第1回 知恵蔵の時間 柳澤幹夫さん

知恵蔵の時間 第1回  講話 柳澤 幹夫さん

「農に生きる」

2018年5月13日(日)14時~16時

於 まる屋  司会 小林恭介  撮影 橘正人

司会 始めましょうか、2時になりますね。

 こんにちは、僕は小林恭介といいます。ここでは麻美の旦那と呼ばれています。まる屋をやっている人の旦那さんと呼ばれています。あんまり存在がないといいますか。今回は知恵蔵の時間ということを企画させて頂きました。

 この北御牧での暮しであったり、生き方であったりとか、そのなかでの知恵について学びたいなという思いがありまして、それならどうしたらいいのかなと思った時に、「あ、やっぱりここに暮らしている人に聞くのが一番いいな」と思ったんですね。朝、目が覚めてふっと思いまして、これはいいな、と。じゃあどうすればいいのかなと思った時に、ただ一人で聞いてももったいないな、と。であるならば、みんなで、仲間でね、お話を聞くような機会を持ったら、お話し頂いたものが、みんなのものになるんじゃないかな、というふうに思いまして、このような会を企画させて頂きました。

 それじゃ誰からお話を伺おうかということで、妻が味研(味の研究会)さんとかでお世話になっていることなどがあって、やっぱり柳澤幹夫さんがいいんじゃないかと声が出てきまして、第一回目の語り手ということで柳澤さんにお願いした次第です。

 この会はみなさんで作り上げていくものにしたいと思って、だから一方的に柳澤さんのお話をずっと聞くというだけではなく、みなさん聞きたいことがあると思うんですよ。そういうものも含めて聞いていきたいと思っています。何人集まるかが分からなかったんですけれども、このくらいの人数だったら本当にアットホームの感じで出来ると感じました。それで、幹夫さんの話に入る前に、簡単に自己紹介じゃないんだけれども、お話しして頂いたらいいんじゃないかと思いました。短い時間でいいので、一人ずつお名前、お住まい、今日参加した理由、もしくは柳澤さんから聞きたいお話しを簡単に、一人45秒(笑い)そうすれば10分くらいで終わると思うので、そういうことを教えてもらえると、そのネタも含めて話が進められるかなと思います。KKさんからいってもよろしいですか?

KK 北御牧「味の研究会のKKと申します。お世話になっております。住んでいるところは御牧原南部です。これに参加した理由は、麻美さんから言われたから(笑い)です。今日は柳澤さんに、奥さんとの当時のなれそめを聞かせて頂きたいな、と。この僻地と言われる八重原とか南部とかね、まあ、八重原の方がまだいいんだけど、一緒になって一つの歴史を築いていくって、やっぱりサラリーマンとは違う歴史だと思うので、聞きたいなと思います。

司会 その話も途中で伺いましょう。ではSさん、お願いします。

S Sと申します。住んでいるところは東京都品川です。今日ここに来た理由は、天気が悪くて(笑い)畑作業ができなくて、たまたまこの前を通って、ランチを食べてたら、この時間になってしまったと。せっかくだから柳澤さんの話を聞ければな、と。聞きたいことというのはやはり、シクロビンヤードというのをこの八重原で、今後どのようにしていくのか、ですね。お客さんを八重原に呼ぶ方がいいのか、あるいは静かに暮らしたいのか、そのへん、ちょっと幹夫さんのお考えを知りたい。

司会 有り難うございます。次の方、よろしくお願いします。

OK 奥本農園のOKでございます。自宅はここからあるいて5分くらいの所です。ただ、定住じゃないもので、千葉県の市川市と行ったり来たりで、年間約180日くらい、こちらにいます。家内がジャムを作っておりますので、そのジャムの原料のルバームをメインにやっております。プラス、シクロさん、祐子さんの所の一部の場所を借りて、食用ほうずきを植えております。そういうことで野菜関係の生産をして、家内がジャムを作る、ということをずっと、ジャムを作って8年くらいですか、そういう形でIYさんと、いろいろご指導願って、楽しく過ごしております。 最高の地、八重原で、僕たちはまだ分からないことが沢山あるので、いろいろ教えて頂きたいと思います。

司会 奥様、お願いします。

OY 夫が大分オーバーしたみたいで。(笑い)夫が語ってくれた通りで、八重原に来て良かったと思うことを再確認したいなと思って、今日は楽しみにして来ました。

司会 SAさん、お願いします。

SA 主人が幹夫さんの所で年間研修させて貰って、そこから独立して、幹夫さんの隣の畑を借りて農業をやらせて貰って、たぶん研修から年6年目になります。今日は記念すべき第一回だから来てみたいと思ったのと、このところ幹夫さんとお会いしてもお話しする時間がなかったので、お話を聞いてみたいなと思って来ました。子供がいるので、持つか分かりませんが、よろしくお願いします。

司会 有り難うございました。飯島さん、どうぞ、お願いします。

IY シクロビンヤードというワインで、八重原で畑を構えています。2012,2013年くらいに埼玉県からこちらに移住をしてきました。最初はもちろん、誰も知らないし、それから畑もどこに見つけていいか分からずに途方に暮れていた時に、まず、菅谷さんご夫妻と知り合い、彼女たちを通じて柳澤幹夫さんに出会いました。柳澤幹夫さんのお蔭で八重原という土地の素晴らしさがわかり、畑をお借りすることが出来たので、幹夫さん抜きでは私たちは存在が全くありません。本当に感謝しております。幹夫さんは畑の神様と言われています。(笑い)今日は幹夫さんが考える今後の北御牧というところについて、こんな所になればいいな、というようなお話が聞けたらいいなと思います。

司会 有り難うございます。それでは、どうぞ。

IT 芸術むら公園に住んでいます。幹夫さんは大先輩だから、これは聞かにゃいかんと。もう18年くらいになるんですが、当初分譲された時の、第一定住者です。中八重原の方にもお世話になって、常々幹夫さんのお話を聞かされていました。非常に幅広く勉強されているということで、そういうところを今日は是非とも聞かせて頂きたい。特に八重原の歴史ですね。今住んでいるところがどういうところなのか、どのような苦労があったのか、知ってこれからの人生に役立てたいなと。名前を言い忘れました。Iといいます。

司会 有り難うございます。

TM TMと申します。東京の清瀬市というところに住んでおります。今から20年ほど前に長野オリンピックがありました。その時に私は聖火リレーを担当しておりまして、その関係で、それが終わった後にちょうどこの絵画館がオープンいたしました。その絵画館の関係で、こちらにずっとお世話になっております。それと、その後オウム闘争というのがありました。皆さんご存知かと思いますが、その時に私はちょっとお手伝いをさせて頂きまして、ご縁がありました。その後合併がありまして、合併の時に一家に一冊、10000の瞳という本が出ましたが、その中の笑顔の写真というのがあります。これがそうです。お一人ずつお訪ねして、撮らせて頂いたというご縁があります。その時の実行委員長が柳澤幹夫さんだったというご縁で、私も幹夫さんとは親戚に近い感じでお付き合いさせて頂いております。よろしくお願いします。

司会 有り難うございます。

UY UYと申します。私は絵画館がオープンした時にお世話になりまして、こちらに住んでおりました。それから大変なことがございましたが、その時からのTMさんとのご縁です。TMさんは一番大変な時の、命の恩人でございます。それと同じように柳澤幹夫さんにも大変なお世話になっております。この村にはどうしてもご縁を感じ続けております。皆様と幸せに過ごした時が、この先もまだ続いていくことを願って、機会がある毎にこうしてお邪魔してしまっております。幹夫さんにはまだまだ聞かなくてはいけないお話が沢山ありますので、よろしくお願いいたします。

司会  どうも有り難うございました。今、こんな感じで皆様からご挨拶頂きましたので、さっそく幹夫さんのお話にいきたいと思います。70分から80分くらいのお話かなと思います。その後ちゃんと質問の時間も取りたいと思っておりますので、お話の中でもうちょっと聞きたいということがあったらぜひ質問して欲しいと思います。アンケート用紙も用意して来ましたので、帰る前にアンケートを書いて頂きたいと思います。今後の会にも続けていきたいと思いますので、皆さんの意見もお聞きしていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。柳澤幹夫さん、お話の前に少しだけ自己紹介をお願いします。

柳澤幹夫 私は中八重原の、皆さんから見ると先住民ということで(笑い)5代目です、私でね。通常1代が30年と言われてまして、本当に古い人は10代くらいの人もいます。どうして農業に就いたかということなんですが、5代農家が続いておりまして、もう家訓で、頭が良い悪いは全く考えないで、長男は農業をやるんだという地域やら家訓でもう決まっていました。私はそういうことで、丸子実業の農業科に行きました。地域から岩下忠善さんだとか、仲間とね、歩いて丸子まで通いました。朝なんかは半飛びくらいで行っちゃうから、山の中をね、道なき道を直通に、本当に松の根の上を歩いて学校へ行くんです。芦田大屋停車場線ていうかね、あすこ八重原から出て、直接山に入って登って行っちゃうんだよね。半飛びくらいで行くから40分くらいで行っちゃうんだよね。直線道路なら6Kmくらいかな。車で行くと7km、しっかり曲がっているからね。

 そんなことで全く迷いがなく、農業を始めました。それで幸運なことに八重原では他の地域から見ると水田面積も畑も大体倍あるんですよね。耕地が広いわけです。それで当時は、私が農業に就いた頃は、お米と養蚕、お蚕さんね、それが盛んで、今の日本の経済大国の原点ですよ。戦後の非常に厳しい時に、絹を輸出して外貨を稼いだと。糸取りの技術は非常に精密な事業ですから、今度は精密工業に移っていったんですよね。日本の時計であるとかね、そういうふうに私は見ているんですが。それで米と蚕と朝鮮人参がこの地域の特産でありまして、米や畑は他の地域の倍あるんだけど、そのまた倍の朝鮮人参でボーナス的に採れたんです。ですから経済的には非常に恵まれておりました。始めたころはね。その朝鮮人参と養蚕が続いたのがどのくらいだったか。私が農業に就いたのは昭和31年、戦争が終わったのが20年ですよね。この道を行った所の分教場が、すぐそこにあって、資料館になってますけど、その道を通って毎日通っていました。振り返ってみると子供ながらに戦争の厳しさとか、恐ろしさとか、八重原に住んでいると食べ物とか、朝鮮人参でお金が取れたということで恵まれてはいたんですが、厳しさということはひしひしと感じることが出来ました。それも経済成長で今日の豊かな国になっているわけで、厳しさも知り、豊かさも知っています。ただ今の自分たちの子供は、豊かさしか知らないんだよね。比較ができない。だからそういう所は気の毒だなと思ってますが。現在私は81歳になりましたが、一番良い時代に生まれ生きることが出来たかなと。今になってそんなことで感謝してます。

 そんなことで農業に就いたんですが、私は米と蚕と朝鮮人参の他に、自分の課題というか、プロジェクトがね、欲しくて、豚を始めました。それこそ始めは一頭飼いから始めて、というのは当時日本はほとんど魚介類を中心にした味噌の生活でしたが、肉と牛乳、そういうものが入ってきて、先進的な農家というか、そういう人たちの中で酪農をやる人も出てきたりして、豚を飼う人も出てきました。豚を選定して、それで親と一緒に蚕や人参もやりながら、当時有畜農業と言って、この辺は粘土質が、土が固いものですから、豚や牛の堆肥が非常に大事だったので、それを畑に入れることができた。そういう面で非常に選定は良かったかなと思ってます。

 それから私たちのやってきたグループ活動というのがあって、ひどく盛んにやったんですよね。八日会活動という原点は、青年研修事業というのがございまして、国の補助事業があって、農業青年の研修、養成の機関なんです。国から補助を頂いて、冬期間2か月間農事センターで同じ釜の飯を食べながら2か月間勉強しました。昼間は、晴耕雨読ではないですが、多少天気のいい時には行政の、型作り的な事とか土木的な仕事なんかもお手伝いもしながら夜なり、雨天の場合はそれぞれ県からの課長さんを頼んだりして、勉強会をしました。

 2か月間それを済んだ人たちでもって八日会という組織を作りました。みな活発で、当時農業所得80万円を目指して、今のお金なら4、5百万円だと思います。それとその目標はそれぞれがレポートにして、良くその当時考えたなと思うけれども、「農村文化と人づくり」というね、レポート集を作りました。八日会という名前八日の日に定例会でみんなで集まって勉強やら色々しようと、そういうことで会ができまして、当時積極的に海外ってわけにはいかなくて、まだ40年代だからね。国内研修に積極的に参加しようと。それで遠くは北海道に行った人もあるし、岡山だとか日本中それぞれ酪農家もいれば豚飼いもいれば野菜作りもいるし、自分に合ったところを選んでそういうことをやりました。

 私は横浜市の青葉区で、横浜市と言っても行ってみるとその青葉区ってのは山の変化のあるところで、渋谷から当時直通の電車が入ってくるって言ってました。私が行った頃に東名高速道路の杭打ちがしてありました。そんな時期でした。養豚家といっても大した規模ではなくて、10頭ちょっとくらい飼っている農家でした。けれども家を離れて違う地域に行ってみるっていうことがね、八重原と青葉区の違い、それから家庭の違いね、農家民泊ですから。茨城県からと3人ほど民泊の研修に入っていてね、いろいろ勉強になりまして、うちに帰ってきた次の年に、普通今までは養豚といっても軒下養豚と言って蚕室の隣に、というか南側に豚舎を作ってというのが当時は盛んでしたが、そこに研修に行ってきた成果として、今ちょうど豚舎があるんですが、300mほど家から離れた場所に100頭くらい飼える豚舎を作りまして、隣に畑があるものですから、そこから出る堆肥はその桑畑に入れることが出来た。そのような状況でやってまいりました。

 八日会の活動のお蔭でそういう研修が出来たということですが、その活動が大変認められまして、国でね。総理大臣賞を貰ったんです。それでこの中学校の真上にある青年研修センターね、今、味研の会長さんたちはお使いになってますね、あれが副賞で、貰ったんですよ。(笑い)

 今になると何か耐震の問題で使えないとか、橘さんなんか、誰だか知らないが泊まってるって味研の人が騒いで、結果として橘さんだったってね。(笑い)総理大臣賞なんて、そうは貰えないよね。 

司会 それはおいくつの時だったんですか?

柳澤幹夫 24歳くらいかな。研修に行ったのは24歳くらいです。昭和37年かな。そんなことでやってきましたけれども、さっき結婚の話をしてって言われましたね。

 昭和39年、26歳の時に結婚しました。この地域とすれば、土地は広いし粘土だから、八重原に嫁に行くか厄払いしようかという、八重原に嫁に行っちゃいけないぞと、そういう諺があるくらい、八重原は昔は全部人力だからね、牛耕、牛で田を起こしたり代かいたりね。青年会活動やらグループ活動もすごくやったから、女性もいっぱい知ってました。(笑い)知ってましたけど、やっぱり大手の農業者ということできっと敬遠もあったかどうか、あんまり深まらなかったよね。そんな時お袋の兄が俺を呼び寄せて、中山道沿いでこういう娘があるが、青木村にあるだがどうするだ、と。誰か入れて話をするか、と。

 ぼちぼち結婚も考えなくっちゃ、ということで俺、直々に行ってみるわい、ということで。だから、超特急もあったもんだよね。経歴もなければ写真もない、親戚の家を通して言われたもんだから、ちょうど酒屋のおばさんだったかな、一人で行ったら逃げてったかもしれないが、親類に連れて行ってもらったから、逃げ出すわけにもいかず、その家に乗り込んで、まったく見ず知らずの家だからね。そしたらその親父がね、当時は皆、お蚕やってたんだけど、田圃と。その親父が篤農家というか、先進農家でりんごをやってたんだよね。耕地が4反歩ほどあってね。篤農家なもんだから、儂もうんと興味があって、娘はそっちのけで親父と話が進んだっていうか、意気投合しちゃってね。行く前にお袋からよくよく言われていったことは、絶対に初対面の家に行ってお昼とか、そんなものを呼ばれちゃいけないぞと。また義理もでたりするとね、親父たちはきっと、そういうことまで考えてたんだよね。話し込んじゃってね、11時がちょっと過ぎちゃったんだよ。お茶呼ばれたりして、ただ今の母ちゃんはお茶を運んでくるくらいで、ぜんぜん話もしなかったんだけど。いよいよ帰るって時に、そんなこといけねえな、ってなことを親父は言っていて、玄関に出てきたら、お婆さんが俺の靴をどっかに隠しちゃってた。(笑い)それで、どうにも帰ってこられなくってさ、そういうエピソード。

 そんなこと話したことないんだけど。面白おかしく話せっていうから。(笑い)お婆さんが気を利かせてな。知恵があったんだな。それでしょうがねえ、お昼呼ばれてさ。そんなことはいけないとお袋に言われてたけど。それでも仕事好きの母ちゃんで、それで私の経営も上手く行ったのかなと。

 昭和40年に長女が生まれ、それは当時オリンピックの水泳の選手の田中聡子というのがいて、丈夫な子供に育てばいいわということで、えらい美人というのじゃなかったけど聡子と付けました。二番目はちょうどアポロ衛星が月の、着陸はしなかったの、港へ伺って帰ってきたってことで、月江って付けました。江はサンズイの江。港のね。49年に三番目が出来て、上二人女で、男を望んでたら、最後男が出来まして、大豊作ということで大作と付けました。私は名前っていうものは一度聞けば忘れない、簡単な名前がいいという考えで、ひらがなより大作は楽だよね。それで大作という百姓の名前を付けたら、4年ほど前に脱サラでね、百姓をやりたいってことで、親とすれば半分喜び、半分心配で、農家で生きていくっていえば、なかなか大変ですから。それでもなんとかやってます。

 それで6代目が始まるってことでね。結婚は昭和39年にやって昭和43年に、家を改築しました。というのは家は藁屋根の、周りにトタンをかぶした今のお寺の大きいのがあるけど、ああいう感じの家で、親父に建て替えたいって言ったら、親父は「それでも俺も結構直してあるからなあ」って、その一言で、それは金はねえわなあ、って感じて、それじゃあ借りてやるだ、と思って。住宅金融公庫のね、当時88万の契約をしてね、55坪ばかりの、36坪までで、あと作業場なり、2階は蚕室なり、そういう名目で作りましたが。当時で、400万で出来ました。今じゃ考えられないよね。今と台所は改装したんですが、そんな安い金で出来ました。

 その後昭和50年に、グループ活動を盛んにやってきたってことで長野県農業主協会っていうのがあって、それは県の農業後継者育成事業なんですが、農業大学校で泊まり込んで2か月間同じ釜の飯を食べて、そして勉強して、それを終了すると農業士の称号を頂くことが出来たの。その会が長野県中に3、400人。そして農業士協会っていう会が出来て、農政部の技術課に事務局があってね。

 その活動の中で、昭和50年に海外研修に行くことが出来ました。スイスの農家へのいわゆる民泊を入れて35日間、ヨーロッパでは先進国5か国。それとアメリカが一週間。カリフォルニアだけでしたけどね。その研修をしてきて、長野県中から集まってきて、14人で行きました。毎年その予算の中に15人ずつ、研修生を送り出すように予算が300万ほどあって、300万て言っても一人20万ですけれどもね。助成があって行って、儂に団長で行けなんて言われて、団長で行ってきたんですが、いわゆるスイスで養豚農家は一年で2000頭くらいの大規模な養豚農家でした。

 そこで新しい技術っていうのはね、繁殖豚をケージの中に、生殖が出来るようになるとそこへ入れて、すごい節食をするんだよね。そういう技術がちょうどその頃入ってきて、ケージ飼育っていうんだけどね。もちろん種をついてから、栄養はある程度与えるんですけど、普段は非常に厳しい節食をするんだよね。もう子取りをするんだから栄養を十分にっていうのと全く逆。その今の世相に日本が、私が思うに豊かすぎるんだよね。栄養が豊かすぎる。それと豚の初婚、そうだね、中学生くらいのうちからもう初種付けをする。それでいかないともう12,3歳、豚の一生のなかで2.3回取れるんです。時間的にね。もう早くにやっぱり種付けをして、やってかないと全然駄目なんです。その技術を習得をしてきたのが一番大きかったかなあと思います。その以前の飼い方は5頭なり10頭なり、集団で飼っていて、そうすると必ずね、弱肉強食ができて、餌を沢山食べたのは、子豚を沢山産んでくれればいいが、全く逆。正反対なんだよね。もう良い躰になってこれはいい子豚を沢山産む、と思えば2,3頭しか産まないんだよね。

 やっぱり生物の生殖ってものはそういう勉強の中で、自分の命が危険にさらされるくらいに追い込まれて、それで初めて生殖機能が動くっていうか、活発になるっていうか。そういうことなんだよね。植物もそうですよ。道端の草なんかは種がびっちりなんだよ。ところが野菜畑の中の、肥しを入れて大きくなったのは種がそんなにならなくて、なった種も果たして発芽力があるかどうか。そのくらい、やっぱり生殖ってことは私はそういうことだと思います。今の日本の少子化の問題にも、大きい問題があると、私は豚と人間を一緒にしたら怒られるけど、全くそういうことだよね。

 それでスイスで勉強してきてね、じゃあ豚を大きくやろうということで昭和52年、研修に行って2年後ですが、総事業費3000万かけました。当時1000万あると50坪くらいの良い家ができたよね。家が3軒分くらい。借り入れが2400万くらいで後、600万の自己資金ということでやりました。それで年間出荷頭数が800頭。売り上げが3000万台でした。通常は5年据え置きの10年返済ですが、私の場合は豚舎を建てた次の年から返していったんです。2400万を10年で返そうということで。240万と金利が30万あったかな。270万くらいずつ、初めて10年で返し終わりました。それも、今だに不思議に思うんだけど、まったく他で貯めておいた金だとか、そういうものはなくても、楽々10年で返しちゃったのね。

 どうしてかっていうと、養豚経営で一番大事なのはさっき言った繁殖技術。良い子豚がたくさん取れなきゃ駄目。もう一つはね、豚価が3年半で周期してたの。それが分かって頭にあったもんだから、安い時に成績の悪いのは淘汰して母豚を整えて、それで経済連の種豚センターで3頭買えば1頭まけるよという、そういう時期に行って母豚を整えておいたの。それが大きくなって子豚を産んで肉豚を出荷するころになるといい値になったわけです。だから、豚相場を利用したということです。母豚の技術が良かったのと、設備も豚舎を一斉消毒ね、自動でスイッチを入れれば出来るような、そういうことで非常に経営的にはね。一番安い時には自分の手間はなかったけれど、マイナスにはなりませんでした。

 普通安い時には2、300万ひっこめちゃうとそれを回復するに大変なんだよね。その上をいかないと所得になって来ないということだね。だからそういう研修の子取りの技術の習得が一番良かったかな。

 だから楽々返済をして、まるまる12年やって止めたんだけど、止めた理由は2つあるの。議員を勧められたというのが一つと、それから豚が自由化になったんだよね、昭和末期に、豚肉が。議員もそんなにやりたいわけじゃなかったけど儂、たまたま青年クラブで農業委員になってたんだよね。農業立村ですから、農業委員会では農協組合長もいたり、議長もいたりね、産業経済委員長もいたりね。議員も大勢いて、たまたま議員が全然いなくなるような陣容になっちゃったんだよね。そしたらその組合長やら議長やらがお前が今度やれと、そういうことでね、だから地元から推されたんではなくて、そんなことでやって、ところがうちの前の3代前の新宅の一(はじめ)さんという人が2期目やって、3期目になってという、内輪でそういう話でした。それで村長がその隣についていて、村長が事実上の責任者で、本人に話に行ったらお前がやるなら俺もやるわ、と言われて。

 俺もちょっと気が楽になってね、内輪で二人出るなんて無理なんだよね、普通は。でもそれを何とか成し遂げて。それというのも、グループ活動をものすごくやっていたから。知人友人がいっぱいいたからね。一緒に出た一さんもね、当選できましたし。珍しいケースだと思いますが。養豚を止めたら、数字はなかなか言えないけれど、退職金を積んでた訳じゃないけど、経営的な中で、公務員を上回る退職金になったの。それも不思議で、自分でもちょっと分からないけれど、経営内容が良かったということで。飼い方がね。成果が出たってことで、それで止められてね。議員も楽々出来たしね。

 その後、農業も今度は直売農業になったの。養豚を止めて。そしたらその直売農業が、丸子の武石村っていう所に海外に行った仲間がいたもんで、そこにトウモロコシを送ったら、県下でもナンバーワンってくらい早かった直売所があって、そこに通じて、是非持ってくるようにって、向こうから言われて持って行ってそこで直売農業を教わったんです。 

 そこに通ったり、それから道の駅の雷電と、今は国分の直売所ね、昨年、一昨年ですか、成果として年金も夫婦で200万くらいあるもんでそこにプラスアルファになったもんで、医療費が3割になってしまって。それには参って、一度医者に行けば1万5千円も取られて、それから昨年息子の給料を大きくしたり、いろいろの経費を計上して何とか1割負担にしましたけどね。

 八重原の、この粘土質で出来る野菜はブロッコリーにしても白菜にしても、そういうものが全部美味しいんだよね。今は八重原農園の名前で出しています。昔は八重原っていえば嫁にくれんな、なんて言ったもんだから、八重原って言いたくなかったんです。北御牧の柳澤ですって言ってました。ところが、その言いたくなかった名前が農園の名前になりました。それだけ八重原がね、いわゆるこの芸術むら公園が出来て、レベルアップして、文化人が沢山ね、お出でを頂くようになって、本当に良い所になりまして、感謝してます。

 一番に言いたかったのは、皆さんにこういう会を作って頂いて、私は先住民と新住民との交流を深める中で、新しい地域の生き方や農業や、そういうものを作っていかなくちゃならないと思っています。ですから、そういう面でまる屋さんのこの会はこれから大事にしていかなくちゃならないしね、それで、まだまだ北御牧の豊かな自然、資源だと思います、今になるとね。それを使い切っていないよね。今は直売農業ですけれども、これから出来るかどうか、グリーンツーリズムね、そういうものを主体に農業経営をやって、民泊だとかやればと思っています。一応商工観光にはそういうことを押し出してありますが、いまだにね。モロコシでも連休の頃、もぎに来てくれればいいなと思ったけれども。来なかったけれどもね。

 次のことはそういうことだと思います。グリーンツーリズム。都市と農村のね、交流を深めて。それで地域を活性化していくというね。儂らはここで生まれたから、ここの美しさが当たり前と思っていて、感動も何もないけど、他所から来た人は鮮明にそのことは感じるわけでして、逆に新住民に教わるんです。この地域の良さを。ただそういうことでさっき言った歴史的なこともね、言われましたが、いわゆる丘陵地で、自然の河川がないわけですよね。ですから400年ほど前は沢の所に少し田圃があった程度でね、それが360年前に黒沢嘉平衛という先覚者がいて、蓼科山から延々と50kmにも及ぶ人工の水路を引いてきた。今ならサイフォンで簡単に引けるかも知れないですが。そうしたことで水源が確保され、流れてくる水はそんなに大量じゃないですから、使わないときはこういう風に池に貯めておいてね。それで田圃に入れる時は一挙に出して、夏の厳しい干ばつなんかの時にはね、使って。それとまあ、深井戸もあるんですよね。それは電気料が掛かるものであまり使ってないけどね。緊急事態が生じた場合にはそれも使います。飲み水についても、これは蓼科から来ているんですが、それが半分と、上八重原地籍に深井戸があって、その水も混ぜて半分半分で来てるのかな、その数値はちょっと分かりませんけど。飲み水もこの辺はとても恵まれています。千曲川の水を浄化して飲んでいるなんてことはない訳ですから。有り難いと思っています。

 それから横浜市の青葉区、スイスに行った研修が、人生の中で一番勉強になったと思っています。それで私の家も来た人はよければ受け入れるよと言って、そうしたら農業改良普及所を通して福井県の境農校という所から23年続いて来て、多い時には3人来たこともあって、それで50人近くなるよね。その後、大学、農大、獣医大学、いろいろ来て、トータルでは100人くらい来ているかも知れない。そういう中でね、ただ受け入れて他人を家庭に入れるということがね、自分の子育てにそれを利用した面もある。というのはやっぱり他人がいると子供なりに気を遣ったりとか、ちっとはいい所を見せようと思って茶碗でも洗うとか、そういうことは儂はあったと思います。それとまあ逆に、教えるだけじゃなくて勉強になったのは、福井から遠いもんで、問題があったからといってちょっくら帰るってわけにはいかないわな。それでお婆さんが心配で心配で、何度も電話してくるんだよね。そういう子供は全然問題ないの。(笑い)というのはね、年寄りと接点のある子供、これは知恵もあるし、感情も豊かだし、そういうことを逆によく見ました。ところがいろいろまあ来たからね、この子の親の顔見たいなあと思うこともありました。いい面と悪い面と、二通りあるよ。だから逆に勉強させてもらいました。

 儂もそうして人生をやってきて、そろそろおさらばしなければならない年ですが、ここに来て菅谷君が来て、またこの飯島さんも来て、非常に優秀な二軒が来まして、私の新宅が二軒空いてたのが両方ともね、買って頂いて、埋まりました。そういう面で儂も嬉しく思っています。非常に人間性がね、飯島さんでも菅谷君でも上等で、そういう面で新しい仲間が出来たっていうね。

 同じ柳澤の曲輪付き合いでやってきたんだけど、全く違った角度の、違った知人、友人が出来たってことでね、非常に人生が広くなりました。農業が今厳しい時代なんですけれども、やっぱりグループ活動、友人知人、協会の活動、今は農業経営者協会があって、いまだに総会とかがあって、感謝の気持ちで行くんですけどね。お礼の気持ちで参加しています。農業やってきて、痛い所もないし、作物と植えてその成長の具合を見て、だから畑に行くのが嫌じゃないんですよ。畑にもすぐ飛んで行きたくなるような。そのために躰を動かすから夕方のお酒が美味いし。ご飯も美味いし。食欲もあって、ちょっと食べ過ぎかな。ズボンも一杯一杯で、穿くやつ穿くやつ、これも駄目だって具合でね。

 これは行政の力ですけれども、芸術むら公園が出来て地域が、それと文化人が大勢来てくれてこの地域のレベルが高くなったということですが、どうしてこういうことが、これは儂もとても不思議なんですが、「芸術むら公園」という命名が、普通なら「御牧」なんていういい名前があるね、「八重原公園だとかね。それが普通だと思います。それが今から20年も前に、そんなに豊かな時代じゃない時にそういう名前がついたというのがね。それは一番は、小山村長が地域文化に造詣が深いということと、この地域から大学の教授が何人も出ているよね。布下から田中良尊、絵描きで、筑波大の教授だよね。今の芸大の副学長の保科さんね、それと羽毛山からこの10000の瞳の本のね、三澤教授。この本を作ろうとして三澤教授がこれを持ち込んできたんだ。それで出来たんだけど、それは当時は文教大学の教授だったけど、今はね、武蔵野美大の教授です。儂らと同級生のなかに京都で活躍している荒井まき子さんという絵描きであり、結婚してから美大を出たんだけど、示現会というんですか、京都の支部長だよね。市長やらと一緒に出てるから。

 そんな人がどうしてこの地域から大勢生まれるのかなあ、とか。やっぱりこの千曲川が育てるのか。浅間山が育てるのか。そんなことまで考えたりしますが、やっぱり北御牧というのはそんなに便利じゃないよね。不便さがあって、あまり便利だと知恵が働かない。体力もつかないし。隣に店があったりして。程ほどに不便なのがいいんじゃないかと。地理的なことが人を育てるのかなあとか。

司会 10000の瞳の本は、会長さんをされてたんですか?

柳澤幹夫 そうです。これはね、北御牧は小さい村ですから行政指導でやってきたの。ちょうど合併の前の姿を写真に残そうということで、その三澤教授がね、持ち込んできて、村の理事者に話して、村長じゃないけど話したけど、村を脅す気かっていわれるくらい、理事者に是非これをやろうってやったけど、どうでも拒否されてそれでまあ、しょうがないということで諦めて、民活でやったの。たまたま儂が議員も終わったところで、行政の中も分かるし、選挙をやるから地域中もね、分かるもんだから、だから実行委員長をやれっていうことになって持って来られて。私も困ったんだけど。ちょうど今のデジカメになる前で、フィルムが車一台、インスタントカメラを始めね、軽トラ一台、フィルムを会社から寄付して貰ったんだよ。それを持って地域の説明会をやったりね、そしたらこんなに厚いのが出来ました。しょうがないから寄付金でね、最終的には1300万くらい集まったかな。こういうプロがいてそういうことに精通している人がいたから出来たよね。助かってるよね。各家に一冊ずつ1000円で買って貰ってね、みんな喜んで出してくれました。これも儂の人生の中で、大した思い出です。

司会 梅野記念絵画館の友の会でも副会長でいらっしゃるんですよね。

柳澤幹夫 儂は議員をやっていたから芸術むら公園を作る時からこんな小さい村に美術館なんてとんでもないと、経費も掛かると。それも当然の話です。そういう強力な反対をした議員も結構いました。私は賛成したんだけどね。それでたまたま儂の同級生が東京に行ってて、その渡辺さんという人が梅野さんを紹介して、それでその会を持ってて、その作品が本物であるかどうか判断するのは行政じゃできないよね。

 そうしたところが、保科さんが一目見て、これは本物だと言ったので、その一言で行政も安心して梅野さんを誘致しました。で、普通は農林予算で美術館なんてできないんだよね。ところがふれあい館、という名前をつけて、地域住民の作品の展示、そういうものを合わせてやるってことで農林予算で美術館を作っちゃった。知恵があったんだよね。温泉なんかも研修センター名目で使ったと思いますよ。

 それでふるさと創生一億円ずつ全国に配ってね、それで創意工夫の行政ができるようにやれということで、その時北御牧の知的な力が生きて、近隣どこよりも早くこの美術館だのケアポートみまきだのね、非常に有利な予算を使って先にやっちゃったと。他の地域は北御牧の真似ですよ。大げさに言えば。それだけ学のある人が村長の回りについていたってことなの。

KK ケアポートなんて最たるもんだよね。

柳澤幹夫 そう。あれは船舶振興会の資金を大量に投入してモデル的に作ったものですよね。普通だと一部屋集団で入っているんだけど、個室方式という、そういうやり方もあったんだよね。温泉プールはやるわ、まったくモデル的なもの。あれと芸術むら公園ね。それが出来たのは理事者の知識や理解があって、取り巻きが揃っていたからだね。それで「芸術むら公園」という命名が出来たんですね。これから活性化するためには自然の美しさ、この北御牧は住民の連帯感があって、人の優しさもあると思いますよ。協力しなければ蓼科から水は来ないですから。

今は皆コンクリート水道だけど昔は全部、泥ですから、春にはみんな泊まり込みで行って、水路を全部直して、水を持って来た。そうした協力体制が、歴史的な所で整ってたというのと、住民の優しさがあるんです。まあ、だんだん薄くなっているかも知れませんけど。もう一つの、芸術文化の香りがするような、という、その三つが揃うと、これからは地域の活性化という、首都圏からお客を呼べるような地域になる、とまあ、そんな話です。

司会 有り難うございます。後、もう少し感想を含めてお話ししましょうか。

柳澤幹夫 それから趣味もやりました。忙しかったけど。生け花をね。師範の免許も取りました。昔はやることなかったから、立科、望月この近隣で遠州流の会があって、旅行に行くなんて言えばバス3台も4台もで行ったもんだよ。それは盛んにやってたし、詩吟も25年やりました。どうしてそんなに続いたか、女衆に言わせれば、先生が偉い美人だったからだと。確かに美人の先生で、男との付き合い方が上手っていうかね、会の中には女衆もいたけどね。大会があって、小諸だの佐久だの、それもやりました。

司会 声がいいですもんね。

柳澤幹夫 声が良い?ただ楽しみ会みたいにやってただけで。詩吟そのものは大したことなかったけど。それこそ青年団活動の時にはね、芝居を一年に一度はやってました。儂らはぶきっちょで素人で、教える人も素人で、芝居から踊りからみんなやったもんだよ。

KK 昔の敬老会ってすごかったよね。私たちもやったけど。

柳澤幹夫 その敬老会になる前だね、俺たちの頃は。

KK 農業もすごいし、趣味もすごいしね。

柳澤幹夫 皆さんに伝えたいのは、やっぱりグループ活動をうんとやるっていうね、それが身の為になり、自分の経営にも良かったっていう。だからそのことだけは伝えたいよね。

司会 最初の話の八日会っていうのはまだ結婚される前のことですか?

柳澤幹夫 そう、本当に若い衆の会でした。その中から議員が4人出て、最後の村長、議長は――私は議長でしたが――その中で出ましたよ。岩下さんが最後だね。村長で。

司会 やっぱり自然にこの地域をこうしていきたいという話になったりする訳ですね。

柳澤幹夫 そう、自分の運営をどうするかということやね、これだけの収入を目指してってことになるから。今なら勤め口がいっぱいあって頭が混乱するけど、当時は農業しかなかったから。それに集中できたから。今はそんなわけにいかないから。

司会 最初は米、養蚕、朝鮮人参ですね。途中から養豚が入った。

柳澤幹夫 その豚が良かったんだよね。それを終わって直売農業。

司会 朝鮮人参と養蚕てどういうふうになっているんですか。

柳澤幹夫 殆んどこの辺は桑畑で、そのなかに1割くらい朝鮮人参の小屋があったかな。5パーセントとか、1割。最終的には東部の方へ、土が、東部の方か柔らかいもんですから。この辺だと冬100坪くらい、30cmくらい人力で掘って藁とか有機質を入れて一年がかりで植えたり撒いたりしたの。

司会 養蚕て、最後いつ位までやられてたんですか。

柳澤幹夫 昭和47,8年くらいまでかな。儂らは当初、牛に桑を背負わせて、道も悪かったし、そんなこともあったですよ。養蚕の盛んなころはお蚕というのは非常に精密農業ですから、女性が主任で飼った訳。八重原の蚕飼いの産地は女性が力強くってかかあ天下が続いたんですよ。

司会 奥さんもお金を持っていたということですか?

柳澤幹夫 持ってたっていうか、飼育技術は女衆が、それで先生が毎日回ってくるわけ。それを受けるのはみんな奥さんだからね。「桑取ってきな、お父さん」なんて命令して取って来させてくるくらいの。北御牧の味研の本家の元はそんな所かも知れない。

KK 奥さんの集団が味研だったの。

司会 気合が入ってますね。

KK みんなそうですよ。異色なのは私だけ。

柳澤幹夫 他所から来られたものね。

KK そうです。ほんとに他所から来て。

司会 ほんとにお話し聞かせて頂きまして有り難うございました。せっかくこの位のメンバーなんで、お礼も兼ねて感想を幹夫さんにお返ししながら、もう一度聞きたいことがあったらと思いますけれども。今度は反対回りで。

UY ずいぶん今までお話しを伺っているんですが、初めて聞くことが多くてびっくりしました。楽しかったです。一つ疑問があったんですが、息子さんが、大作さんが脱サラということで農業を継がれたと伺いましたが、家訓はどこに行っちゃったんですか?家訓というのがありましたよね。長男は農業、と。

柳澤幹夫 そんな書いたものはないけどね。そういう習わしだわね。弟なんかに言わせると長男は大事にされたけど俺は軽視されたと。大事にして後を取ってもらいたいっていうね。それは若干あったかもしれないね。そんなに差別して、とは、俺は感じなかったけどさ。

UY ご長男の大作さんは長男だから農業、とはならなかったんですか。

柳澤幹夫 それは全然、関係ない。もう時代が代わっちゃったから。こんなことを話していいかどうか、あのね、いいことばっかり話したけどね、我が家では一つだけ悲しいことがあったの。私は5人兄弟で、上下が女で、後は男でね。

 一番小さい弟が、小学校の3,4年の頃は成績が2と3が半々くらいで、兄弟一頭が悪かったんだよ。ところがある日突然、勉強で、テストでも当たったんだろうね、勉強し出して、ご飯食べる時と寝る時以外は勉強して、そうしたら中学終わる時には体育が4一つあったきりでオール5だったの。ところが勉強ばっかりやって友達付き合い0、スポーツ0、結果として日大の工学部を出て、東急に入っていったんだけど、いわゆる社会性が0、だから勤まらなくって。結局努力しても自分の思いが通らない、その辺の指導ができなくて、俺は4つしか違わないから無理だよね。

 それは親父の役目だけど。それで結局自滅して。それが一番悲しいことで。それだから自分の息子には「おい、たまには勉強やるか」と。全然勉強しない。子供には勉強だけじゃだめだ、といたく感じたからね。そうしたら自分の息子は高校の時からバイク狂になってな。家業の話は時代に通用しなくなって、だから好きにといって。そしたら結局岡山に行って、バイクのレースが出来る場所であればどこでも良かったのね。川崎大学ってだか、医学部から社会福祉から今のいろいろな医療の資格を取る、ちょうど勘六山一山くらいある大学の場所で、透析のほうの資格を取ってきて、病院勤めはあまり気に入らなかった。その前に息子は自動車販売の店を任されていたんだ。だから商売っ気はあるんだ。でも店長になると夜9時10時。デートも出来ないわけだ。それで定時定休の所に行かなくちゃということで、資格を持って5年間向こうでやっていて、息子が学校にでるようになってこっちに来て。

 市民病院で透析やってるから、すぐ来てくれということでね。それで5年くらい勤めたか。ところが仕事が単調だったんだね。商売っ気があって、親父の苦労している姿を見て、やるっていうんだからしょうがねえわ。許可したのは、儂は豚舎の回りに2町5反くらい集めたわけ。借り入れもあるけどね。それが基盤にあるから、電気水道もあるから、それで許可したわけだ。

KK 誰も不思議に思ったの。息子さんがね、透析の病院に勤めてるってことなのになんで八重原に帰ってきて、百姓をしなくてはならないのかってね。固定して給料を貰っているのに。いい給料してるのにね。百姓で食っていこうなんて。不思議だって言ってましたよ。

柳澤幹夫 透析なんて、仕事が単純なんだよね。人は変わるけど、慣れちまえば毎日同じだから。子供でも出来る。(笑い)そうしたら今、透析の人がお手伝いに、二人、来てますよ。不思議なことにアメリカの大学を出た、味研でも世話になっている人が、ともちゃんっていうんだが、お袋さんが透析やっててね、夏休みで帰って来るからアルバイトにやってくれないかって頼まれて、来たら百姓が面白くなっちゃって。そのうち鶏糞も撒くと言ってる。俺に結婚式まで呼んで、また是非お願いします、なんて言ってます。家はあるし、土地はあるし、だから東京で大きい借金で家を建てるなんてことはなくて、遊びでね。だから土、日は旦那様のお子守で、来ねえわい。(笑い)ああいう生活もいいんだなあと思って。

TM 幹夫さんのお話はとっても面白くて。今まで聞いたことのない話ばっかりで。幹夫さんにはよく友の会の会合なんかの時にですね、みなさんに美味しい北御牧の食材を味わって貰ってますが、その時によくお話に出てくるのが、ここは標高750mという土地です、と。

柳澤幹夫 前後ですね。

TM 750m前後の土地ということと、それから粘土質ということで、ここの土地の特性をよく説明をしてくださっているんですね。ここの、他とは違う農業に向いた特徴というのをもう一度お話し頂けますか。

柳澤幹夫 やっぱり標高700mってのは、高冷地でもなく、暖地でもなく、そこに大きいハウス園芸があるよね。中間地帯だから、両方のものができるんだよね。暖地となると、静岡の方になるともう駄目なんだけど、地物しかできなくなって冷房をかけてまでやらないと出来ないから。それと果物がね、温暖化で長野は400mでちょっと問題が生じてるんだよね。そこにいくとこの辺はね、この辺の延長線で立科の五輪久保のりんごが日本一だなんて言ってますけどね。この辺でりんごが入らなかったのは、養蚕と朝鮮人参が非常に良かったから、田圃も広かったから、それでもう食べて行かれたわけ。本当は今になると、私の考えでは大きい農家が、いわゆる土地利用型作物という、米とか麦とか、アメリカみたいに大面積の所で作る作物を作っているんだよね。そうでなくて、果樹なんかなら2ヘクタール位あれば生活できるんですよ。20、30田圃をやってね、それで畑もやって、となると八重原全体でね、10人とかそれ位しか生きていかれないですよ。田圃が250ヘクタールあるの。それは土地改良区でも測ってきてるから面積は狂いがないが、畑はどの位あるのかなあ。行政に行ったら把握してないって言うんだよね。ほぼ同じくらいあるんじゃないか、という儂らの感覚でね。もう少し果樹とかハウス園芸を取り入れて、いわゆる高級な、麦なんてことじゃなくて、輸出できるようなね。ヨーロッパからすると日本の品種改良、農薬、機械、非常に優秀なんだよね。あまりにも高級志向し過ぎるね。だから多少、葡萄だって大小あったって。農家だって手間が掛からなければ面積を増やせばいいからね。もう少し安く食べる方法を、消費者も共に考えていかなくちゃいけないと思うんだけど。後はなんだっけ。

TM 標高ということと、ねばっちょという……。

柳澤幹夫 ああ、ねば、ね。粘土質だとどうして美味しいものが出来るかというね、そのへんのことは難しいんだけど、やっぱり粘土質には微量要素、ミネラルを含めてね、非常に大量に入っているんだけどね、そのために植物が健康的に育つというね。仲間に葡萄作りがいてね、農業経営者協会の総会で話したら、そういうふうに言ってた、と。粘土はいじくると固まっちゃってね。よく植物が育つなあというふうに、儂ら自分がやっていて感じます。そこにいくと火山灰土なんかは雨降ろうが何しようが、雨降ったってすぐ起こせる位だけど、菅谷君でないけどトラクターを買って嬉しくって冷っこい時に起こしちゃったんだよね、そうしたらその年は作物が良いものが出来なかった。

KK 乾いた時にコロコロになっちゃうね。

柳澤幹夫 それで、微量要素というふうにいうんだけどさ、今少し科学的に説明しないと学のある皆さんにはな、先生、今度、説明してや。それと温度差ということがある。

KK 甘みが増すということね。

柳澤幹夫 儂らは終戦後の農業を知っているけれども、多収穫競争を盛んにやってました。お米というのは亜熱帯の植物なんだよね。本当は。ところがこういう長野県の涼しい所に来て夜涼しいことによって養分蓄積が違うんだよね。だから、普通なら新潟県だよね、それが長野県なんかの純高冷地みたいな所が収量が上がる。味ももちろん、いいんだよね。それとこの八重原は広さがある。粘土だから大変なことはあるけど、今は機械があるからね。

IT 今の豊かなお話を聞いて、感じたことは、皆さんとはちょっと視点が違うんですが、私は田中に製紙会社があったもんですから、神戸で採用されて、終点が田中の工場に来たわけですが、外注さんが下八重原にあったもんで、柳澤印刷さんがね。社長にここの分譲地を紹介されて、ちょうど息子が結婚したいという話があったもんで、無理して買って定住第一号だったんです。ですから中八重原の自治会に4年ほどお世話になったんです。その時点では農村的な閉鎖感というのがね、長野に転勤する時には一見客には愛想がいいけど、定住とかね、いつもいる人間には冷たいよと。よく聞かされてね、来たんですけれども、中八重原でお世話になってそんな感じがなかったんです。結構開かれているというか、気質も聞いているのと相当違うな、と。幹夫さんの話を聞いて、なるほど、と思いました。幹夫さんがいろんな所に行かれて多方面の交流やらがあって、その方が中八重原に住まれていて、そうした考えが皆さんに伝わっていて、だから思ったよりも心配していたことがなかったんですね。以外にフランクな付き合いをさせて頂きました。今でも今ちゃんと呼んでくれます。そういう経験を思い出して、それが何故だったんだろうかというのが、今のお話の中で分かりました。幹夫さんの各方面の付き合いやらそういう感覚が中八重原の皆さんに伝わっていたのかなと思いました。非常に中八重原を自慢する方が多かったですよ。良い所に来たよ、というようにね。今ようやく分かりましたよ。

柳澤幹夫 そういうふうに言って貰えると嬉しいです。

IT 下八重原も上八重原も、今、2度目の区長なんですが、やはり中八重原は違うなということを再認識しました。こういう方がいらしたから、皆の意識が違ったんだなと思いましたよ。

司会 最初に先住民とおっしゃってましたね。この地域には移り住んできた方が多いのでしょうか。

柳澤幹夫 歴史的には新しい所ですから。いわゆる昔は入会地といって、みんな川沿いに全部住んでて、焚き物を採ったり、家畜の草を刈ったりするような場所だったんです。だから新開地みたいなもんだよね。御牧が原にいくとまだ2代位は新しいよね。

KK 家で4代目位だからね。

司会 そうですか。

IT 昔はみな鹿曲川の沿線にみんな住んでいて、「ああいう所に住んでいると大変でしょうね」と言われた時に、「何を言うか、百姓は日当たりのいい所は、一番いい所を田圃にする。太陽が当たる所をね。人は太陽の当たる時間の短い所に住んでいるんだ」と。なるほどと思ってね。

SY 遅く来て申し訳ありません。今度、御牧ふれあいの里づくり協議会の広報紙担当になったので、今日の取材をして載せたいと思いまして。私は幹夫さんからいっぱい話を聞いているので、ねえ、幹夫さん。

柳澤幹夫 今日は新しい話がいっぱいあったよ(笑い)。

SY じゃあ、第二弾をまたよろしくお願いします。

IY 私は今、ワイン葡萄畑を2ヘクタール貸して貰ってそこで葡萄を作っているんですが、それを手に入れるまでが本当に大変で、行く人行く人に畑を貸してください、とお願いしても、「余所者には貸せないよ」と断られたり、という時期がすごくあったんですけれども、その中で幹夫さんと出会って、先住民と新住民との融合で土地が活性化していくんだというお考えのもとで、私たちを受け入れてくれて、私も幹夫さんの所で2年半くらいアルバイトをさせて頂きながら、いろんな人に紹介してくださったんですよ。「この人たちはワイン葡萄をやりたいと言っている。何とかしてやってくれ」と紹介をしてくださって、お蔭で畑を借りることが出来るようになったんですけど、その時に先ほどの10000の瞳の本を幹夫さんに紹介して貰って、それでTMさんにもその時にお話も伺ったんですけれども、あそこに八重原の人が全員載っているんですよ。私たちは余所者なので、まだ、例えば柳澤さんといっても何人もいらっしゃるんですよ。岩下さんといっても何人もいらっしゃる。どうやって覚えたらいいのか、下の名前で覚えていたんですけれども、私はその時にその本を通しまして今日、出会った人を帰ったらあれを見て、あの人はそうだなと確認しながら。

SY 私もやった。(笑い)

IY そうやって皆さんと、ちょっとずづ距離を縮めていって、お蔭で最初は7反歩から始めていって、二人で一生懸命働いてたら、じゃあうちも貸していいよ、と言われて2ヘクタールまで広がったんです。幹夫さんの考え方のお蔭で今の私たちがあると思います。ただ、あの10000の瞳はとてもいい本なんですけど、皆さん若い頃の写真なので。(笑い)

柳澤幹夫 そうだ、あの孫は幾つになっただい、なんてね。

IY とても良い本で、昔の風景なんかも写真で残っているなんてとても勉強になりましたし、八重原で生きていこうと思った自分にとっても、八重原の歴史を知るために良い本ですので、これからも大事にしていこうと思っています。幹夫さんこれからもお元気で、また畑にいる時にはお立ち寄りくださって、いろいろご教授お願いいたします。

柳澤幹夫 儂が感心してるのは、他所から来ると、学のある所から来て、村の者ってな顔をする人があると思いますが、飯島さんのね、特に祐子さんは遠くにいても皆に最敬礼してね、そんなもんだから皆、ここでワインなんて新しい仕事だからね、皆寄ってくの。これだけの土地だから使えってなもんだから、地域に対して敬意を表してる姿が、みんなに通じてるの。やっぱり他所から来た人ってのは姿勢っていうかね、モデルだと思うから、都会から来た人たちはね、飯島さんのような人を呼んで、お話を聞けばいいと思うよ。それは一つの本人の実力だと思ってね。儂らは7反歩はやったけど、後は全部自分で2ヘクタールまでいったからね。地元の人でもなかなか出来ない。人との接点の真髄は知っているわね。都市と農村という時代だから、そういうのを勉強してね、そうじゃないと自分自身が損しちゃうからね。ちょっと気持ちよく挨拶されれば野菜でも持ってってやりたくなるだよ。変な目で見られれば反発するからね。そういう人の姿勢って大事だよね。

OY 八重原に家を建てて11年になるんですが、千葉の市川と行ったり来たりなんですが。本当にここを選んで良かったなと、いつも思っています。今日はさらに八重原を選んで大正解だったと。まだまだ知らないこともいっぱいあるし、知って良かったこともいっぱいありますし、これからここで生活していく上での励みにもなるし、本当に今日はお話を聞けて良かったと思います。またお目にかかると思いますが、よろしくお願いいたします。

OK 先ほどもIYさんのお話に出ましたが、ここら辺は苗字が同じ名前が多くて、柳澤さんと岩下さんと、太田さん、あと笹平さんですか、やはり、そういった名前が多いんですか?

柳澤幹夫 あと、関さんも多いね。ああ、滝沢さんも多いですか。

OK そういう家系図ってあるんですかね。

柳澤幹夫 まあ、何というか、系統的にたくさん増えた系統もあるでしょうし、大勢で集団である程度、来た人たちもあるでしょう。

OY 前に中八重原の岩下ですと言われて、はいはい、と言って、どこも皆一緒で。(笑い)辿り着くまでが大変だった。

柳澤幹夫 昔は姓を聞けば皆分かったけどね。どこの部落でってね。今は全然、違う状態だからね。

OK あと、中八重原の水車小屋はいつ頃出来たんですか。

柳澤幹夫 あれは今から20年近くなるかな。というのはね、農地水の維持管理の費用が国から助成で来ているの。あれも儂が主導でやったんだけど。というのも今は農業離れしちゃって、水路を直してたって、全く無関心の人が多いわけ。それで大金が来ているようだが、どこに使っているだとかね、そういうことになっちゃうと困るし、農地水の事業の謳いの中に非農家も含めた地域全体の仕事にという部分も作れってことでね。そういうことで儂は、八重原で一番大事なものは水だよね、それで水車を回せば、今の現代のエネルギー源でもあるし、ほとばしる水滴が、水はすべての原点だから、とそういう意味合いで、あれを回してね。そしたらところが県で、金を出す方でもね、首を傾げて、水車の写真は事業報告に載せるなってことに(笑い)なって。それで、あれは水車だけで60万、2,3mの上に挙げるのにサイホンで上げるわけだけど、それが20万くらいで、全部で80万くらい掛かったんですよ。

OK あれは最高ですよ。八重原地区にもっとあってもいいですよね。

柳澤幹夫 子供が東京なんかに行っても、思い出せるような、地域の思い出の場所づくりには良いと思ったんだけどね。ちょっと逸脱した事業だった。

OK 去年の天空の芸術祭の時にあった案山子ね。良かったな。

柳澤幹夫 あれも、儂は天空の方の副実行委員長だったもんだから、地域で何か応援をしたいということで、案山子応援隊ってわけだ。それでやったところが、案山子なんか、長老しか出来ないから、年寄りの人10人ばかりの人に指名して、頼むわい、と言って。区にも行って区長にも頼んで役員会なんかにね、持ちかけたら、また層がね、子育ての人やら若い人が来て、出来た作品がまたバラエティに富んでいてね、田舎者なんて言わせない、芸術性やら持ってるよね。個人的に皆。今年も是非やると。

OK あらゆるところに柳澤幹夫の考えが加えられてるというのは最高のことだと思います。

柳澤幹夫 イルミネーションもそうだよね。子供たちもちょっと飾り付けの手伝いをしたりね。それこそ思い出になるしね。遊び心だね。そういうことによって地域がまとまるってこともあるよね。今は合わせて700万も補助が出ているから、それこそ区の予算の三倍も来ているわけ。それは用水道をしっかりと直さないとね、水害だとかね、住宅地にも影響するから。荒廃地を放っておくと鹿が入ったりするしね。でも、それだけだと人の繋がりが薄くなってしまうから。

S 今の幹夫さんのお話を聞いていて、今まで心配していたことが、それほど心配しなくて済むのかなと思いました。最初にちょっと質問したいなと思った事を。これから飯島さんの所でワイナリーを建てます。実は八重原の向こう側の藤沢の方でも、ワイン葡萄を栽培したりして、この周辺で続々とワイナリーが出来ようとしています。もともと丸子の方でもやっていて、また来年、出来ます。そうすると千曲川の南側にものすごい人が来る。とんでもない人の数が来ると思います。そういうのを地域の人たちが、抵抗なく受け入れられるのかなというのは、大丈夫だとは思うんですが、幹夫さん的にはどう思われてますか。

柳澤幹夫 儂はさっきグリーンツーリズムで、期待するのはもちろん交流もあるけれど、労力的にもお手伝いして貰えれば有り難いし、それによって農産物が、ファンが増えて貰えれば、例えばお米を一年分、とか予約して、定期的に送って下さいっていうお客さんが出れば、本当に有り難いことですよね。今農協なんかに出していると、安くって採算が取れないわけ。だから大手の所に預けちゃうわけ。

S

 先週も銀座長野っていうアンテナショップでシンポジウム、ミーティングがあって出たんです。北御牧というより、旧東部町がいろいろなイベント企画をしてるんですよ。市役所関係の人が言うには、北御牧地区には明神館もあるし、いろいろな施設があるけれども、良い企画が出て来ないと。向こうはワイナリーが6つもあって、ビール工場があったりとかするのでいいんですが、こっち側に来るとなると線路から川を渡って大地まで上がれないんだと。電車で来た人たちは。交通手段がないとすると、自転車で来たとしても上がってくるのは大変ですし、地域のバスでも何でもいいんですが、出来るともっといいだろうなと思うし、ボランティアになるか分からないんですけど、例えば何か連絡をつけて地域の人で時間の空いている人が送り迎えするとかね。してあげるようなことが可能なのかどうか、そういう所まで含めて、本当に今後ものすごい数の人がこっち側に、今まであっち側に東部側までしか行かなかった人たちが、逆にこちら側をメインにして来るようになる。本当に将来こちら側が日本のワインの中心地になるんですよ。それくらいみんなこちら側にシフトしてきている。

柳澤幹夫 すごいね。

S だからそういうことも含めて、今後明神館も含めてみんなが協力して受け入れられるのかなと。幹夫さんは働きかけをしてくれるんですか。

柳澤幹夫 これからはそういう時代だと思うので、相談しながらね。都市と農村の交流が今一番の課題だから、これを田舎側で拒否するってことはないと思うし、上手にね、なんか交流の会なりで、十分接点を持ってれば、そういうことは上手く行くんじゃないかと思うんだけどね。どういう会にすればいいのか、ワイン会でもいいし。

S お酒を飲むと、交通手段の他に宿泊施設も必要になってくるんですよね。さっきのお話のように、例えば幹夫さんの使ってない建物があって、そういう所がゲストハウスとして使えるようにするとかっていう手を考えると、敷居が低くなると思うんですよね。これから5年後、10年後にはここが日本のワインの中心地になりますよ。藤原に22ヘクタールのブドウ園がありますので、それとシクロビンヤードがあり、立科にもありますし。この近くにも畑が出来ているので、本当に北側は、10年後にはあそこは10年くらい前には盛んだったそうだ、と言われるようになると私は思ってます。

柳澤幹夫 それは粘土質の土壌で出来るワインを期待してることはあるでしょうね。

S それはもう、間違いない。そういうふうに耳にしてます。シクロさんとも話をしていますが、もっともっと世界に誇れる発展を期待できると思っています。

柳澤幹夫 儂は定年帰農といって定年になったら農業をやるということを提唱しているんだけど、いろいろ難しいこともあるようだね。それで飯田の方へいったらサラリーマンが定年して、家を持って、結構農村の大きい家を持ってるから、それを貸して、民泊だよね。それでそれなりの年金、プラスアルファで、やっていくってことも聞いてきました。うちの方だってみんな昔のでっかい家を持ってるからね。そういうふうに一定の所得があればね、そういうことも十分可能だと思うし、俺はそういうことを言うんだけど、女衆はやっぱり食べ物のこととか、いろいろ心配があって、いい顔はしないけどね。でも、0じゃないと思いますよ。

S いろいろ話が出た中で、東京からこっちに度々来る人が言うには、こちらには泊まる所がない、と。田中を中心に泊まる所がどこにもないから、しょうがないから軽井沢に泊まるか、上田に泊まる、と。電車で来て、タクシーで行く、と、そう言うんですね。そういう形が多いと。やっぱり泊まる所がないと、いくら観光資源があってもキャパシティが小さい、と。大勢人が来ても泊まらないで、ただ通過するだけだと。

柳澤幹夫 そうだね。そういうことだよね。

TM 農作業のお手伝いをすると、あそこのコテージで3000円で泊まれるということですね。それで是非お手伝いをしたいなと思っていますけれども。そういうのが増えると可能性が広がりますかね。

S ただ、こういう所に来る人は、やっぱり綺麗な、どこにでもある様なコテージじゃなくて、古民家みたいな所に泊まりたいんじゃないかと、私は思うんですよね。私はそういう口なんで。

TM では、幹夫さんのお宅のような所ですね。ワインを飲みながら。(笑い)

S それがいいような気がするんですけどね。

柳澤幹夫  トウモロコシでも撒いておいて、また生育状況を見に来たり、収穫を楽しんだりね、家族でそういうようなことを出来たらいいと思うけどね。出来ればね。夜はワインを飲んで。食事がね、なかなか。素泊まりならいいが。

S それでいいんですよ。極端な話、お風呂だって、スーパー銭湯もいくらもありますから。そこにどうやって、という交通手段ですね。送り迎えのご協力が出来るお宅があれば、まあ食事の心配はいらないと思うんですよね。

柳澤幹夫 食事はいろいろ資格もあるでしょうから、そういうことも考えながらPRしながら、雰囲気を作って。

S 来年丸子にワイナリーが建つと、来年にはそういうお客さんが、北側のお客さんじゃないんです、東京とかから山梨に来ていたお客さんが、みんなこっちに来るんですよ。だからエライことになると思うんですよ。

柳澤幹夫 見れば景色がいいからね。

S 来れば一番近いのはシクロビンヤードですから。必ずこっちも。そうすると中八重原のこの辺は東京都か山梨から来るお客さんで大変なことになる。

KK 私もグリーンツーリズムというのが頭にあって、何故ここにまる屋さんを、私たちが麻美さんを、協力してやっているかというと、あそこに憩いの家があるんですよね。あの憩いの家を振興公社でやっているけれども、価値としてもったいないなと思って、グリーンツーリズムをきちんと定番としてやっていったら、あそこは食堂もあるし雑魚寝でも出来るしね。遊ぶことも出来る。これだけのグリーンのある所をね、麻美さんのような活動も出来るし、人がきちんと定着できる所を、ここの土地の人が先頭を持ってやっていただけると違う形でいっぱい出てくると思うの。食事としたら原材料を使って私たちがいろいろ作っているし、いろんな知恵がそこに集まってきて、集約してくると思うんだよ。その先頭を切って頂きたいと。だから、早くやらないと間に合わなくなっちゃう。(笑い)脅かすようだけど、本当にねえ。

柳澤幹夫 あの世からいつお迎えが来ても可笑しくないと思ってるけど。(笑い)

KK そんなこと言ってる前にちょっと段取りしてくれないと。私たちじゃ出来ないから。やっぱり柳澤さんがやるから、皆が付いて行くんだから。協力するよって言えるじゃないですか。でもそれはすごく大きいと思う。とにかくあそこはもったいないと思うんですよ。送り迎えも出来るし、事務局だって出来るし、観光バスだって入って来られるんですよ。市がやりますか、それだけのこと。やりませんよね、おそらく。やっぱり地元でやって頂けないと。たぶん強いかな、と。そこから始まるんだと思う。そんなに大それたホテルだのが出来るわけがないんだから。やはり地元の人の協力で、きちんと組織が出来て行ったらすごいかな、と。協力体制がいっぱい出来るかな、逆に。少しずづの協力がね。

S 例えば一人とかのお客さんだったら軽トラで迎えに行って、軽トラで連れて来るというようなことって、結構病み付きにやるんじゃないかと思うんですよ。爽快感で。(笑い)異質の快感というものを感じるんじゃないかと。千曲川の所からこの高度差を味わってここまで来ると感激するんじゃないかな。

KK セカンドやローで思いっきり飛ばしてね。(笑い)

司会 有り難うございました。時間が遅くなりまして申し訳ありません。最後に一言お言葉を頂いて終わりにしたいと思います。

柳澤幹夫 熱心に聞いて頂いて、私も普段モロコシと話しているだけなので(笑い)通じなかったかも知れないけど、有り難うございました。今も話が出ましたが、新しい姿がね、映し出されています。やっぱり新旧住民の交流の会をこういう形にすればいいなと。そういう会を作って、そういう組織を作っていくことが必要だと思います。私も残された時間は少ないですが、努力はするつもりは十分あります。何とか今日の話のまとめとして、できればなあと。儂も前から感じてますが、具体的にそういう話が聞けて、そういう面で非常に良かったなと思います。有り難うございました

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