

TH 一応市の観光課でも農家に呼びかけていますね。

小林敬子 呼びかけじゃ駄目なんだよ。誰かが、一回やってみなくちゃ。

MT 農業の手伝いをしたら、そこのコテージが安く泊まれる、とかはやってるんだけど、結局農家まかせで。

小林敬子 そうじゃなくて、行政に目鼻の利く人がいて、ばっちりと一回やってね、基本を作ってくれれば何とでもなるんだわ。そう思いません?

MT あとは地域作り協議会ですよね。

小林敬子 それがきちんと動いて機能していれば、もっと北御牧はね、今日もお祭りをやっているけど、ちゃんと人が入っているかは分からないけど、今日も行って来たの。あそこのサロンでね、月一回でも良いから小さい子供たちの洋服、要らなくなったものをくるくる廻してやっていく所だとかね。野菜だったりとか。直売が出来ないんだったら、御牧の湯でなくたって、子供を児童館に預けに来た人が寄っていく、そういうのがあるじゃない。集団検診だとか、そういう小さい子供を持っているお母さんがスルッと寄って、何気なく寄って、そこで北御牧の食べ物を買えたりとか。

 あそこに無料で置いてある洋服があるのね。もう着ないからってぶら下げとくと、結構持ってっちゃうんだよ。あれはびっくりしちゃった。お金を取るんじゃなくて、自分に取っては一切、要らないから好きな人は持ってってくださいって、井出容子ちゃんが作ったんだ。このくらいの所にいっぱい下げてあったの。それが、あれあれって言う間になくなっちゃったんだから。持ってった人がいるってことでしょう。もっと自由に、オープンに出来たら、もっと良いんじゃないかなって思って。まず、そういう所から発信なのかなって。

 だから、そんなに特別に他所の地域を模範にするんじゃなくて、まず自分の足下をきちんとやはりそこに一番良いものがあるってことを、皆が分かりながら活動していけたらなあ、と思うよね。自分の所の足下をもっと掘り下げて、良いものをもっと、知恵のあるものをもっと掘り下げていくことが、一番大事なんじゃないかなと思います。そんなに他所のことを羨む必要はないし、不便に思う必要もないし、この不便を良しとしてしまえば、いいんじゃないかな。それをすごく感じます。ここにいて。この不便で、不自由なこれを良しとする環境づくりが大事なんじゃないかな。だって他の所では、山のどん詰まりみたいな所に直売所や民泊があってね、そこに観光バスが行くっていう時代ですよ。ここなんて恵まれすぎてるよ。逆に言えば。

TH だからあんまり欲がないのかも知れませんんね。

小林敬子 何とかしよう、っていうのがないんだよ。

MT 私も思うんですけれども、こんなにいろいろなものが転がっているんだから、何かでやろうっていうことが。

小林敬子  ないんだよ。

MT 豊かなんですよ。

小林敬子 私は一人でやってたけど、どん詰まりだよ、はっきり言って。どん底に落ちたよね。だからどんな形でも良いから這い上がらなくちゃいけなかった。手当たり次第だわ、はっきり言って。どれが自分に合うかを自分で体験しながらやってきたわけでしょう。だからすごく感じるの、それを。このどん詰まり、不自由さ。若いから感じる不自由さとか不便さはあるよ、街中じゃないから。でもそうじゃない良さを、もっとちゃんと見つけてやっていくことの方が大事なんじゃないかな。

TH 私がここに来た時はみんなリタイヤして、家を建てて、今、20年だからみんな80くらいになっちゃってるんです。何かをやろうとか、そういうのは何にもないんですよ。退職金を貰って、ある程度生活にゆとりもあるしね、うちなんかもそうなんですよ。だから芸術村、白樺だってそうです。

MT 八重原のもともと住んで生活している方は、空き家があっても別に、という感じで、空き家を活かそうとか、貸そうとか売ろうとか、まるでそういう欲がない。だから空き家を活用しようって市の方で色々しているけれども。

小林敬子 そこから先が進んでいないんだ。その先が進まないんだわ。

MT でも、もともと人にその欲がないんだから。空き家があるって言っても、じゃあ貸してください、と言うと「いやあ、荷物が入っているからねえ」という感じで「片付けます」とか言ってね、賃貸にすればお金も入るのに、そこまでして、別にお金なくても生きていけるし、みたいな。

小林敬子 やっぱり皆、変えるのが恐いのね。たぶん。

MT それ以前に皆、豊か。生きていけるお金があればいいよって。それ以上の富をどうのっていう欲がない。

小林敬子 だから、私達はそこをどうしようかって、考える所だと思うんです。

TH でも知恵を持っている方は結構いらっしゃると思うんです。

小林敬子 だからこういう所を使えば良いと思っちゃうの。そういう人をどんどん引き出して、ここで話させてね。

MT さっき小林さんが、横の繋がりがないとおっしゃったじゃないですか。それなんか、私はここに住んでいるからよく分かる。ここに集まっているのは外から来た人たちばっかりだから、あれなんですけれども、もともと地元の人って、まあ敬子さんも外から来た人ですけど、もうずっとここで生活していらっしゃるわけですけれども、横の繋がりっていうのがあまりない。ちょっと意外でした。

小林敬子 もしこれで味研がなかったら、私はこんなことをしてないし、それこそ本当に酪農やってて、こんなふうに人を呼んだりとか、一緒にやることはなかったと思う。だから味研というのはすごく大事なものだと思う。ある意味で、味研の意味が。結構材料作ってくれるでしょ?材料作ってもらって、買ってもらってるのも、豆腐も配ってるでしょ、役員をやって、何かに関わっているから、味研の活用というのはすごく大きいかな。

司会 酪農やっている時でも、地域の方々とね、いろんな意味でサポートしてくださった部分もあったんじゃないですか。

小林敬子 ありますよ、それは。あるんだけど、でも所詮、一人でやらなくちゃならないんですよ。普段は全部。どんな時でも決断するのは一人なんです。皆が全部責任を持ってやってくれるわけじゃないから。

TH 市の補助とかはないんですか。

小林敬子 一切、ないです。今ね、味研で、市の助成を使うんだったら言ってくださいっていうんだけど、いりません、って言うの。下手なヒモはいりません、と。

TH そんなに出してもらったら、口も出される。

小林敬子 そうなの。自分たちでやるよ。でも、それだけの経営にしてなきゃいけないってこと。いつも。だから、甘えはない。経営に対して、甘えはない。県とか市の補助っていうのは受けない方が良い。自分たちでやる方が良い。ただ、その建物をね新しく建てたりとかね、これから次の世代に向かっていこうとするときには何とかしなくちゃいけないけど、マイナスはいらないから、プラスでなければ市でも県でもお金は出さないから。そのためには一万でも黒は黒にしておきます、ていう経営にしておくことが、私の経営です。

 でも私は酪農やってて思ったの。母子家庭だから、お金って貸してくれないでしょ。どこに担保があるわけじゃないし、その時に何かって言ったら自己資金しかないんだよね。だからとにかくマイナスを作らない。自分の枠というのは崩さない。その中で生活をし、仕事をし、そんなに余分にはなくても、マイナスは作らないような経営をしていかないと。 私がすごく思ったのは、息子が帰って来て、後継者がいて、子供が設備投資をしていく時に、私がいっぱい借金をつくってたら、市は貸してくれないよね。農協も貸してくれないよね。担保ないもの。保証人になってと頼んでも、誰も保証人になんてならないよ。その時に何かっていったら、自己資金しかないんだから。それはいつも自分の中で肝に銘じていたから。

 だから麻美ちゃんがここにパン屋さんをと言った時に、いきなり工房を持ったり、施設を作ってしまうと、施設を作るお金は何とかなったとしても、返すために麻美さんが、子供3人小さい子がいるのに、そうとう負担にして犠牲にしていかなければならない。ここを作ったはいいけれども、一週間に一遍のパン屋さんじゃ儲けにならないと。やるんだったら一週間に4日や5日、開けてかなければ採算採れなくなるから、それはやめなって言ったことがあるの。それよりもこの地域の方達がどういうものを欲しくて、どういうものを食べたくて、どういう売り方があるのかそれを全部味研を使って確認してからにしたって遅くないよ、と彼女に言ったの。だから常に自分の枠っていうのは知ってる。そんなふうな感じで味研もずっとやってきちゃったし、自分自身もやってきちゃったし、麻美さんにもお節介してこんなことしてるんだけど。

小林麻美 有難うございます。

司会  自分の枠って、経験とか失敗とかを通して分かって来たんでしょうか。

小林敬子 そう、そうなのね。これ以上やったら無理、とか。駄目になるとか。子供を犠牲にしちゃうとか。介護なんかやってられない、とか。牛を犠牲にしちゃうとか。自分の身体が駄目になる、とか。4つしかないのよ。犠牲っていうのは。だからご主人がいればご主人。犠牲がいくとかさ。でもそれを最少に、それは多少の犠牲は、これはもういいけれども、あまり偏ってしまうといけないから、考えながら、というんで。

司会 枠が分かって来たというのは自分なりにとことんまでやったからですよね。

小林敬子 それはね。やるところまでやってみないと分からない、というのはあります。その時に潔く引くのも、一つの決断だと思うし、生き方だと思う。

MT 小林さんがご主人の農場を継がれた時に、やはり女性一人でやるというのは?

小林敬子 まず、無理だと言われた。

MT 男性の仕事っていったら変ですけれども、男の人が多いですよね。その中で子供を育てながら、親の介護もしながら女手一つでやっていかなければならない。それはすごく大変だったと思います。今の時代とは違いますから、当時はもっと差別意識っていうのも?

小林敬子 あったよ。本当に、私が72馬力のトラクターを運転して、道路を走らせていると、みんな車が止まっちゃうよ。危ない、って。そんな感じで、出来ると思ってなかったんじゃないかな、みんな。

 ところが違うのよ。酪農という仕事は女だから出来るのよ。それは子供を育てているから。男性はああいう仕事をする時に、収入を取るためにやっちゃうの。で、何頭絞ってどのくらい乳出している、で、良い餌を、そういうものをどんどんくれていくの。私は違うの。全体のバランスを見て、牛が最大限の能力を発揮しなくても、8分で抑えようって。牛は健康なら絶対にもとが取れると思ってる。それが女なの。それが、女が出来る経営なの。だからフル活動しない。自分にも余裕があって、牛にも余裕があって。経済はそこそこなってればいいってくらいで。

 そういうやり方してると、牛が結果を出してくれる。必ず。そういうふうに思ってる。やっぱり案の定だよね。ちゃんと食生活がバランス良くて、牛がそういうふうな草中心で、農耕でどんどん追って乳を一杯絞るんじゃなくて、24、5キロ一頭平均、絞ってね、そうやっていけば牛は体力は使わないで、食べればエネルギーで、みんな牛乳になっちゃうの。無理矢理にでもだすの、能力で。だけどそれを、牛の能力を抑えてあげると、量も抑えられるけれども、牛は痛まないの。そうするとちゃんと丈夫な子供を産むの。で、牝が多いの。

司会 面白い。

小林敬子 そうだよ。ちゃんと。それはバランスだけなの。私は本当に勉強した。すごい勉強した。本は片っ端から読んだ。

司会 すごいですね、この話は。

小林敬子 そうなの、そういうことは夫からも学んだ。だから枠っていうのはすごく大事なことなの。自分たちが出来る量というのは。どこも崩さないで、どこもね、それは味研もそう。

司会 どっかに無理が出てしまえば。

小林敬子 必ずそこに歪みが行っちゃうし、本当にそう思う。だからせめて子供を育てている時は子供に歪みがいかないようにと。従業員にも歪みがいかないようにと思ってるけど、上手く行かないんだよね。そんな思うようには行かないんだけどさ、でもね、結構パン作りながら、麻美さんといろんな話をするよね。失敗してなんぼだよって。失敗しなきゃ無理だよって言うの。失敗は全部肥やしにすればいいんだから。

 でね、自分が子供を育ててるって思っちゃいけないよって。親にしてもらってるんだから。って麻美さんに言ったの。でも、子供育てている時は夢中で、がんがん怒りたくもなるしね。自分が大人にさせてもらってるんだなって思うわね。今になれば。だから爺さん婆さんは甘いって言うけどさ、でもそんな気がする。でも、自分が子供育てている時はどうだったんだろうって思っちゃう。

司会 話は戻りますけど、小林さんのところの乳は非常に質が高いって聞いてますが、望月にチーズ屋さんがあるんですけど、ボスケソさんね、ボスケソさんも良いチーズを作りたい。

原料が一番重要だと。どこで品質の高い牛乳が手に入るのか、自分たちで飼おうかとも考えたそうです。ただ、敬子さんの息子さんとこの乳を飲ましてもらったりとかして、それで作ったら非常に良いチーズが出来たらしいんですね。地元にこんな素晴らしい牛乳があるんだということで、ならこれでチーズを作れば良いということになったと。今お話しを聞いて、なるほど、だから良いんだと。育った牛の環境とか、牛乳ってやっぱり違ってくるんですね。選ばれる牛乳にはそういう理由があるんだと思いましたね。

小林敬子  そう、全く違うの。やっぱり、牛にストレスを与えない。牛をね、朝行くでしょ。「おはよう」って入るとね、牛がぱーっとこっちを向いて、舌をべろべろって伸ばして、挨拶するのよね。結局そういうのってやっぱり信頼されてるっていう印ね。そういうのがあるから。常に牛舎の中にいるから。やっぱり安心感だね。だからこれは牛だけに限らないんだよね。大豆にしたってトウモロコシにしたって、手を掛けなきゃさ、良いものは出来ないんだよ。手掛けて目掛けて草むしってさ、ね、美恵子さん。

YM 本当だ。

小林敬子 ただの仕事をねえ、山ほどしているよね。

YM もう辞めようかと思って。(笑い)でも、ただ家にいてもあれだしね。

小林敬子 それで腰が曲がってきてね。

YM でも行っちゃうんだよね。嫌だとは思わないんだよね。

小林敬子  結局私達はそういうふうに苦労しててもね、嫌だと思わないで酪農の仕事にしろ、農業の仕事にしろ、味研の仕事にしろやってるわけだよね。

MT それは郵便局員の仕事をしているのとは違うんですね。

小林敬子 全然違う。自然の力のエネルギーなんじゃないかな。でも私は麻美さんに言うの。良く毎日2時3時まで起きててここでパンなんか焼いてられるねって。私には出来ないわって。でも好きだから彼女は出来るでしょ。好きなことだったらできるんだからさ。そんなふうに思ってまいります。

司会 最後に何か訊いておきたいことなどはございませんか。あ、さっきあいだみつおの言葉を読んでみたいとおっしゃってましたね。

小林敬子 ああ、そうでしたね。私はこれが本当に好きで、悩んだ時にね、何十年で一番大事な本で、持っているんだけどね。当たり前に生きる、っていう。

 「長い人生にはな、どんなに避けようとしてもどうしても通らなくてはならない道ってものがあるんだな。そんな時は、その道を黙って歩くことなんだ。愚痴や弱音を吐かないで、黙って歩くんだ。黙って、ただ黙って。涙なんか見せちゃいけないんだ。そしてな、その時なんだよ、人間としてのしての命の根が深くなるのは」。

 だから私はどんなに辛くても、どんなに苦しくても、その時は黙って歩けって。だけどそれを歩いて、これを越えた時に、その人の、人間としての命の根が張るんだって。私はこれを読んだ時にね、なんか自分の置かれている立場、それはいっぱいあるけれども、黙って耐えてみよう、絶対に耐えてみせると思った。そしたらきっと自分に良い花が咲くのかも知れない、いつかと。今、花真っ盛り。(笑い)どうします?

司会 そのあいだみつおの詩は。

小林敬子 これは主人が亡くなってすぐだった。これは友達が送ってくれたのよね。

司会 亡くなられたあとに。

小林敬子 送ってくれてね、送ってくれた時に、これを読んだ時に何気ない言葉なのね、すごく。出会いっていつどこで誰とどんな出会いをするか、どういう巡り会いをするか、それが大事なんだ。その一瞬一瞬の出会いが、その人が、大事なものなんだ、と。本当に何気ない言葉なんですよ。何気ない、素通りしていっちゃう言葉なんだよね。だけどやっぱり人の縁って、縁にあっても気がつかない。縁に出会って、良いとは思ってても活かすことが出来ない。だけど、さっとすれ違った縁でもそれを活かしてさえいけば、その人の人生が開けるのかな、ということを実感して私は閉じたいと思います。

司会 有難うございました。

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